見出し画像

落語徒然草 その8 いくら食べてものんこのしゃあ

年が明けて鏡開きも済んだ頃となってしまったが、私の落語始めは、まだ済んでいない。例年、寄席の初席のどこかで行くことにしていたが、既に二之席も始まってしまった。やはりコロナ禍の下で、何となく抵抗感もあって、行きそびれてしまった。今週末の落語会が、落語始めになる予定。
そんな状況なので落語日記も書けず、そこで、昨年後半に気付いたある噺についてのあれこれを書いてみたい。

前座噺としても有名で、よく聴かれる演目に「金明竹」がある。あらすじを簡単にいうと、古物商いの商家に訪ねて来た使者が、早口で上方訛りの口上を述べて帰ってしまったので、よく聞きとれなかった小僧と女将が悪戦苦闘するという噺。
この噺のなかで、女将さんが使者の口上として間違って聞こえた「いくら食べてものんこのしゃあ」というセリフがある。この噺をご存知の方なら、結構有名なセリフだ。今回は、このセリフについて取り上げる。

この噺に登場する使者の口上は、演者によって微妙に異なる。私が一番聴いている型は、おそらく三代目三遊亭金馬師のものと思われる。この型で語る演者は多い。
「わて、中橋の加賀屋佐吉方から参じました。先度、仲買の弥市の取次ぎました道具七品のうち、祐乗、光乗、宗乗三作の三所物。並びに備前長船の則光、 四分一ごしらえ横谷宗珉小柄付きの脇差、柄前はな、旦那はんが古鉄刀木と言やはっとりましたが、やっぱりありゃ埋もれ木じゃそうにな、木ぃが違うておりまっさかいなあ、念のため、ちょっとお断り申します。
次は、のんこの茶碗。黄檗山金明竹、ずんどうの花活け。古池や蛙飛び込む水の音と申します、あれは、風羅坊正筆の掛け物で。沢庵、木庵、隠元禅師はりまぜの小屏風、あの屏風はなあ、もし、わての旦那の檀那寺が、兵庫におましてな、この兵庫の坊主の好みまする屏風じゃによって、かようお伝え願います」

これを早口の上方訛りで聞かされた女将さんが聞こえたのは、こんな風だ。
「仲買の弥市の気が違って、遊女を買って、それが孝女で、寸胴切りにして、沢庵にインゲン豆を食べて、いくら食べてものんこのしゃあ。備前に親船で行こうとしたら兵庫に着いて、兵庫の寺に坊さんがいて、後ろに屏風が立ってて、後ろに坊さんがいて、屏風があって坊さんがいる」
これを女将から伝えられた主人は、本来の口上が解るはずがない。今回取り上げたセリフはこの中に登場する「いくら食べてものんこのしゃあ」のところ。このセリフは、正しくは「のんこの茶碗」の聞き間違いである。

御存知の方も多いと思うが、この「のんこの茶碗」について軽くおさらい。
「のんこ」とは、安土桃山時代から江戸時代初頭にかけての陶芸家で、楽茶碗で有名な楽家の三代目当主、楽道入のこと。別名「ノンコウ」と呼ばれていたので、「のんこの茶碗」とは楽道入作の茶道具である楽茶碗ということだろう。
これは現代でもかなりのお宝。この金明竹に登場する道具七品は、すべてお宝なのだ。

この「のんこの茶碗」が「いくら食べてものんこのしゃあ」となぜ聞き間違ったのか。「のんこ」しか合っていない、そんな違和感があった。
私はこの「いくら食べてものんこのしゃあ」を、下ネタだと思って今までずっと聴いてきた。この「しゃあ」の音が、尾籠な話だが、下痢を連想させるものだったので、そう思ってずっと聴いてきたのだ。
ところが、「のんこのしゃあ」という言葉が存在することを、昨年あるときネットのどなたかの書き込みで拝見した。そんな言葉があることを知らなかったのだ。
そこで、手元にある新明解国語辞典を引いてみた。すると、載っていた。意味として「ずうずうしい・こと(人)」とあるではないか。ネットでも意味を調べてみると、「のん気で、しゃあしゃあしていること。平気で、ずうずうしいこと。また、その人。のんびりしていて、厚かましく恥じらいが無いこと」などの解釈が出て来た。夏目漱石の「道草」で使用されている例文もあった。今ではほとんど使われることのない「のんこのしゃあ」、以前は使われていた言葉だったのだ。
と言うことは、「いくら食べてものんこのしゃあ」は、「いくら食べても、平気で食べ続ける、ずうずうしく厚かましい人」という解釈が出来る。下ネタではないということだ。

女将さんは「のんこのしゃあ」という言葉を普段から使っていたから、聞きなれない「のんこの茶碗」をそう勘違いしてしまったのだ。なるほど、そう考えた方が納得がいくし、辻褄が合う。下ネタじゃないので下品にもならない。
下ネタなのか、ずうずうしいという意味なのか、どちらかなのか結論は出せないだろう。演者側もどちらを意図して語っているかは、観客にはなかなか分からない。私が下ネタだと思ってきたように、演者側もそういう意図だったかもしれない。結局は、どちらでも構わないとは思う。しかし、「のんこのしゃあ」という言葉が存在することを知ってからは、今は落語の世界でしか聴くことができない言葉なので、落語ファンとしては本来の意味を大切にしたいとは思う。そんな言葉は、落語の世界には他にもまだまだ存在するのだ。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?