アバターで人はどこまで自由になる?(1/2)
アバターによる「人決め」と「名づけ」
「アバター」は、仮想空間上で重要な役割を果たしています。メタバースの普及もアバターによるところが大きいといえます。
そこで、アバターの真価について考えてみたいと思います。
アバター(avatar)は、サンスクリット語 avatāra が語源で「化身」を意味します。言葉の通り、ユーザーは自身の化身であるアバターを使って仮想空間にアクセスし、自由に振る舞います。
アバターは、ユーザーに似せて作られる場合もあれば、名前、年齢、性別などの属性を変えることができるので、別の人間になりきることも容易です。
いずれにせよユーザーは、仮想空間にアクセスする都度、アバターという形で、自分自身の「人決め」「名づけ」を行っています。
自己命名の禁忌(タブー)
現実空間での「名づけ」は、社会的な行為です。
名前は、その人が単一であることを表していますが、これは他者の存在を大前提にしています。私とは「他ならぬこの私」であり、他者との相対的な関係のなかで、つまり、社会のなかで単一性が見いだされます。
また、「名づけ」は根本的に暴力です。自分の名前は、自分で「名づけ」することはできません。
1993年、東京都昭島市在住の父親が自分の子供に「悪魔」と命名しようとして戸籍を届け出ましたが、社会通念上疑問があるとして昭島市役所に拒否された事件がありました。
そこで明らかになったのが、命名には両親からと市役所からという二重の暴力が潜んでいることです。暴力という言葉がキツければ、権力です。
『名前のアメケオロジー』で出口顯さんは、社会には通文化的に「自己命名の禁止」という禁忌(タブー)があることを指摘しています。
自己命名の禁止とは、社会メンバーが何の拘束も受けず自由に自分で自分に名づけしてはならない、という忌避です。注目すべきは、「自己命名の禁止」の作用そのものが、社会のなかで「自己」の範囲を決める点です。
例えば、南米アマゾンに住むジェー語系のインディアン社会では、生まれた子供の実の両親が子どもに名づけすることを許されていません。「名づけ」できるのは、子どもの祖父母や母方オジ、父方オバと決まっています。その名づけの禁止によって、両親は名づけられる子どもの「自己」の一部になるのです。
これが「名づけ」の社会性であり、権力です。自己と他者の範囲は、いつでもどこでもあらかじめ定まっているものではありません。「名づけ」という権力が作動したとき、その都度、自己の範囲や境界が設定されます。
個人が複数の名前を操る
私たちは、「名前」=「個人」というように、名前をべったりと個人に張り付いたものとして受け止めています。ここでの「個人」とは、in-dividual(これ以上分割できない)の意味です。
しかし、ジェーの事例での名前は、複数の個人による集団が持つものであり、これを「名前」<「個人」と表すことができます。複数の個人で一つの名前を共有する現代社会ではみられない例です。
それに対してデジタル空間は、ジェーの事例と反対に、個人が実名や複数の仮名(アバター)、場合によって匿名を持つことから、「名前」>「個人」です。個人は、複数の名前を操りながら生活します。
このように、デジタル空間での「名づけ」の正体は、アバターの例が示すように、仮想空間に参加する都度、自分が自分に行っている自己命名です。
そこでは「自己命名の禁止」の忌避(タブー)が軽々と破られていて、命名の権力性もみられません。
これまで個人は、「名づけ」られた本名とともに、「他ならぬこの私」として生きることが求められてきました。しかし、このあたり前の状況を束縛と感じる人々が少なからず存在します。
デジタル空間では、アバターによって、本名に染みついた束縛から解放されて自由に活動ができるようになりつつあります。
反面、個人は、社会によって個人を確定してもらえない不安定さを抱えるようになっています。
次回(2/2)は、個人と名前の問題を、ゲームの「プレーヤー」と「キャラクター」の関係から検討して、複数の名前を操る個人の生き方や実存について考えてみたいと思います。↓↓
アバターで人はどこまで自由になる?(2/2)|空間レシピ|note
出所)出口顕『名前のアルケオロジー』紀伊國屋書店
丸田一『場所論』NTT出版
(丸田一如)