落語日記 一朝師匠は素材の味を活かす和食料理人
一朝会 ~人形町スペシャル~
8月7日 日本橋社会教育会館ホール
オフィスエムズ主催の落語会は、自粛明けで再開されてから初訪問。全席指定ソーシャルディスタンスで限定70席、寄席と同じく市松模様の配置。
以前は浅草の見番で開催されていた会。昭和の寄席の雰囲気を楽しむ会として人気の会だった。ソーシャルディスタンスを維持するために会場を変えての開催となった。会場が変わっても、この会の常連で満員。まだまだ感染者が減少傾向とは言えないなか、この状況でも様々な対策や配慮の下、開催にこぎつけた主催者の取り組みには頭が下がる。
演者も主催者も観客も、ウイズコロナの状況で出来る範囲で生の落語と関わっている。こんな状況に悲観することなく、平時の環境でなくても、生の落語と接することができる有り難さを感じていたい。
春風亭与いち「唖の釣り」
この日の会場では勉強会のチラシが配られていた。前座ながら、木戸銭を貰う勉強会を開催するとは。この大胆さは、さすが一之輔師匠の弟子。この日も、前座が演るネタとは思えない演目に挑戦。前座らしからぬ堂々とした一席を見せてくれた。与いちさん、恐るべし。
春風亭一朝「紺屋高尾」
いつもは、ゲストがある会だが、この日は一朝師匠の二席のみ。しかし、結果的に長講二席それもトリネタ二席。普通なら、お腹いっぱいになるところだが、一朝師匠ならではの素材の味を活かした和風の味付けで、胃もたれ無しで満足感たっぷりの構成だった。
マクラは、色々な分野で名を残す人の話から、吉原で有名な花魁の高尾太夫、その歴代の解説。ということで、一席目は紺屋高尾ですか、と一気にテンションアップ。一朝師匠ではお初。古今亭系好きとしては、紺屋高尾よりも圧倒的に幾代餅を聴く機会が多い。さん喬師匠でも幾代餅を聴いている。なので、似て非なる二つの噺、ついつい比較してしまう。まずは、その違いで感じたところから。
まず出だしの場面。紺屋の奉公人の久蔵が寝込んでいる。この病床の久蔵を訪ねるのが医者の竹之内蘭石先生。ここが幾代餅とは大きく違う。この蘭石先生が恋の病であること見抜く。そのうえで、高尾太夫に会うには十両必要だが、一年で三両稼げるなら三年頑張れば会いに行ける、私が連れていく、と言葉で久蔵に希望を与えて回復させるという大活躍。なんと優秀な先生だ。診療よりも遊び好きという幾代餅の幇間医者、藪井竹庵とは大違い。
しかし、一朝師匠の蘭石先生は軽く飄々としている。遊びも好きで吉原の風習に詳しいだけでなく、男女の機微、恋愛事情にも精通し、久蔵を元気付ける粋人。
この紺屋高尾に登場する男たちは、みな軽くて明るい。裏表がなく金に執着しないところは、まさに江戸っ子気質。一朝師匠の高座は、流暢な江戸言葉を聴かせてくれるだけではない。馬鹿々々しいまでの江戸っ子の気質を見せてくれるのだ。
主人公の久蔵。吉原の花魁道中で高尾太夫に一目惚れという一途さ、錦絵を見ただけで患う幾代餅の清蔵のようなエキセントリックさは少なく、恋する男のリアルさの方が強い。
親方に貯めた給金を何に使うんだと聞かれて、照れてキュンとする表情を見せる久蔵。久蔵のお茶目さと同時に、一朝師匠の可愛さがあふれている。
紺屋の親方も江戸っ子気質あふれる男。ポンと一両出してやる気前の良さ、着物や草履まで貸して、久蔵を喜んで吉原へ送り出す。観客が心地良くなる清々しさだ。
私が今回一番強く感じた違い、それは久蔵が高尾太夫に真実を告げる場面。高尾太夫と二人っきりになって、まずは吸いつけ煙草の遣り取り。この丁寧な煙管の扱いから、高尾太夫が久蔵が気に入っていることが分かる。一服付けたあと、高尾太夫から「今度は何時来てくんなます」と問われる。
幾代餅を聴き慣れているので、えっー、ここで訊くのかと小さな驚き。幾代餅では、清蔵はたっぷりともてなされて幾代太夫と一夜を過ごし、そして後朝の別れの場面でこのセリフが登場。そこで清蔵の真実の告白という感動の場面となる。
ところが、高尾太夫は床入りもしない、会ったばかりの久蔵に、今度は何時来てくんなます。久蔵もそこで告白というタイミング。この違いは何だろう、ネットで色々と調べてみた。
吉原のしきたりで、客と遊女の初めての顔合わせは初会、二回目は裏、三回目は馴染み、と呼ばれていた。高級遊女の花魁ともなると、馴染みとなってようやく床入りが出来たらしい。つまり、初会では客に肌身は許さないというきまりだった。そんな吉原のしきたりに従えば、久蔵と高尾太夫の初会の場面は、リアルに描かれていたということになる。この設定は、圓生師の型のようだ。
そこから判断すると、幾代太夫と初会で床入り出来た幾代餅の設定は、吉原のしきたりに反しているものでリアリティの無い描写となるのだろうか。ところが、調べていくとそうでもないようなのだ。この三回の段階を踏むシステム、その実在が疑問視されているらしい。実在したとしても、江戸前期のころの大名や豪商を相手にしていた高級な花魁の中に、そんな接客を行った者もいたという、特異な例だったというのだ。また、作法や格式を重んじていた吉原、客層が町民に変わり高価な遊びが減って大衆化されたことにより、その風習が変わっていったようなのだ。実際のしきたりというよりも、誇張された吉原の作法として後世に伝わったものとも考えられている。
ということは、高尾太夫の初会の儀式は、吉原の伝承に基づく設定であり、初会で床入りした幾代太夫の行動は、現実に行われていた情景をもとにした描写だったと言うことができる。結局、どちらも正解ということだ。
紺屋高尾よりファンタジー性が強いと思っていた幾代餅だったが、吉原の作法はよりリアルだったというのは面白い。
この真実の告白場面における一朝師匠が見せてくれる高尾太夫も印象的。久蔵の告白を受けて、その感動した本心を、短い言葉ながら力強く説得力のあるセリフで伝えてくれる。三年もの間、想い続けてくれた、その一点で久蔵の想いを感じるというシンプルさが、より印象深い場面となった。
紺屋高尾にしても幾代餅にしても、それぞれ二組の男女にとっては、この出会いは人生の一大事件。そのターニングポイントである告白の場面をどう聴かせるか、演者ごとに興味があるところ。一朝師匠は、凝縮されたセリフでさらりと伝え、物語を進めていく。くどくなく、芯の部分だけを取り出したようなセリフだった。
この噺の下げは、暖簾分けで染屋の店を持った二人の様子が描かれて終わる。これは餅屋を開業する幾代餅と同じパターン。吉原の人気者だった女将を見たくて、大勢の客が押しかけるところも同じ。しかし、紺屋高尾の方がより色気がある下げ。というか、完全に下ネタ。早染め屋なので、染める物を甕にすぐ浸けるのだが、このとき、高尾の女将は甕をまたぐ。このとき男性客はみな甕を覗く。この「甕覗き」という馬鹿々々しい習慣を紹介して、繁盛ぶりを伝え、子もなして長生きしたと下げる。
この江戸っ子たちの能天気な大騒ぎのエピソード。幾代餅のようなほのぼのとしたエピソードで終わらない。紺屋高尾も人情噺だが、こんな下ネタを終わりに持ってくるのは、高尾と久蔵の目出たし目出たしで終わってしまうのは、どこか恥ずかしいという落語家の照れ隠しなのかもしれない。そんな江戸っ子の風情があふれた一朝師匠の見事な一席だった。
仲入り
春風亭一朝「柳田格之進」
後半はマクラなしで本編へ。二席目も思ってもいなかった演目なので、嬉しい驚き。湯島の切通しでの再会場面は、雪景色の正月。なので、私は冬の噺という印象があるが、騒動の発端は月見の宴だ。この時季に聴くのもおかしくない。惜しげもなく大ネタ二席を披露してくれた一朝師匠。
重くもなく軽くもない柳田、一朝師匠らしさあふれる柳田だった。口演時間も短めで、さまざまな工夫のあふれる柳田だった。
柳田と萬屋の出会いと友情を深めていく様子を淡々と語り進める。嵐の前の静けさ。月見の宴のあと、五十両が行方不明。そこから急展開。男の嫉妬は怖いという前振りのあと、番頭の徳兵衛が主人に黙って柳田の長屋を訪ねる。主に褒めてもらいたい一心で、柳田の仕業だと思い込む。
この徳兵衛と柳田の対決場面が最初の見せ場。この徳兵衛の心情描写が見事。嫉妬に裏打ちされた悪気のない善意。ところが、観客にはその善意のベールのむこうに微妙な悪意が透けてみえる。この匙加減が絶妙。
このとき対峙した柳田の態度も、毅然とした態度で武士らしさを見せる。番頭は奉行所に訴え出るといったときに見せる困惑の表情。嘘はつけないが、武士の尊厳を傷つけられることを強く恐れている。そんな現代の価値観では理解しがたい武士のプライドを、当然であるように見せてくれた。
また、これもなかなか理解し難い柳田の娘の言動。「私は武士の娘です」と力強く父を説得する。柳田と同じ価値観を持つことを伝え、同じ境遇にある身分であることが父親としても受け入れざるを得ないこと柳田が感じたことを見事に見せてくれた。そのうえで、父親としての苦悩や無念さも透けて見えた。三者の複雑な感情が一気に交差した名場面。
雪の湯島の切通し坂での再会の場面。柳田の立派になった出で立ちを詳細に説明。見かけた徳兵衛もその出で立ちを褒めて、さぞや立派なお侍だろうと語る。この描写によって、長屋を出てから帰参が叶うまでの時間や経緯が瞬時に伝わる。
そして静かな料理屋での会話の場面から、怒涛の後半へ突入。静かにじわじわと進む時間。徳兵衛の気持ちが分かる観客も、胸が締め付けられる思い。このドキドキ感がたまらない。
柳田が訪ねてくると知ったあとの萬屋の主従が見せる絆。互いにかばい合う姿を見れば、柳田の切っ先が鈍ったのも分かる。柳田も萬屋主従の話を聞いて、次第に父親としての無念さを爆発させるところは、武士の身分という鎧の下にかくれた人間としての感情を強く感じさせる。
この演目は、娘のその後の事情が演者によって違ってくる。悲惨な状況になる場合もあるし、番頭と夫婦となる場合もある。ここは、この噺の後味に関わってくる重要な設定。
今回の一朝師匠の設定はどうだったかというと、柳田はすぐに帰参が叶って、娘もすぐに身請けして吉原から救い出したというグッドエンド。これを聞いた萬屋主従は、どれだけ癒されたことだろう。
おまけに娘の縁談も進んでいて、萬屋源兵衛は嫁入り支度をさせてくださいと申し出る。これは加害側にとっては、少しでも償う手段があることで心の平穏の足しになるというもの。これは観客側もほっとする感情が湧いてくる。まさに後味が決まる設定。後味ということは、まさにこの噺の印象も決まるところ。一朝師匠らしい事の納め方、後味の良い一席だった。
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