『天気雨』
橙色の光が木々の隙間から差し込む。
俺は通勤路である人気(ひとけ)のない山道を歩いていた。
冬が近づいているためか、この時間帯にはもう日が暮れようとしている。
暗い山道は危険なので、時期がきたら遠回りになるが自転車で一般道を通うことにしよう。
そんなことを考えていると、雨がパラパラと降り始めたではないか。
見上げると、空は晴れている。
『天気雨』というやつか。
あいにく折りたたみ傘は持ち合わせていなかったが、幸いなことに激しく降る様子はない。
少し濡れる程度ならいいかと思い、そのまま山道を進んでいた。
突然、後ろからもの凄いスピードで迫ってくる動物の足音が聞こえた。
俺は猪かと思い、慌てて振り返った。
猪は危ない。下手をするとやられる。
しかし猪ではなかった。狐だ!
狐なのだが……。
ただの狐ではなかった。
白装束の、“花嫁姿”を身に纏った狐だった。
呆気に取られてる俺に、四足歩行で迫ってくる。
びっくりしすぎると、人間って本当に身動き出来なくなるんだな。
避ける間もなかった。
その狐は俺の顔面に覆いかぶさってきたのだ。
しかも「会いたかった!」と人の言葉を発しながら。
「おうふ……」
「お願い! わたしを連れ出して!」
言葉を話す狐かぁ。これが妖怪というものなのだろうか。夢でも見ているのかもしれないなぁ。
などと悠長に考えている暇も、本来は驚くところだがそれどころでもない!
「ふがふが!」
狐はがっちりと俺の顔にホールドしているため、俺はくぐもった声しか出せない。
なんとか鼻で息は出来るものの、まともに話すことは出来ない。
うおおおお! ケモノくさい!
目もがっつり覆われているから、何も見えねぇ!
夢にしても、何にせよ、まずはこの狐を顔から引き離さなければならない。
そう思っていると、
「おい! 待ってくれぇ!」
という男の声が聞こえてきた。
おっと、これは面倒なことになりそうな予感がするぞ。
「そいつか! そいつなのか!」
「そうよ! この人よ!」
いったい何の話をしているのだろうか。
目の前が全く見えない状況だが、俺に覆いかぶさっている狐、『花嫁狐』としておくが、花嫁狐と会話をしている男の声は足元から聞こえている。
おそらくこいつも狐なんだろうと推察する。
そうでなくても人間ではなさそうだ。
「わたしはあなたとは結婚できない! この人と結婚します!」
花嫁狐はそう言い放った。
ンンンンンンンン? 何だって?
『この人』とは、もしやとは思うが、俺のことだろうか。
「そんな! どうして僕じゃダメなんだ!」
相手の狐が必死に叫んぶ。
「わたしは親同士が勝手に決めた結婚なんてやっぱり嫌! 愛する人同士で結婚がしたいの!」
そう花嫁狐が叫んで答える。
話が見えてきたぞ。
どうやら、狐同士の結婚のもつれ話らしい。
しかし、俺は全く身に覚えがない。
なにゆえ、俺が巻き込まれているんだ?
過去の記憶を辿ってみる。
そうだ、あれは……何十年前だろう。
俺がまだ小さかった頃、この山を父さんと歩いていたときに迷子になったんだ。
そのとき山の中に罠にかかった狐がいた。
まだ子ぎつねだった。
かわいそうだと思った幼き俺は、その狐を逃してやったんだ……。
…………。
……いや、ないわ。
そんなことはしたことがないわ。
それっぽい空想をしてみたが、そんな記憶は一切ないわ。
とにかく巻き込まれてはたまらない。
しかし下手に、
「自分は関係ないっスよ〜、はっはっは」
などと言ってしまって平気だろうか。
恨まれたり、祟られたりしないだろうか。
とりあえずは状況をもっとよく把握しなくては。
そのためにはやはり、この花嫁狐を顔からひっぺがさなくてはならない。
再度それを試みようと花嫁狐に触れようとしたら、更に違う声が聞こえた。
「お待ち!」
少し低めの女の声だ。
「お、お母さん……」
花嫁狐が驚きながら答える。
一向に状況が見えないが、どうやら花嫁狐の母親が登場したらしい。
ちょっと勘弁してくれませんか?
これ以上ややこしくさせないで下さいませんか?
「はぁ。……その方があなたが愛している人なの?」
母親狐らしき声はため息をついたあと、花嫁狐に尋ねた。
「……うん」
花嫁狐が頷くのが顔前で分かった。
え? そうなんですか?
俺は初耳なんですけれど?
「……分かったわ。あなたの好きにしなさい」
「な! 母さん!」
今度は年老いた男の違う狐(仮)の声が聞こえてきた。
「あなたは黙ってて!」
うむ。これはおそらく花嫁狐の父親だろう。もう慣れてきたぞ。
でもちょっと増えすぎていませんかね?
今どのくらいの数の狐が集まってるんだろう。
花嫁狐、相手の狐、母親狐、父親狐……。
ざっと把握している限りはこの通り。
もっと周りに沢山いたらどうしようか……。
前言撤回。少し怖くなってきた。
ここはじっと耐えて様子を伺ったほうが良さそうだ。
「コン太さん、ごめんなさい。娘との結婚取り止めにしてほしいの」
母親狐が相手の狐にそう話した。
へぇ、相手の狐の名は『コン太』というのか。
はぁ〜、どうでもいいなぁ〜〜!
「そ、そんな! 僕は絶対に彼女を幸せにします! どうか!」
コン太が必死に叫ぶ。
いけぇ! 頑張れコン太!
俺はただ巻き込まれているだけだかんな〜!
「貴方にも、貴方のご両家にも本当にお世話になっています。でも……でも! 私は娘には心から本当の幸せを掴んで欲しいと思っているの。娘の幸せを私は……!」
涙ながらに話す母親狐の声が聞こえてくる。
「お母さん…」花嫁狐が呟く。
「お義母さん…」コン太が呟く。
お母さん……。俺が心の中で呟く。
俺は……俺は関係ないんです……。
「コン太くん、すまない。わしからも頼む……」
今度は父親狐が申し訳なさそうに話す。
「あなた……」母親狐が呟く。
「お父さん……」花嫁狐が呟く。
「お義父さん……」コン太が呟く。
お父さん……。俺が心の中で呟く。
俺は……本当に関係ないんですよ……。
「…………くっ………わかり、ました」
コン太が絞り出すような声で答えた。
ええええええええ!?
コン太くん、待って、分からないで!
早いよォ! 諦めんなよォ!
根性見せろよォ!!
もう祟られてもいい!
俺が真実を説明してやる!
花嫁狐を引き剥がそうと勢いよく引っ張るが、花嫁狐はすごい力で俺にしがみついて離れない。
くそ! こいつ!
どうあっても離れないつもりか!
うおおお! いいかげんにしろぉ!!
「ふがががが!!」
「いやん、積極的……」
このやろう!
「そんなに愛し合っているんですね……ぼくは潔く諦めます。どうか、お幸せに……うっ……」
タタタタッと走り去る音が聞こえる。
え?! 嘘! コン太くん行っちゃった?! コン太ァ! 行かないでコン太ァ!! 違うからァ! そんなんじゃないからァ!!
「そ、それじゃあ、私達も……」
「後はお熱い若い二人だけでということで……」
え? え?
ちょっと……お義父さんとお義母さん??
行かないで下さい! お義父さんとお義母さん!
…………。
って違うよ?! お義父さんとお義母さんじゃないよ!
いや、そうじゃなくて……。
「ええい! いいかげん離れろォォ!」
ようやくベリッと顔から花嫁狐を離した。
目と目が合う……が、ときめきなど生まれようがない。
両手に掴んでいるそれは、本当にただの動物の狐そのものなのだから。
「うふふ。助かりました」
「どういうことですかねぇ……」
「わたし結婚が嫌で……都合よくあなたがいたものだから」
「はぁ……体良く利用されたというわけですか……」
腹が立つが、とにかく俺はこれでやっと解放されるのか。
どっと疲れた。
うああ……口に毛が……。
もう季節関係なく、この道は通らないようにしよう。
「でもわたし、あなたに一目惚れしてしまいました」
花嫁狐が頬を紅くしながら突拍子もないことを言った。
「……………ははっ」
俺の脳内のキャパシティが耐えきれなくなったのか、「もうどうにでもなれ」という気持ちになり、乾いた笑しか出てこなかった。
いつのまにか天気雨は止み、辺りは暗くなりかけていた。
日が完全に落ちると山道は危ない。
後で家でゆっくりとこの花嫁狐を問い詰めることにしよう。
せめてこれが『鶴の恩返し』のように、人型の女性の姿だったら良かったのになぁ。
そう考えながら花嫁狐を両腕で抱えて山道を下る。
「これからよろしくお願いしますね」
花嫁狐は俺の頬をむぎゅっと掴まむと、クスクスと笑った。
つままれた頰は痛かったので、今更だが、これは夢ではないと実感した。
これが『狐につままれる』というやつだろうか。
いや、こんな物理的な意味ではなかった気がする。
それに、本当に『狐につままれた』のは、花嫁狐に騙された、他の狐達だったのかもしれない。
おしまい。
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