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ヒーローを愛する者の賛歌と、「シン」に込められた想い~シン・ウルトラマン感想&シン・仮面ライダープレビュー~

人間賛歌。人間である限りは恐怖という感情を抱き、その恐怖を乗り越える勇気こそが大事だと語られる言葉だ。
誰しもが未知の領域に飛び込むには勇気を要するし、気が乗らない、怖い、など様々な理由があると言える。

こと作品鑑賞にも同じことが言えて、幼年期は仮面ライダーやスパイダーマン等のヒーローで育った筆者にとって、「ウルトラマン」は未知に限りなく近い領域であり、言葉を選ばずに言えば「隣の芝生」だった。
筆者は2004年にプレイステーション2で販売された初代ウルトラマンのゲームを気に入ってて、よく遊んでた事はあるが、逆に言えば基本的にウルトラマンに関する知識はそこから来てるものが殆ど。きちんと本編を観たのは本当にごく一部で、近年も放送が続いてる所謂「ニュージェネ」のウルトラマンをある程度知ってるレベルでしかなかった自分は、正直「ファン」ではなかった。

しかし、2022年5月13日。そこに存在していた「垣根」であり、「壁」は実にちっぽけなものであると言わんばかりに、粉々に打ち砕く映画が公開された。「シン・ウルトラマン」だ。元々エヴァンゲリオンのファンであり、シン・ゴジラ等でも庵野秀明には馴染みがあったので、彼がエヴァを完結させた後にウルトラマン、そして仮面ライダーを手掛ける事は認知していた。

無論、エヴァを迎えた後の庵野さんが(監督ではなく脚本&様々なスタッフ担当という形で)彼にとっての原点とも言えるウルトラをどう手掛けるのか、という興味は少なからずあった。しかし、そうは言ってもウルトラマン。度々嫌な書き方で本当に心苦しい思いだが、「自分の畑ではないから程々に楽しめればいいや」という精神が何処かに存在していた事は否定出来ない。

そんな自分が、どうして「そんなにウルトラマンを好きになったのか」。



筆者は一定レベル以上を突破するヒーロー映画には概ね共通項があると思っている。それは「BGM」、「ヒロイズム」、「語りどころ」だ。これらの3つを嚙み砕いていこうと思う。

まず、BGM。シン・ウルトラマンは元々が昭和に放送された初代ウルトラマンをベースにしているので、特にここに関しては映画内で圧倒的なストロングポイントとなっている。冒頭のタイトルロゴは勿論、ウルトラQオープニング、怪獣襲来BGMから不穏なシーンも含めて余す事なく初代ウルトラマンの雰囲気をキッチリ踏襲している。この選曲自体も庵野さんのチョイスであり、彼が如何にウルトラマンを愛してるか、その愛を以て何を語ろうとしてるかはここを踏まえれば一目瞭然だ。

例を出すなら序盤のネロンガ撃退後に流れる「無限へのパスポート ブルトンの最期(M2)」。このBGMは基本的に怪獣が大暴れした後に映る無残な光景や、観る者に恐怖を抱かせるような類のシーンで流れる事が本来の使われ方だ。
しかし、シン・ウルトラマンではウルトラマンがスペシウム光線(スペシウム133と表記するべきか)でネロンガを撃退後にこの劇伴がチョイスされているのである。
これが何を意味するのか。

それは、「あの時点でのウルトラマンは怪獣同然である」ということ。突如現れた銀色の巨人が熱線を放ち、無言で去っていくのである。人間からすれば恐怖の対象であるという意味では怪獣と何ら変わらない存在なのだ。

怪獣を撃退するヒーロー。それは視聴者である我々が無意識に大前提として抱いてしまってるが、そういった目線にきちんと理由付けをしていく所が何気ない導入の仕方として作用している。
シン・ゴジラを引き合いに導入が駆け足である事を指摘している意見も見かけたが、こういった前置きを踏まえておくと印象はまた変わってくる。

そういった映画としての理詰めの部分もあれば、理屈ではない熱量も共存してるのがこの映画だ。前半の戦闘であるネロンガ、ガボラ、ザラブ戦のBGMは3つとも旧来の戦闘BGMをロンドンオーケストラによる新録アレンジでより壮大に、力強く轟かせている。

特にザラブ戦での「遊星から来た兄弟 勝利(M5)」は入り方も含めて完璧だ。ザラブによって拘束され、身動きが出来ない状況と、そこから変身し一気に観客の鬱憤を解放するカタルシス。全てを爆発させるように、勇壮なメロディがウルトラマンを、観客を鼓舞させる。

懐古だけでなく、メフィラスパート以降のシン(新)BGMも素晴らしい。エヴァで有名な鷺巣詩郎氏の怪しさと魅惑的な旋律、そして戦闘に入ればコーラスも入った迫力の音楽はシーンに合わせてカメレオンのようにフィットし、より観る者を惹き付けるのだ。

次に、「ヒロイズム」。ウルトラマン/神永新二を英雄たらしめる所以は”人間の存在”だ。地球に降着した際の衝撃波から子供を守ろうとしたが為に神永は命を落としてしまう。そのような無条件な自己犠牲の精神に興味を持ったリピアー(ウルトラマン)は神永と契約した。
リピアーは人間の思考を学ぶ為にあらゆる学術書を読み漁り、時に浅見等の言葉に耳を傾けながら人間とは何かを学習していく。

人間の思考を理解しようとし、人間に近付こうとする最中でリピアーもまた、最後には自己犠牲を全うする。言わばコレは神永が冒頭に行った行為を反復したものであり、それを自分に教えた(神永自身の故意ではないが)神永にその命を渡した。

全てのヒーロー作品がそうあるべきと思っている訳ではない、という前置きの上で語りたいのは、人間とは取るに足らない愚かな生き物であったとしても、そんな人間の事をどうか否定しないで欲しい。願わくば、肯定して欲しい。醜くても、露悪的な一面があったとしても、それだけが人間ではない。これを書いてる筆者自身も人間である。人間を肯定する事は、パーソナルな視点に変えれば観客である自分自身を肯定する事にも繋がるのだ。

しかし、そんな人間を守りたいと思ってくれる者が果たしてこの世界にどのぐらい居るだろうか。それでも自分は、と言ってくれる者が何人居るだろうか。ヒーローとは誰もがなれるわけじゃない。眩さは時に嫉妬や憎悪を呼び起こしかねない。だが、英雄と称される者はそんな声があったとしても、英雄であり続ける道を選ぶ。そんな心の強さを持っているからこそ、人はヒーローに憧憬を覚えるのではないだろうか。

傷付いても立ち上がり、強くあり続ける。自分もそうなりたかった、何もかもに憧れていた。そんな気持ちを一度でも抱いた事がある人にとって、シン・ウルトラマンは先代の特撮作品から多くを吸収したクリエイター達によるラブレタームービーなのだ。

3つ目に、「語りどころ」。リブート作品や旧来ベースとなるオリジナルが存在してる作品に於いて全てのクリエイターが恐らく悩んでる事は「懐かしさ」と「新しさ」の共存バランスだと筆者は思っている。

ここもまた、シン・ウルトラマンは絶妙だった。懐かしさの面では先述のBGMや、ザラブ戦、メフィラス戦等に特に盛り込まれたファンサービス的な趣を持つ小ネタという面で十分作り込まれていたし、ここでいう「新しさ」とは”解釈”とも言い換えられる。ただオリジナルをなぞるだけだったら同人作品でも出来る事だが、そこに映像を通して新しい展開を見せるのは公式が成せる業である。

地球人に心の面で挑戦しようとしたオリジナルのメフィラスをより骨太にして、上位概念になる為の暗躍をさせる。あのゼットンを、遂にウルトラマンが殴り飛ばして勝利する。そして、ベーターカプセルを二度点火させるという禁断の荒業。映画の作劇構成の面から言っても、ウルトラマンがやられっぱなしで終わってしまっては面目が立たない中で、庵野さんを始めスタッフ陣もどう落とし所をつけるかは相当悩んだに違いない。

これは勝手な推測ではあるものの、筆者は庵野さん達は初代ウルトラマン最終話の時に抱いたであろう、ウルトラマンが敗北した事による苦々しい気持ちをどうにか昇華させたい思いがあったのではないか、と思っている。Amazonプライムでの松本人志さんとの対談で「ヒーローはやられてる姿が美しい」と語っていた一面も庵野さんにはあるが、やはりヒーローを愛する者のカタルシスは強敵を撃破する事にあると思う。

これは別の映画の話になるが、筆者が数年前に鑑賞した「マジンガーZ INFINITY」という作品のインタビューでスタッフ達が公言していたのは、当時のマジンガーZ最終話で成す術なく一方的にマジンガーがボロボロにされていく姿が本当に嫌で嫌で仕方がなかった、そのリベンジの想いが今作にはあると語っていた事をシン・ウルトラマン終盤のゼットン戦を観て筆者はふと思い出したのだ。

真意は分からない。だが少なくとも自分にはそう見えた。


ここまでシン・ウルトラマンの素晴らしさを語ってきたが、最後に来年3月に公開を控えている「シン・仮面ライダー」についても少し記しておきたい。

これだけシン・ウルトラマンに感動させられた身として、元々多くを知っている仮面ライダーに於ける期待値は更に高まる一方だ。筆者はベースとなっている仮面ライダー1号・2号も大好きであり、既に現時点で分かってるビジュアル(ロングコートを羽織るライダー等)や前情報の時点で期待しかない。

世間ではゴジラを始めとする「シン」ユニバースを雑に語る声も多く聞くし、ゴジラやウルトラマン、仮面ライダーをリブートするならあれもこれもという話は耳にタコが出来上がる程聞いてきた。それは世間の声として至極真っ当な反応だと思うし、そもそもウルトラやライダーだって当初はその括りの中で言われていたジョークに過ぎなかった。

しかし、ここで忘れないで欲しいというのは庵野さんが「シン」を付ける想いだ。敢えて「新」や「真」と表記しない事は両方の意味を併せ持っているからこそだと解釈しているが、ゴジラもウルトラもライダーも全て初代に該当する作品をベースに製作されている。

これらは庵野さんにとって、先代の特撮作品なくして今の彼自身、そして今も続くシリーズはなかったという先人達への感謝と、それらを彼が引き継ぐ、現代に蘇らせて「新」解釈を持ってくる事への意味を作品の中で具現化していく決意表明として「シン」をタイトルに付けているのだ。

シン・仮面ライダーに期待する者も居れば、不安視する人も沢山見かける。期待と不安、それらが両方あるのは作品として健全な証だ。

その雰囲気を含めて、庵野さんの渾身の想いを存分に堪能しようではないか。そういう気概で来年3月を待ち続けている。



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