ふたつの魔物・その2の4

そういえば前回書いた「子宮内膜全面掻爬」の時に初めて手術室というのに入ったんですよ。
ほら、中央に患者さんが寝るベッドがあって、上にまばゆいライトがあって…
「うっわードラマじゃ~ん…」
とのんきに見てる私(車椅子に乗ってる)についてきてくれた若い看護師さんが、
「どんなドラマでみました?」
と尋ねてきたのですが、ここ最近医療ドラマってあんまり見てないなあということに気づいて、うーん…と考えて出てきた答えが
振り返れば奴がいる』(織田裕二氏・石黒賢氏主演)。

看護師A「え…っと、なんでしたっけそれ…」
私「あれ、織田裕二さんが出てたやつで…」
看護師B「…す、すみませんわからないです(汗)」

こんなところでジェネレーションギャップ感じるとは…(泣)


さて。本題に戻ります。

全編にわたって婦人系に関する病気が満載です。
さらに受けた説明が半分抜けています。
…今やってることの方が大変なのです…(泣)


2018年12月18日。手術当日。
前日入院でまた流動食でご飯をスルーされ、様子を伺いに来る看護師や医者に「ハラヘッタ」と馬鹿みたいに繰り返す夜を明かして。
神妙な母と能天気な患者というわけのわからない状態で、「子宮全摘出」という手術に臨んだのである。

初めての手術が開腹手術、初めてメスが娘の体に入るというのがやはり親としてはショックだったと母は語っていた。
娘の私はそんなあなたを何度も付き添いで見続けてきたんですが…。
こういう時、案外患者本人より周囲の人があたふたするものなのだろうか。ただ単にうちの母が、「ガン」という病気そのもの、手術をうけることそのものに対して過敏になっているだけかもしれない。
今となっては、早期発見でガンを克服している人間も少なくない。私は幸いにも早期発見の方である。
「あまり身構えられてもこっちが疲れるよーもっと気楽に構えてー」
と何故か私が慰めるが、あまり効果はなかった…。

手術時間はおおよそ5時間かかったらしい(母曰く)。切除部分は患部=子宮と周辺のリンパ腺。それを病理検査に出し、詳しい進行具合や転移の有無を検証するということになる。

他の病院はわからないが、付き添いに切除した患部を見せるというのがこのK病院のしきたり(?)である。
母の大腸がんの手術に付き添った際、詳細説明を受ける場所に向かった私の前に、切除部分を置いたトレイを前にした先生が待ち構えていたという衝撃は、今でも忘れられない。(それ以降(=胃がん、2度めの大腸がん)は白いガーゼで覆われ、「見ますか?」と確認してから見せてもらえるようになった)。
ちなみに母は、「ガーゼはなかった」とのことなので、何の準備もなく患部を見せられたことになる。びっくりしたろうなあ…。
私もできればナマで見たかったが、残念ながら病理検査に出されたため、後日画像で見ることとなる。

突然ですが、医療の進歩って恐ろしいほどに怖いですね。
開腹手術になるなら軽く1ヶ月は入院するだろうと思ってたところに、「1週間弱で退院できます」と言われたので大変驚いた。
しかも、集中治療室からわずか1泊で一般病棟に戻ることができ、翌日から「歩け!」と言われたときには驚いた。

私「歩けるんですか!?」
看護師「ええ、歩いていただきますよ(ニコリ)」

要するに、早く歩かないと体内の腸が癒着したりして支障をきたしたり、腸の動きが悪くなったりする(?)らしい。開腹から早く回復(つまらんダジャレ)するためには、歩くようにしてくれと言われた。
術後の治療室にいた間はさすがに動けなかったが、「血流が滞って血栓ができると厄介なので、動かせそうなら手足をパタパタさせてください」
と言われたので、足首をパタパタしたり、手を握って開いてぶらぶらーとさせていた。基本的に暇(という言い方が正しいかどうかはわからないが)なので、できそうなのでばんざーい!とかやっていたら、「いやいやそこまではしなくていいけどできるってすごいんですけど!!!」とお世話の看護師にびっくりされた。
本来2泊の予定だった治療室だが、わずか1泊、手術の翌朝には通常病棟に帰れた。この「ばんざーい!」が1泊で治療室から抜け出れた決定的理由だったらしい。(「そんな元気なら戻そう!」という医師の一声があったそうだ)

それにしても…治療室は苦痛であった。
何が苦痛って、そこに集まる人々は、要するに「目が離せない患者さん」たちが集まっているのだ。夜通しなり続けるナースコールで起こされ続け、身動きできない、お茶(というより水)も自分で飲めない、寝返りもできない自分に腹がたった。
さらに、これも仕方のないことなのだが、部屋のどこかでおっさんがかなりの勢いでゲロゲロしているのには本当にまいりました。私は部屋の隅の奥まった所、おっさんは間仕切りを挟んで真逆の隅っ子というポジションだったらしく視界には映らなかったものの、音声だけでもずいぶんな破壊力で、おっさんのゲロゲロに精神がごりごり削られた。相当辛い思いをしているであろうおっさんには大変申し訳ないが、近場に配置されなくて良かったです。影響受けやすいので、視覚・嗅覚・聴覚からもらいゲロゲロして、予定通りの2泊だったかもしれない。

一般病棟にうつったといっても、まだ体には数本管がついているため、動くのは億劫だった。尿の管が一番つらかったかなあ。
あと、戻ってもやっぱり流動食、というのがつらかったです。とにかく何があっても食欲が衰えたことがなく、ひたすら
「いつから普通のご飯になりますか?」
と看護師さんに毎日尋ねていた。
「食欲はあるのはいいこと」と、医師や看護師はいつも褒めていたが、流動食から固形物的なものになったのは手術から3,4日、それから粥から通常色に戻るまで6日ぐらいかかった、と思う。(おぼろげ)

辛かったものは、咳だった。
下腹部を開腹しているので、咳やくしゃみをするたびに腹部がズキズキ痛んだ。とにかく咳が止まらなかった。風邪かなと思ったものの、発熱したのは術後数日のみで、後は平熱に戻っていった。
平熱にもかかわらず咳がずっと止まらない。多分病室が暖房で暖かくて乾燥しているからか…?あまりにお腹が痛くなりすぎて、痛み止めが手放せなくなった。
差し迫る年末。手術前には「年末には退院できます」と言われたが本当にこの状態で退院できるのか?・・・なんて焦った気持ちがもどかしくなり、ここでこっそり泣きました。

とはいえ、医師や看護師から見ると、私は「とても順調な患者」だったようだ。
一般病棟に戻った翌日昼。「歩きましょう!」という看護師に捕まって少し歩いたが、歩調もしっかりしており、看護師もびっくりする程度の距離を歩けた。
さらに、腹を切っても咳で腹痛抱えてても、まったくもって衰えない食欲。
術後の流動食やお湯のような粥が運ばれてくるたびに、「看護師さん、ご飯食べたいです…!」と訴えたり、退院間近になって通常のご飯が出てきたときに「やったーーーーーー!!」と両手を上げて喜ぶ様に、看護師は笑うしかなかっただろう。
「食欲が衰えないのはいいことよー!」と、訪れる看護師によく言われた。私そこしか取り柄ないんですよね…。どんなことがあっても食欲だけは衰えたことがない。風邪引いても熱出ても、鬱をこじらせて起き上がれなくなっても、とにかく食欲だけはなくならない。

…だからデb・・・・・・・・・・・・げふんげふん。

ただ、この入院期間、ちょっとだけ悲しいことがあった。
私の隣に入院していたのは、同じ病気を患い、第1回めの抗がん剤治療のために入院した女性だった。彼女と私がベッドから離れるタイミングがあったことがなかったので姿はわからなかったが、看護師や見舞いの人と話す声からすると、おそらく同世代ではないかな、と思っていた。
そんな彼女と初めて会話を交わしたのは、病室の外。洗面所で食後の歯磨きをしていたときに鉢合わせた時だった。
「えっと…隣の人だよね?」と相手が話しかけてきたのをきっかけに、互いの病気の話をし、同じなんだね、と言っていた矢先のこと。
私が少しだけ、咳をした。私自身手術で抵抗力が下がっていると感じていたための風邪予防と、もしこの咳が風邪だった場合に周囲に感染するのを防ぐためにマスクをしており、さらに顔をそむけて咳をした。
その瞬間。

「あ、私抗がん剤で免疫落ちてるんで!!!」

と、女性はそそくさと歯磨きを終わらせると、さっさと病室に戻っていってしまった。
風邪を引いている、と思われたのだろうか。
それから彼女と私は、洗面所での和気あいあいが嘘みたいに、部屋に帰ってから二度と会話を交わすことはなかった。

確かに抗がん剤は体に負担が大きく、特に免疫力が下がるというのは知っている。長い時間をかけて投与していくし、大変な治療だと知っている。気をつけなければならないこともたくさんあることも知っているつもりだ。

でも、そこまであからさまに避けることないじゃない…。

同じ病気だからこそ理解できることがあったかもしれないじゃない。
同世代の女性同士だからこそ話し合えることもあったかもしれないじゃない。
それを、少しの咳をしたからとぶち壊しますか。

あまりにも悲しいことだが、同じ女性でも、同じ世代でも、同じ病気を抱えてても、理解し合えるのは難しいのかなと思うようになった。
同室になっても、境遇が似てても、当たり前だが所詮は他人なのだ。
この病院では「がん患者同士の集まり会」みたいなものが月に1回行われており、もし時間が都合ついたら行ってみたいな、色んな話を聞いてみたいな、と思っていたが、この出来事の後、ちょっとマイナスに気持ちがブレた。
他人の状況を聞き、自分の状況を話す…それがなんの解決になるんだろう。それってただの「傷のなめあい」ってだけで、別に病状が良くなるわけじゃない。それどころか、他人の重さを感じて余計病気が重たく感じるだけじゃないか。

いや。

「私は早期発見だから手術して傷が癒えたら終わりやねん」
そんなふうに考えている私が、自分より重いステージの方々の話を聞くなんて、却って良くないのではないか。
私にとっても。相手にとっても。

話すことで気が楽になる事は確かにある。
だが、私には母がいる。
血がつながっており、何度もガンを乗り越えた、母。
一番近い場所に自分の話を聞いてくれるひとがいるなら、別にいいや。

行きたかったとちょっとおもった集まり会も、興味が失せた。
それまでいろいろとネットサーフィンで読んでいたガン闘病ブログも、読まなくなった。
ガンについていろいろ調べていたのだが、それもやめた。
私はただ、目の前に現れたものに立ち向かう。ただそれだけでいいじゃない。

自分の殻に閉じこもったほうが楽。
こう考えてしまうのは、学生時代からの悪い癖です。


クリスマスの次の日。
私は退院した。
例の隣の女性は、抗がん剤後の血液検査を受け続けていたが、抗体の数値がなかなかあがらず、退院の日付が遅れていると夫らしい見舞いの男性に愚痴をこぼしたり、朝ごはんを食べなくなったり、「だるい」と看護師に言いながらずっと横になっていたりと、ほとんどベッドから出ることはなかった。
彼女と同じ日に抗がん剤を受けたという同室のおばあさんがいて、そのおばあさんが一日中のんびりテレビを見るのが好きと看護師に話していたのを聞いたのを思い出した私は、度数があまったテレビカード(※大部屋はテレビは有料で、見るにはテレホンカードみたいなカードを購入しなければならない)を差し上げ、「お互い体大事にしましょうね」と軽く励まし合って、病室を後にした。


「子宮内膜癌ステージ1A」の私は、治療はここで終わる…
…はずでした。


私は何もわかってなかった。
「咳をした程度でそこまで避けますか」と悲しく思った彼女の行動に隠れた彼女なりの気持ちを、私は全くわかってなかった。




続く!!