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あのころの自分に、勉強する理由を教える

「どうして勉強しなきゃいけないの?」学生時代そう考えた経験がある人も多いでしょう。この疑問を持つ時期は様々なものに守られています。働かずとも生活は親によって支えられています*1。学びの機会も用意されています。子どもの権利も尊重されています。なにを意識することがなくとも生存は保証されています。そういう社会を先人たちは作ってきました。間違いなく豊かではあります。

*1 残念な親がいるのもたしかですが大筋として。

 けれども、嫌いなおかずをゴミ箱に捨ててしまえるほど裕福で、まずいコーヒーを流しに捨ててしまえるほど余裕があって、つまるところはじめから満たされている状態で、勉強する理由に納得のいく答えが見つかるほうが難しいでしょう。だってやらなくてもすぐには困りませんし。親や教師だってまともに答えてくれるかどうか。(多少偏見を承知で申し上げますが)子どものころの生活感覚のままなんとなく生きてきた大人だって少なくないのです。
 雑をやっても生きていける。頭が空っぽでもなんとかなる。勉強に意味なんかない。そのように結論づけてしまった人もたくさんいるでしょう。豊かな社会においてはそれでもいいのかもしれません。

 それでもなお「なぜ勉強するのか」といわれたら僕はこう答えます。自分を救うためだと。子どもから大人になるといままで自分を守ってきてくれた殻は消失し、社会という荒野に身一つで立ち向かわなければなりません。その荒野を渡るための武器が知識であり、知識を蓄える過程で形作られる思考様式を得て、自分の内面と行動を変える効力をもつのが勉強だと僕は考えています。

 数年前まで僕は将来に対する閉塞感を覚えていました。退職エントリにも書いたとおり、会社は人売りをやっていて将来性がない。このまま居続けても会社と一蓮托生になるだけです。だからといって辞めるにしても次が今より良いところになる確信は持てません。自分のスキルにも自信がありません。なにより、転職しても毎日定刻通りに出勤しなければならないのは変わりません。そう思うと転職のために骨を折るのも気が進みませんでした。

 翻って家では父親の介護がのしかかります。深夜に起こされたり、どうでもいいことを何度も何度も何度も質問されたり、自室で休もうと思っても階下から耳障りな大声が響いてきたり。ちっとも気が休まらない。じゃあ実家を脱出しようと思っても、母親も消耗していてそっちも倒れかねない状態でした。脱出したあとで倒れられて二重介護になったら目も当てられない。詰んでいます。

当時ノートに殴り書きした文章。よるべない状況を嘆く陰鬱な文章が連なる。
「老後を追体験しているようだ」とはずいぶん追い詰められていたんだなと思う。

 仕事にしろ家庭にしろ将来的な希望がまったく描けず、逃げ場のない焦燥感や自分にはなにもできない無価値感が募り、抑鬱症状を発症して休職に至りました。

進化論との出会い

 さて、この状況からどうして勉強をやる気になったかというと、生物学、とりわけ進化論との出会いがあります。
 そのきっかけは2つ。ひとつは「栄光の代償」という小説、もうひとつは小説家・漫画原作者rootport先生のブログです。

 前者は小説投稿サイト「ハーメルン」に掲載されている艦隊これくしょんの二次創作小説です。二次創作と侮るなかれ、一昔前には美少女ゲームに文学や芸術、人生を見出す人がたくさんいたのです。二次創作小説に感銘を受ける人間がいても不思議ではありません。

 内容は、戦争の後遺症でPTSDに苦しむ主人公が戦後かつての仲間たちのもとを訪ねて回るドキュメンタリー風の物語です。
 PTSDや戦時のトラウマにより感情制御ができず、復員後何十年も一般社会に馴染めないでいる、ほかの奴らはみんな社会と折り合いをつけているのに自分はなにもできていない。そんな自責の念に懊悩する姿が僕自身と重なるように感じられ、非常に感情移入しながら読んでいました。

 この作品のすごいところは(以下オタク特有の早口が続きます。読み飛ばしてもOKです)徹底して生物的な考察をベースに設定を組み上げている点です。そのおかげで、「深海棲艦*2とはどのような存在なのか?」「深海棲艦と戦うのがどうして艦娘でなければいけないのか」といった設定の根幹に関わる部分が説得力のあるものになっていますし、生物学的な設定から導かれる政治的背景*3の構築も鮮やか。内容ひとつひとつに文学・歴史・地理・軍事・社会問題に対する造詣の深さもにじみ出ていて、これを本当にアマチュアが書いているのかと瞠目させられました。

*2 艦これにおける敵勢力
*3「深海棲艦を知性ある存在ではなく単なる生物とみなすならば鳥獣保護管理法に抵触するが、それを逆手に取って有害鳥獣駆除であるという立場を取れば憲法に違反しない形で軍事力を行使できるという立場を政府はとるだろう」なんてゴリゴリのポリティカルフィクションをよく二次創作でやろうとしたもんだと思います。

 当時抑鬱を抱えた状態でどうしてこんなボリューミーな文章を読めたのか自分でも驚くばかりですが、それもこの教養に下支えされた緻密な設定と散弾のごとく頻出する文豪めいた美文から放たれるエネルギーに当てられたのではないかと思います。この小説に散りばめられた要素を少しでも理解できるようになれば、ちょっとはこの在野の智者に近づけるのではないかと。


 rootport先生のブログでは進化心理学についてのエントリーを興味深く読んでいました。進化心理学のベースになっている進化論は、「なぜ」を問う学問です。それも至近要因だけではなく究極要因、すなわちメカニズムだけではなく「どうして・どのようにその形質を得るにいたったか」を。それが当時の僕にはとても心地よかった。自分の塗炭の苦しみはどこから来ているのか? その疑問にもっとも得心のいくかたちで応えてくれたのが進化論だったのです。

 鬱をはじめとする精神疾患はよく脳みそのバグだと説明されます。神経科学的な説明ですね。でもそれは機能のメカニズムです。このようにして動くという手続き面の答えです。僕はその答えでは満足できなかった。納得できなかった。そもそもどうして鬱などという機能を持つようになってしまったのか、どうしておまえは生まれてしまったんだと恨みがましい気持ちでいました。だから、その機能の成り立ちについて照らしてくれる進化の過程が希望の光に見えたのです(変な宗教でなく学問という検証可能な分野にハマったのは不幸中の幸いでした)。

 野生生物が敵に相対したときにとる行動は闘争か逃走か(Fight or Flight)。かなわない相手には逃げるのです。人間だって同じです。現代を生きるわれわれの遺伝子は、いまだ農耕時代には適応しておらず数百万年前の狩猟採集時代から変わらないままです。遺伝子の変化は本来、何十万何百万年かけてゆっくり起こります。ゆえに人間の性質はサバンナで暮らすサルのままなのです。

 農耕を発見して以降の、ほんの一万年ほどにすぎない歳月で起こった急激な文明の進展によって、いまだ遺伝子的には適応しきれていない定住生活との齟齬が生まれ、生命を脅かしてくる相手・環境からは逃げるという狩猟採集時代には当たり前だった行動がとれない結果、抑鬱という形で心身にSOSが表出します。

 抑鬱を発するメカニズムは、かつての時代においては自己の生存に寄与していたが、それゆえに現代までその機構は保持され、いま自分を苦しめている。そのように(たとえ大雑把であっても)筋道立てて説明できるのは、もっといえば、この苦痛の存在理由に解釈を立てられるのは、救いだったのです。たとえ誤学習かもしれないとしても。

 こうして少しずつ知識を求めていくと、かつてにはなかった変化が表れました。

影響1:知識と知識がつながる快感

 勉強していると、知識と知識がつながり新たなネットワークが形成される電撃的感覚が生じる瞬間があります。脳汁が出るっていうアレです。
 一例を挙げると、進化論の解説書を数冊読んだら十字軍遠征が発生した要因がすべてつながったという一見理解しがたい体験をしたことがあります。

 通常教科書で十字軍といえば、11世紀末にイスラムの侵攻にさらされていたビザンツ帝国の皇帝がローマ教皇に助けを求めたのを直接的な契機としてはじまり、途中から経済的目的に変質しながら13世紀末ごろまで続けられたキリスト教圏の聖地奪回運動として説明されます。

 教科書に書いてある内容はとりあえず読み取れます。でも人間の心がよくわからなかった(今もよくわかりません)高校生のころの僕には、初期の宗教的熱狂にしろ途中からの経済的打算にしろその心理面や心変わりが最後まで腑に落ちないままでした。また、どうしてあの時期あの時代に起こったのかもわからないままでした。
 しかし進化論を(正確にはそのベースとなる理論を)学んだことで自分の中でようやく得心のいく流れをつかめるようになったのです。

 もう少し詳述しましょう。以下オタク特有の早口なので読み飛ばしてもらっても構いません。ダーウィンが自然選択説*4を着想するさいのアイデアとなる理論の一つに経済学者マルサスの「人口論」という理論があります。
 ごくごくごくごく簡単にいってしまえば、「人口は幾何級数的*5に増えるが食料は足し算でしか増えない。したがって食糧生産は人口に追いつかない*6」という主張です。

 そうなると同一地域における人口は頭打ちになるのですね。当時の西ヨーロッパでは三圃制や重量有輪犂の普及により食糧生産が増え、人口が増加していきました。しかし前述したとおり同一地域における人口の収容数には限りがあります。技術的な発展はすでにある程度成し遂げており、食糧生産における生産性向上の伸びしろはあまり望めませんでした。さらばどうするか。そうだね、戦争だね。外の世界に土地を求めるしかないね。

*4 従来は自然淘汰と呼ばれていた用語ですが、最近の生物学のテキストだと自然選択と呼ばれることが多いです。原語がまんま"natural selection"だし。
*5 借金が雪だるま式に増えるようなイメージです。複利は強い。
*6 現代だと化学肥料のおかげで必ずしも当てはまらなかったりします。

 つまり、十字軍遠征を宗教戦争ではなく人口増加に伴う拡張運動だとマクロ的に捉えることでようやく自分の中で論理が通ったのです。この視座を得るとなにがうれしいかというと、イベリア半島のレコンキスタやドイツ騎士団による東方植民がなぜ十字軍と同時期に起こっていたかの理由も説明できるんですね。

 10世紀~14世紀くらいは温暖な気候が続いた時代で、安定的な食糧生産とともに人口が膨張していた時代です*7。とするとイベリア半島でもドイツでも人口が飽和状態に近かったものと推測できます。さらばどうなるか。そうだね、戦争だね。

*7 現代に比べれば非常にゆっくりだし14世紀なかばにはペスト食らって人口激減するけどね!

 中世農業革命により人口が増加し、西ヨーロッパ世界の膨張につながった一連の現象は、教科書や資料集にはちゃんと書いてあります。ただ、世界史を暗記科目として捉えていた現役生のころにはその機序をとらえられていませんでした。今回の理解にしても正確な理解ではないでしょう。せいぜい"完全に理解した"、"わかりみが発生した"程度のものです。

 しかしここで大事なのは、進化論という歴史とはまったく異なる分野の知識が世界史上の出来事の理解につながったというアクロバティックな体験です。知識と知識の思わぬ結合の妙です。単一分野の直列的な要素連結だけで物事ができているわけではないという体感的な理解です。

 学生時代にきちんと勉強した人にとっては自明の感覚なのかもしれません。適応障害にいたって救いを求めて進化論に手を出して偶然身についた感覚なので学ぶのが遅ぇよといわれれば返す言葉もないのですが、すべてがつながったときの気持ちよさ、知的興奮を味わうのは、たとえ遅くても遅すぎることはありません。

影響2:認知の歪みからの開放、「わからない」に対する備え

 物事はいろいろな領域の要素が複雑に組み合わさってできている。この複雑性を確信できるようになると、自分を苦しめる認知の歪みからひとつ開放されるようになります。白黒思考からの脱却です。われわれ精神の不安定な人間がよく陥りがちなアレですね。もうちょい具体的にいうと「○○さえあれば(あるいは××さえなければ)幸せになれるのに」って思考です。

 要素を一つ追加(あるいは削除)しただけで物事が劇的に好転するパターンなどほとんどありません。どん詰まりな状況であればなおさらです。物事はスタンドアローンでは存在しえず、種々の要素が組み合わさってできている以上、末節に枝葉を追加・削除したところで根幹に決定的な影響を与えることはありません*8。
 追い詰められた人が一発逆転を狙ってもだいたい死にますね? 追い詰められたときに一発逆転を狙ってしまうのか、問題の構成要素を整理して解決までの道筋を地道に探れるかで生存確率は段違いです。

*8 試行回数を稼いだらたまたま本質にヒットしたってパターンはあるかもしれませんが。

 心身の不調や長期間にわたるストレスで白黒思考に陥ってしまうのは仕方のない習性ですが(むしろ人間としては自然な反応です)、そういうときに「いま自分はヤバい思考に陥っている」と自己認知ができるだけでもだいぶ人生の予後が良くなるでしょう。

 勉強のやり方を身につけるのは「わからない」に対する処方箋でもあります。「わからない」領域に対してどのように取り組むか。どうやって確度の高い情報を確保するか。
 はじめて触れる分野の勉強を通して、僕はその分野の教科書を手に入れたり図書館のレファレンスサービスに相談する(文献探索のプロに無料で相談できるのですこぶる重宝します)という行動様式を得ました。
 ある意味いつでも相談できるメンターを得たようなもので、きっと今後も先の見えない状況に立たされたら図書館に相談して、そこで得られた情報を足がかりに目の前の状況に対処していくのでしょう。

影響3:生き方の再考

 自分自身の状況を認識し、対処できるようになる、そして自分自身の欲求を自覚するのは、とりもなおさず自分の生き方の再考を促します。

 僕が強くストレスを感じるのは「コントロールできない」状況にさらされたときです。人売り会社の下っ端エンジニアでは仕事の内容や進め方に決定権は持ちえません。実家は両親のための空間であり自分が満足を十二分に追究するための空間ではありません。
 あらためて自分自身の置かれた環境をノートに書き出したりして俯瞰してみると、このまま我慢したりがんばったりしても満足度は上がらないと結論づけられました。

 会社に依れば、実家に依れば、とりあえずの生存は保証されるでしょう。でも生きられるだけです。そこに喜びはない。自分自身の喜びを追求するためには、いままで自分を庇護してくれていたものの元を去り、自分自身に依って生きていかねばならないという覚悟が決まりました。ようやく自我が芽生えたのです。
 そして行動を起こしました。会社は退職し、両親が自活できる環境を整え、実家を出奔してシェアハウスに移りました。いまは一挙手一投足を自分の判断と責任で行える自適な生活を送っています。

 勉強によって物事の構造的なつながりを、「わかる」喜びを、もっと知りたいという欲求を味わわなければ、僕はいまもまだ「わからない」ことに怯え、自分にはコントロール不可能な環境下で鬱屈した気持ちを抱えながらのたうち回っていたかもしれません。

結び:僕にとって勉強とは、コントロール可能な領域を増やし、自由で豊かな人生を得るための行動

 僕はいま31歳ですが、勉強によって学生時代よりも若くなったと感じています。学生時代から続いていた将来の見えない不安、閉塞感を打ち払い、自分で自分の人生の手綱を握れるようになった。知的探求の喜びを追い、博物館や美術館に通い、変な奴らに会うためにバーに通ったり、文章を書いて自分を表現するようになった。生きる喜びを享受できるようになった。外部からではなく内面から。消費ではなく創造によって。本来ならティーンのときに発揮されるべき自我に素直になったと思います。それこそが勉強をはじめてからの最大の財産であり、救いです。

まだ手をつけられていない資料もたくさん

 僕にとって勉強は、信仰に近いのかもしれません。中世の修道士が写本によって知識に触れ、神の御心を理解しようとしたのと同じように、勉強を通じて自分自身を理解し、随喜を追い求める。それを続けられる限り、若くいられるでしょう。脳が朽ちるまで、ずっと。


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