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テレサ・テンの夢

 1989年6月9日未明、中国北京では民主化を求め天安門広場に集まった学生を中心とする市民が、軍によって武力弾圧された。いわゆる天安門事件だ。アジアの歌姫といわれたテレサ・テン(鄧麗君)も、この惨劇によって人生を狂わされた一人だった。
 台湾生まれのテレサは10代から才能を開花させてスターダムをのし上がった。70年代には香港に進出し、成功を収める。やがて80年代になると中国大陸でも公には「精神汚染」をもたらすとされ禁止されていたにもかかわらず、広く聴かれるようになった。
 それを人々は次のように言ったという「白天聴老鄧 晩上聴小鄧」、すなわち「昼は(中国の最高指導者)鄧小平の話を聞き、夜は鄧麗君の歌を聴く」。テレサの人気はシンガポール、マレーシア、ベトナム、タイなどにも波及。中国大陸でも改革開放政策が進む中、86年、胡耀邦総書記の指示によってテレサは名誉回復を果たす。
 ユニバーサル・ミュージックのバイオグラフィーによると、80年代末ごろには中国大陸から北京、上海などでのコンサートの依頼があった。だが、89年4月半ばに改革派の旗手であった胡元総書記が死去し、それをきっかけに北京などで民主化運動が起こっていった。
 そのさなか同5月末には香港のハッピーバレー競馬場で約30万人を集めた天安門学生支援マラソン・コンサートが開かれ、テレサも飛び入りで参加し、反共的メッセージ色がある「我的家在山的那一辺」(私の家は山の向こう)を歌った。天安門で歌うという夢を持っていた彼女は、まさにその場所で起こった悲劇に計り知れぬショックを受けた。
 ジャーナリストの篠崎弘氏によると、テレサの日本での一般的イメージは「アジアからやってきた一種の出稼ぎ演歌歌手」だった。74年に日本でデビュー。「空港」などがヒット。一時的な日本での活動休止を経て、84年には再出発をかけたシングル「つぐない」、続く「愛人」(85)、「時の流れに身をまかせ」(86)も大ヒットし、日本有線大賞、全日本有線放送大賞を3年連続で、グランプリ受賞するなど絶頂期を迎えた。
 一方、台湾、中国、香港、シンガポール、マレーシアなどあらゆる国・地域の華人社会とその周辺においてテレサは単なるスーパースターだっただけでなく、「アジアでは数十億にもおよぼうかという華人社会を一つに結ぶ文化的アイデンティティーの巨大な象徴」(篠崎氏)ともいえた。テレサの動向には中国政府も神経質にならざるをえなかっただろう。
 天安門事件によって断たれた大陸進出の夢。89年秋には香港を離れ、傷心のテレサはパリへと旅立つ。そして95年5月、滞在先のタイ北部チェンマイで気管支喘息の発作による呼吸困難で亡くなった。42歳だった。
 それから27年(注)。中国政府はいまだに天安門事件を「騒乱」呼ばわりし、香港国家安全維持法を施行するなど、民主化勢力への弾圧は弱まるどころかむしろ強まっている。さらに中国政府の台湾への圧力も増している。
 いったい、いつになったらテレサの魂が安らかになるのだろうか?

 (注:初出はKyodo Weekly2022年6月20日号)

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