タイパから始まるデジタル社会の時間マネジメント
「タイパ」とは、タイムパフォーマンス(時間対効果)の略語で、かけた時間に対する満足度や充実度のことです。そもそも自分のためにならない意味のない行動を避け、自ら時間をかける場面では、結末やネタを事前確認するネタバレを好み、動画は倍速視聴、スマホは縦スクロールを好むなど、Z世代のみならず、全世代似共通する時間省力化の方法です。
この「タイパ」は社会的な悪習と批判する向きもありますが、これは個人が行う自発的な「時間マネジメント」の始まりと捉えていくべきです。
その背景には、ホワイト社会化や超高齢社会化による私的管理時間の急拡大があり、個々人が自前で時間管理をする必要に迫られているという厳しい事情があります。
また、デジタル空間上に情報が溢れ、個々人が上手く情報処理ができなくなっているという事情もあります。
一方で、デジタル空間上では、誰もが手軽に近未来を「シミュレーション」できるようになり、個々人が自らの時間を手探りでマネジメントし始めています。「タイパ」はその端緒といえるもので、人任せだった時間の使い方が大きく変りつつあります。
自前の時間管理が拡大する
自分の時間を自分で管理する。当たり前のようですが、会社に入れば出退社の時間は会社が決め、テレビをつければ情報が提供されます。自分の時間の使い方はある程度、他人や社会に依存しています。
例えば、番組表で自由に番組を選んだつもりでも、番組は他メディアにもあることや、まして自ら番組を作ることには思い至りません。時間の選択も同様に、社会や企業共通の時間割や、固定的なライフコースの下で選択することが中心で、個人が自前で選択するケースは意外に少ないといえます。
ところが最近、個人による時間選択の自由が急速に確保されつつあります。
ホワイト社会化が進み、企業や社会はハラスメントを怖れて、今まで細かいところまで踏み込んで管理していた私的領域から引き潮のように撤退しています。オフィスもコロナ禍以降、分散が進み、働く時間や場所に関して個人の裁量が拡大しています。
また、超長寿化が進み、私たちは寿命100年をギフトされました。しかし、3ステージ型の固定的なライフコースは、引退後の長い後半生を想定しておらず、経済面、就労面、保健面で綻びが目立ってきました。仕方なく個人が、後半生の時間管理を引き受けざるをえない状況にあります。
このように時間管理の主体が、社会から個人へと移っています。タイパとは、この個人による時間管理の”号砲”です。タイパは非難されることも多いのですが、メディアから一方的に提供されるコンテンツを個人が峻別し、選択するようになった点で大いに評価できます。
なぜタイパは批判されるのか?
それではなぜ「タイパ」は非難されるのか? 「タイパ」の問題点を整理したいと思います。
総じていえばタイパの問題は「プロセス経験の喪失」です。タイパとは、時間効率を重視してプロセスを省力化するものですが、省力化して捨てられたものにこそ価値がある場合があります。
その一つがプロセスに潜む偶発性です。プロセスを切り捨てると予期しない経験をえる機会が失われます。登山でいえば頂上にヘリコプターで行くようなもので、途中で素晴らしい眺望に出くわしたり、反対に熊に遭遇したり足を滑らしたりする危険の経験ができず、登山経験は極めて単調になります。
また、「経験のパッケージ」を失う問題もあります。コトの始まりから経験の確認まで、タイパでは一連の経験がパッケージされたメタ経験を持つ機会を失います。登頂の経験は、準備から帰宅までのすべてを指すのです。これは、初期の音源デジタル化で可聴帯域だけを残した結果、倍音による奥行きのある響きという価値が失われたのと似ているかもしれません。
いずれも、私たちの経験価値が損なわれる問題を指摘しています。
しかし、「タイパ」でプロセス経験の価値を失ったとしても、実はまったく別の価値を獲得できていて、それが失った価値を上回るとしたらどうでしょうか。もうそうなら「タイパ」を問題視するのが問題なのかもしれません。
タイパという時間マネジメント
「タイパ」がもたらす新たな価値とは「時間マネジメント」です。
自分の時間を自ら大胆に切り捨てたり、組み立てたりする新しい時間の使い方です。改めて「タイパ」を整理すると、①個人による、②自らの活動を対象にした、③事前計画的な、④時間マネジメント方法といえます。
企業におけるマネジメントは、一般的に「計画-実行-審査(PDS)」や、「計画ー実行ー評価ー改善(PDCA)」といった管理サイクルを伴います。しかし個人には、このようなマネジメントは難しいといえます。自ら計画して実行することはできますが、評価や改善を含むサイクルを回すまで至りません。
しかし、「タイパ」には、PDCAに匹敵するまったく異なるマネジメント方法が隠されています。
時間の使い方をシミュレーションする
「タイパ」のマネジメントで鍵を握るのが「シミュレーション」です。
最近では、個人が時間の使い方に関して「シミュレーション」できるようになっています。事前にネット上で、様々な角度から好みの深さで関連情報を収集し、時間の使い方を決めることが可能です。
「タイパ」の特徴である「ネタバレ」はその方法の一つで、得られる経験値が低くなるリスクを冒しながらも、失敗する確率を低くする方法といえます。
ネタバレにみられるような情報処理の"前さばき"は「センシング」と捉えることができます。ネットが登場する前は、自分独自のアンテナを用意して能動的に「センシング」することなどできませんでした。自分の好みの雑誌を購読するくらいしか手段はなかったと思います。
それが今では、幅広く関連情報を「センシング」して、自分の時間の使い方をその都度「シミュレーション」する。「シミュレーション」した結果は即、日常生活に「フィードバック」していく。
このように、個々人が自分のペースで、新たな行動サイクルを回すようになっていきます。また、そのことで、その人独自の時間マネジメント「モデル」を持つようになります。大袈裟なようですが、そのモデルとは当人にとっての生きる様式といってもよいものです。このモデルを基づいて行動サイクルを回し、現実に得られた満足感や充実度を確認するとともに、新たに「センシング」して、必要であれば「モデル」自体を修正していく・・・。
デジタル社会の新たな行動サイクル
この新たな行動サイクルは、「最適設計ループ」などと呼ばれて最新の工場に見られるものです。
下図に示す「センシング(Sensing)」→「モデル化(Modeled)」→「シミュレーション(Simulation)」→「フィードバック(Feedback)」といった業務フレームワークを持つことが特徴です。
PDCAサイクルと比較すると、その違いがわかります。
こうした工場では、リアルな製造現場をそっくりデジタル空間上のモデルとして再現するデジタルツインが導入されています。PDCAサイクルでは「計画」がサイクルの起点になりますが、ここには起点がなく、”常時”製造現場を「センシング」するのが特徴です。これで現場の実態を動的なデータとして把握するできるので、「モデル(=現場)」の修正「シミュレーション」が可能になるのです。
この「シミュレーション」過程を開発設計に組み込むことで、実際に現場で投資する前に、クラウド上で、投資効果の確認が何通りもできるようになり、投資効率が飛躍的に高まります。最近ではこのシミュレーションの精度がAI技術により向上しています。
それでは、この「最適設計ループ」を参考に、「タイパ」にみられる新たな時間マネジメントを整理してみたいと思います。
先に整理した①~④の「タイパ」の特徴のなかで、「③事前計画的な」は「最適設計ループ」のフレームワークを参考にするとより細かい説明が可能です。つまり、「タイパ」が拓く次世代の新たな時間マネジメント方法とは以下の様になります。
自らの活動モデルをもとに
常にセンシングし
次の行動をシミュレーションしたうえで
結果を行動にフィードバックする
次世代インフラとYAMAP
しかし、このような個人が行う継続的な時間マネジメントのために、インフラ環境は十分とはいえません。特に「シミュレーション」機能は飛躍的な向上が期待されます。
それでは、どのようなインフラが必要なのか? 参考になるのが登山アプリYAMAPです。
YAMAPは、2013年にリリースされた登山向けアプリで、実に多彩な機能を持っています。
YAMAPには毎日、数多くのユーザーが活動日記を投稿しています。そこには詳細な登山ルートや所要時間、危険箇所などが掲載されており、ユーザーの登山能力も表示されています。そんな環境のなかで山好きは日々山情報を「センシング」しています。
こうした環境で、次に登る山を「シミュレーション」します。自分の登山能力やスケジュールの制約などと照らし合わせながら、アレコレと活動日記を引き出して検討します。
好みの活動日記をみつけたらデータをダウンロードし、それをもとに自分オリジナルの登山計画をアプリ上で作成します。ここで作成した登山計画は、一部自治体に正式な登山届としても受理されます。これが「フィードバック」の前段階となります。
現場ではアプリを起動して登山します。電波の届かない山中でもGPS機能で地図上に現在地を表示し、ルートを外れるとアラートがあがります。万が一遭難した場合でも救助活動の助けになります。これが、現実行動への「フィードバック」です。
実際に登山したルートはアプリが記録しており、撮影した写真とコメントを付けて登山日記として投稿します。それだけでなく、データとして表示される登山能力や消費カロリーで自分の「活動モデル」自体を見直し、次の活動の参考にします。少しずつですが私も登山能力が向上し、登れる山も増えています。
このようにYAMAPは登山という限られた世界ですが、山好きを支える無くてはならないインフラです。
「タイパ」を端緒とする次世代の時間マネジメントは始まったばかりですが、確実に新たな時間価値を生みつつあります。様々な分野で時間マネジメントインフラが整備されることを望みます。
(丸田一如)
(参考)
「トヨタも分け入る鏡の国「常時接続」時代のPDCA」日本経済新聞、2023年1月23日
「(やさしい経済学)サービスの設計と価値の創出(8)」日本経済新聞、2019年2月19日