転んだらどうするか?
子供に向けて話していながら、我ながらいい言葉だと思うことがある。
この冬は、今春小学2年生になる息子と3度スケートに行った。
昨年2度ほど連れて行ったこともあり、今年は最初から怖がることもなくリンクに上がった。
滑っているといえるのか、早歩きとでもいうのか、
よく分からない前進の仕方で、息子は思いのほかスタスタ駆けていくのである。
同じ頃合いの子が、転ぶのを恐れるあまり親から離れられずにいるその横を、
息子はあいかわらず歩くのか滑るのか分からないふうの様子で、スタスタ駆けていくのである。
一度転倒して腕を打ちつけた母は、リンクの外でそんな息子の滑走を見守っている。
黙ってベンチに座っているわけではない。
ちゃんと君のことを見守っているよ、しっかり見ているよ、
ということをアピールするためにも、
ときおり手なんて振りながら寒さの中を立っている。
母の温かい目(?)で見守られいている息子は、わりあい順調に滑るのだけれど、それでもたまにはズテンと転ぶ。
そうすると、彼は照れくさそうにリンクの外から見守るわたしの方をちらっと見る。
「やっちまった」とでも言いたげに、ちらりとだけ視線を向ける。
リンクの遠く離れた端どうしに二人はいるから、すぐに声を掛け合えるわけではない。
それで彼は、ぐるっとスケートリンクを一周してきて、
縁で見守るわたしの前まで来ると「見てた?」と聞くのだ。
「見てたよ」とわたし。
「転んじゃったよね」と息子。
「でもいいんじゃない? すぐに起きて走り出したんだから」
あれ?
何かが胸にひっかかる。
なんか今いいこと言ったんじゃないか?
流れていきそうな言葉と、胸の奥のふつふつを呼び戻すかのように
息子が反復してくる。
「そうだね。立てばいいよね。転んだら起きればいいんだよね」
そして「もう一回、まわってくる!」と言い残し、
颯爽に、でも本当は歩くんだか滑るんだかよく分からない滑走姿でリンク一周の旅に出ていった。
息子のリンクを走り回る姿を見ていて、
わたしは「ああ、そうだよな」と声には出さずにつぶやいていた。
だってそうじゃないか。
毎日嫌なことがあったり、つまずいたり、へこんだり、もうどうでもいいよ! と投げ出したくなることもたくさんある。
面倒くさくなって、どうでもよくなって、
いっそ転んで寝ころんで、もうこのままどうにでもなれと思うこともある。
会社を辞めたり、日々の煩わしい人間関係から自ら身を引いたり、縁なんか切ることのできない家族間のもめ事から目を背け続けたり。
思い通りにいかないことが、「世の中には」なんて大きな範囲でなくても身の回りにいっぱいいっぱい転がっている。
だけど、
つまずいたっていいんだよね。
転んだっていいのだ。
だって、転んだら起き上がればいいだけだから。
一度転んだら、一回起き上がればいいし
二度転んだら、二回立ち上がればいいんじゃない?
そうすれば、また歩くのか滑っているのか分からない格好であっても駆け出していくことが出来る。
すいーっとリンクを一周して「ただいまー」「おかえりー」と言い合える。
わたしにも諦めかけた夢がある。
つまづいたまま、ちょっと気をそらして、
叶わないのは本来自分に向いていなかったからなんだと納得させようとしていた。
だけどもう一度挑戦しようと思っている。
転んでから、ちょっと長く寝ころんでしまったけれど、
空を仰ぎ見ているのはもうおしまい。
転んでもいいけれど、長くは寝ころぶな。
これが自分への戒め。
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