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落語日記 弟子たちを前に、百年目を語って聞かせた馬生師匠

金原亭馬生独演会(第3回)
2月9日 江戸東京博物館小ホール
馬治師匠がプロデュースしている馬生師匠の独演会。昨年から始めて、今回が第3回。コロナ禍にあって仕事が減っているなか、馬生一門の出演機会を増やそうという趣旨で馬治師匠が企画した会。
馬治師匠は裏方に徹していて、出演は無ない。この日も鈴本演芸場で主任の高座を務めてから会場入りした馬治師匠。今月から来月にかけて寄席の出演が続くので忙しい。

今回は馬生師匠が「百年目」をネタ出し。馬生師匠の大ネタを聴ける貴重な機会なので、お目当てのご贔屓さんでこの日も盛況となった。今回も、裏方のお手伝いをさせてもらいながら鑑賞。
2月11日から始まる国立演芸場中席は、馬生師匠の主任興行。一門の皆さんも出演される。この日の次の落語の予定は、その主任興行。私にとっても、2月は馬生一門祭りとなった。

会場である江戸東京博物館は、平成5年に開館して約30年を経過しようとしている。施設の老朽化が進んできていることから、大規模改修工事を行うこととなった。そのため、本年4月1日から令和7年度中まで全館休館する。なので、この会場での開催は、今回で暫し休止。別の会場を探すことになる。
客席の段差がついて高座が観やすく、規模も落語会にちょうど良い大きさで、この会や馬治丹精会の会場として利用していた。気に入っていた会場だけに、残念だが仕方がない。会場選びは、いつも頭を悩ませている問題なのだ。

金原亭駒介「狸札」
前座仕事は、すっかりベテランの貫禄。高座度胸も付いてきた。

金原亭馬久「真田小僧」
一門ではよく聴く演目。この日も寄席サイズで、軽妙な語り口で会場を暖める。
この日は師匠と兄弟子の出番を盛り上げる役に徹した馬久さん。このように、出番による役目をわきまえて高座を務めるのが、馬生一門の素晴らしいところ。
ただし、寄席サイズに納めても、きっちりと「薩摩に落ちた」の下げまでの構成となっているところは見事。

金原亭馬玉「火焔太鼓」
この会は初出演の馬玉師匠。高座を拝見するのも久しぶり。
マクラから、にこやかで明るい表情は会場を和ませる。古道具屋の定番のマクラでも、きっちりと笑わせるのは、明るい馬玉師匠の持ち味の為せる技。
馬玉師匠でこの噺は初めてかも。志ん生所縁の古今亭一門が大切にしている演目。これを、馬生一門の中でも滑稽噺が得意の馬玉師匠で聴ける幸運。手伝いに来て良かった。
道具屋の主人は、裏表が無くお人好しの好人物だが、どこか思慮に欠ける甚兵衛さん。これと対照的な、口八丁の女房。亭主にきつく当たる女房と、表面では反発しながらも受け入れている甚兵衛さん。まさに、割れ鍋に綴じ蓋の夫婦。この夫婦の会話を聴いているだけで、心暖まる。

仲入り

金原亭馬生「百年目」
マクラでは、この会場が使えなくなるというお話。馬生師匠もこの会場を気に入っていたようだ。別の会場を探します、とおっしゃっていたから、この会を続けていただけるようで、これを聞いて常連さんたちも喜んだに違いない。
本編に繋がるマクラとして、下げのセリフ「百年目だと思いました」の由来の言葉である「ここで会ったが百年目」を解説。時代劇全盛のころは当たり前に通じていた言葉だが、最近は解説しないと通じなくなっていることを感じさせられる。

この演目は、商家の主人が奉公人を一人前の商人に育てていく様子が題材となっている。今で言う社員教育だろう。しかし、今と違っているのは、丁稚奉公という制度だ。子供の頃から住み込みで働き、商人としてだけではなく、文字通り人間としても大人に成長させてもらう仕組みがあった。
主人公の一番番頭も、大旦那からみれば、おねしょの癖も治らない子供のころから育てた奉公人なのだ。それが、今では、一番番頭として店を仕切り、隠れてお大尽遊びが出来るくらいに一人前の商人として成長した。そして、帳面を胡麻化すこともなく、相場で増やした小遣いでお大尽遊びが出来るくらいな才覚を発揮できるようになった。
そんな一番番頭は、大旦那に隠してきたお大尽遊びが露見して、今までの自分の働きすべてが否定されるのではないかという恐怖のどん底を味わう。
私は、これら主従の感慨、感情の起伏をしっかりと伝えるのが、この噺の肝だと思っている。馬生師匠は大旦那の貫禄と一番番頭の円熟味を醸し出しながら、これら主従の感情の起伏を見事に伝えてくれた。
1時間近い長講だったが、最後まで客席を引きつけて離さなかった熱演だった。

大旦那が栴檀とナンエン草の例え話をするとき、店に戻れば一番番頭が栴檀、店の奉公人がナンエン草になる、そのナンエン草たちに露を降ろしてやって下さい、と語る場面がある。なんだか、惣領弟子である馬治師匠に対して、弟弟子たちに露を降ろしてやって下さいと馬生師匠が語っているように聞こえて、商家の主従と落語家の師弟が重なって見えた。
前回の「淀五郎」もそうだったが、一門の弟子たちの前で、師匠として芸人の心構えを噺にのせて語って聞かせたように感じたのは、馬生一門ファンの欲目ではないと思うのだ。

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