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コロナ禍在宅看取り15(最期のとき後編)

母が亡くなる1週間前、実家との距離が遠かった一番下の妹がついにスーツケースを抱えてやってきました。
そのおかげで、私や父はどうにか仕事やパートを気力でこなすことができましたし、何も話さなくても家族同士が同じ家にいて、いろんな感情を持って母の介護をしていくことは、とても精神衛生上いいものだったと今になって思います。

他にも叔母が東京からきて、1週間ほど滞在してくれたりもしていて、とにかく毎日みんなが心を忙しくしてるような状態が続きました。気を抜くと母の前でも泣いてしまいそうで怖かったんだと思います。

最期の3日間は、水分をとても欲しがっていましたが、気管や肺に入ると危ないとの理由からスポンジを湿らせたもので頻繁に口腔内を湿らせていました。

体には黄疸がで始めていましたし、皮膚の痒みも訴えていて、軟膏を塗ったり冷やしたりして対処してあげることしかできず、父もこの頃になると会社を休み常に母のそばで仕事をしていました。

だんだん意思の疎通が難しくなり、発語もほとんどできずでしたが、亡くなる3日前の2021年7月22日夜だったと思います。なんとなく家族全員、母も入れて総勢14人が集まりました。人間の勘なのか状況なのかわかりませんが、本当に偶然妹たち家族が総出で帰って来たんです。
するとその夜母がか細い声で、みんなを集めて欲しいと言いました。みんなおるよ、大丈夫だよと声をかけたら、部屋にみんなを呼んで欲しいと。

喋り終わったらドラマのように死んでしまうんではないかという不安の中、介護ベッドで狭くなった和室にみんな集まりました。
まだそこに生きているのに、みんな涙を堪えるのに必死で、母の声もほとんど聞こえない吐息だったのもあって、聞き取るのも大変でしたが、母は確かに
「みんなありがとう、ありがとう、ありがとう、」そう何度も言っていました。母は泣いておらず落ち着いた様子でしたが、もう私たちは誰も泣くことを我慢することはできませんでした。

翌朝7月23日、真ん中の妹家族は仕事で一旦帰っていきましたが、その日の夜中3時すぎに本で読んでいた下顎呼吸のようなものが始まり、もう24時間持たないかもれないと連絡を入れました。

この時点で訪問看護の方にも下顎呼吸のようなものが始まった旨連絡を入れました。
酸素濃度が測れなくなったら連絡をくださいと言われ、再度慌てないことを妹たち、父と確認し合いました。

7月24日の早朝に真ん中の妹はバタバタやってきましたが、その日はどうにか持ち堪えました。

この3日間6畳の和室に介護ベッドを入れた父の書斎に、シングルを1枚だけひいて、姉妹3人と父が交代で母の様子を確認していましたが、この日は姉妹3人で1枚の布でうたた寝をしながら見守ってました。

24日は明け方までほとんど寝らず、ずっとパルスオキシメーターで酸素濃度を計っていた一番下の妹が朝方6時すぎにもう酸素濃度が測れない、、、と

父はすぐ隣のリビングで布団を敷いて寝てたので、慌てて起こしに行きましたが、その時には母の顔はどす黒くなっており、酸素が足りてないことを物語っており、父は和室に入るなり、母の名前を呼び、それから静かに、今日はこの部屋にもう子どもたちを入れるなと言いました。

すぐに訪問看護の方に連絡を入れると、先生に伝えてすぐ向かいますと電話を一旦切りましたが、その数分後に母は娘たちと夫である父に見守られながら息を引き取りました。