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落語日記 キモ可笑しさの極致を見せてくれた柳家さん助師匠

第三回 十字屋落語会 馬治・さん助二人会
7月31日 湯島十字屋ビル
 二週間前に同じ会場で行われた馬治師匠とさん助師匠の二人会。今回が元々予定されていた日程なので、結果的に短いインターバルとなった。にもかかわらず、コロナ禍のなか、定員いっぱいの盛況。とはいっても、限定20名の少数精鋭の客席。この日も、顔見知りの常連さんも多かった。有難いかぎり。

 クラブの店舗だった会場、配置や換気方法など前回の経験を活かした工夫があった。回を重ねるごとに改良があるという、手作り感あふれる会。
 湯島天神で開催されていた頃から、芸風の違う落語家二人の組み合わせの妙が存分に発揮されている会なので、追いかけてきた。
 ここでは、毎回、異なった組み合わせの妙が味わえるのが、また楽しい。おそらく、さん助師匠は毎回、独自路線の芸をマイペースで披露し続けている。そこに馬治師匠が、さん助風に寄ったり、真逆路線で反発したりすることで、不思議な化学反応が起きるのだ。

 前回は、馬治師匠がさん助師匠に寄ったような二人ともフワフワした雰囲気で、呑気で馬鹿馬鹿しい滑稽噺が四席並んだ会だった。
 今回は前回とまた雰囲気が違う。さん助師匠の珍しく不思議な演目と馬治師匠の鉄板ネタがガッチリと四つに組んだ会。どちらも、マイペースでそれぞれの芸風をぶつけ合った。
 これによる化学反応は、それぞれの芸風の違いが際立ったというもの。今回は、このギャップによる効果は、さん助師匠にメリットが多かったように感じる。これは、今回のトリであるさん助師匠を引き立てた馬治師匠の二席が果たした役割も大きかったと思う。

柳家さん助「鼻ほしい」
 今回は前座なし。なので、前座の一席の後に掛けようと準備してきたこの噺を、開口一番に掛けることに、さん助師匠は非常に抵抗を感じたようだ。でも、いきなり一席目にこの噺ではと思いますが、仕込んできたのでやります、と宣言して始める。
 鼻が欠けた武士が主人公の噺。私は初めて聴いた。「鼻が抜ける」という言葉の説明から入る。ネットで調べると、この噺には病気で鼻が欠けてしまった設定と、無礼討ちの返り討ちで鼻を削ぎ落された設定があるようだ。さん助師匠の設定は、どちらかよく分からなかった。

 鼻が無いので、この武士の喋る言葉は不明瞭。さん助師匠が聴かせる武士のセリフは、フニャフニャしていて、いかにも鼻がない人はこんな風に喋るだろうという話し方。これが、さん助師匠ならではの、ちょっと間抜け風に寄った不思議さで、つられてついつい笑ってしまう。しかし、人の欠点を笑うことには抵抗もある。この噺は、観客のそんな笑いに対する抵抗感を乗り越えて笑わせる難しさがあるのだ。さん助師匠はそのキャラの不思議さ、可笑しさで乗り越えていたように思う。観客の一人としても、キャラの可笑しさで、聴いている間は抵抗感が薄れていた。

 とは言っても、この噺は身体的な欠点を笑う差別的な噺であることは間違いない。おそらく、小さい小屋のライブでしか聴けないような噺。放送は出来ない演目だろう。こんな噺が存在するのも古典落語なのだ。
 この噺に正面から取り組み、ご自身のキャラを活かして語り切ったさん助師匠。悲惨さを感じさせず、笑いに昇華させていたというのは、さん助師匠の技量の高さの証し。

金原亭馬治「笠碁」
 今回は交替でさん助師匠がトリ。なので、仲入り前と膝代りの出番が馬治師匠。
 マクラは、本日は落語協会の定時社員総会でした、という話題。実は、私も落語協会の社員だったと今更感たっぷり。議長は市馬会長、居並ぶ役員はみな落語家なので、なかなか楽しい会議だったようだ。なかでも会計監査の権太楼師匠が今回勇退されるので、挨拶されたそうだが、会場爆笑だったそうだ。見学してみたい総会だ。
 そこから定番の趣味のマクラで本編へ。何度も聴いている十八番、鉄板の演目。この日は、さん助師匠がトリで主役。こんなときは、見事に脇役に徹する馬治師匠。常連さんの前でも場を壊さない綺麗な高座で、さん助師匠の邪魔にならないような高座をみせる。そんなときの馬治師匠は、割と自由に流れに身を任せるようでもある。近江屋さんと相模屋さんが乗り移って、仲良く喧嘩していた。

仲入り

金原亭馬治「代書屋」
 二席目も十八番の滑稽噺。この噺も何度も聴いている。定番のボケとツッコミ。田舎弁の不思議な江戸っ子が登場するが、さん助師匠のような不思議さはない。芸風の違いとしか言いようがないが、馬治師匠のきっちりした一席の後で、さん助師匠の芸風の可笑しさがより際立つ効果がある。
 二席目も冒険せず、さん助のトリの一席の露払い役に徹した馬治師匠。

柳家さん助「夏の医者」
 二席目も初めて聴く噺。ネットで調べると元々は上方落語。この日はトリも務めるためか、珍しい噺にチャレンジしたさん助師匠。
 下げの言葉が難しいので、マクラで前説。「夏のチシャは腹へ障(さわ)る。」という昔のコトワザがあったらしい。チシャというのは、野菜のレタスの和名とのこと。この噺のチシャは、カキヂシャといってリーフレタスを指すらしい。これは現代では、説明がないと通じ合ない下げのひとつだ。

 噺は農村が舞台。父親の具合が悪くなって、その息子が隣村まで医者を呼びに行く噺。実直な息子と、のんびりとした田舎医者の会話が長閑で楽しい。日本昔話のような民話の世界。田舎弁が似合うさん助師匠。
 訪ねた医者がどこか怪しい。やっとのことで連れ出すが、医者と息子が二人で山を越える道中からファンタジーの世界へ突入。辺りが急に暗くなったと思ったら、ウワバミに呑み込まれた二人。クジラに呑み込まれたピノキオのよう。ウワバミの腹の中でのドロドロした描写が、ややスプラッター。ここでの表現は、生理的な気持ち悪さと可笑しさの紙一重の境界線上にある。

 今回のさん助師匠の二席は、登場人物がどこか浮世離れしている。特に二席目のこの噺に登場した田舎の医者は、現実世界の人物を描いているのだが、民話の登場人物や空想世界の住人のような存在なのだ。
 筋書き自体がファンタジーなのだが、その登場人物がすでに異人。映画「異人たちとの夏」の異人。異界の住人、もののけ、正体がつかめない怖さ、不思議さ、気持ち悪さ、そんな登場人物。そのうえで、この異人の行動が笑いを呼ぶ。気持ち悪いけど可笑しい。「キモ可笑しい」とでも名付けたい可笑しさだ。

 今回、馬治師匠の本寸法正統派の笠碁と組み合わさることによって、さん助師匠のキモ可笑しさがより際立った。
 馬治師匠の芸を観る目にも、さん助師匠の影響は大きい。トンデモナイ田舎風のふざけた江戸っ子が登場する馬治師匠の得意の代書屋が、さん助師匠の「鼻ほしい」の後では、きっちりとした本寸法の一席に感じるという不思議。これが正に組み合わせの妙なのだ。

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