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お豆腐屋さんのクリスマスツリー。



11月24日。近所の狭い路地裏の豆腐屋に、クリスマスツリーが置かれていた。

私の膝丈ほどのツリーには少し大きい「Merry Christmas」の金色の文字と、クリスマスカラーのオーナメントが全体的にアンバランスだが、加えて店のチラシもオーナメントと化してツリーにぶら下がっていたものだから、これはこれで数寄を凝らしているようにも見える。


12月3日。地元の100円ショップには元旦の門松、さらにはバレンタインのラッピングまで陳列されていた。

私が住むこの国は、なんでも「先取り」が粋というものなのか。着物の柄の季節を先取りするだけでは飽き足らず、100均の商品棚までもが先取り仕様である。これもまた日本らしいといえばそうなるのだろう。


この時期になると、スーパーの店員やピザの配達員はサンタ帽を被り(被らされ)、カフェにはホリデーシーズンの新作が並び、乾燥した冬の匂いの中、昔ながらの商店街では似合わないイマドキなクリスマスソングが流れる。
豆腐屋もツリーを飾る。

私はこういうものを五感で感じ取ると、身体中がゾワっとする。この感覚は例えようがないのでこう表現するしかないのだが、とにかくゾワっとする。鳥肌が立つこともある。ほんとだよ

この例えようのない感情の高揚感、喜びやワクワク、なぜか混じっている焦りのような、胸が締め付けられるこの感覚が、狂おしいほど好き。


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話は変わるが、今の日本には「好きを仕事に」することが理想であり、憧れであり、好ましいというような風潮がある。この「好きを仕事に」の風潮を否定するわけではないが、私は残酷極まりないものだと思っている。


発信活動をしていると、「好きなことを仕事にしたいのにできない」とか「好きなことがなくて困っている」とか、そういう質問や相談が山ほど来る。

こんな小娘に相談が来るのもありがたいことだが、話を聞くとどうやら私が「好きを仕事に」を実現しているように見えているらしい。発信する上でそう見えているに越したことはないが、質問への返答には「好きを仕事に」している人のイメージを壊すような返答ばかりしている。


例えば、自分は人と話すのが好きだから営業職に就こう、という人がいるとする。しかし「人と話す」というのは営業職を成り立たせるうちの部分要素の一つでしかない。

契約を取り付けるまでの様々なスキルや要素が重なり「営業職」というものの全体要素になるのだが、それを補うことができなかったり、想像以上の苦難に打ちのめされて「自分はこの職には向いていなかったのだ」と、全体要素に対してマイナスなイメージを抱くと、好きなはずだった「人と話す」という部分要素さえ自信を失くす可能性がある。

どんな困難が起ころうと「人と話せるだけで幸せ極まりない」というくらいであれば乗り越えられるかもしれないが、それほどの好きの気持ちがあれば「人と話す」ことが全体要素を占めるような職に就けばいいのだ。なければ創ればいい。

しかしそうではないと言う。

この時点で「人と話すことが本当に好きなわけではない」「好きを仕事にしたいわけではない」「好きを仕事にしたいがそれに至るまでの努力をしたくない怠惰」のどれかで話が解決することがある。


加えて、仮に本当に好きだと言える分野であっても、やはり金や規約や制限や他人が関わってくると、一筋縄にはいかない。
そして本当に好きな分野だからこそ、自分よりもその「好き」を極めている者、優れた者がうじゃうじゃいる現実に向き合うことになる。人間とは不思議なもんで、「好き」と「得意」が必ずしも一致しているわけではない場合もある。だからこそ、上には上、壁の向こうには壁といった状況に出会うことになる。


そうするとどうだろう。好きだったものがいつからか好きじゃなくなっている自分に気づくことがある。義務、競争、数字、生活、世間、現実。いろんなものに削られ、「好き」という尊い感情が自分の中から消えていく感覚は実に残酷だ。


そもそも「好きを仕事に」という表現が陳腐化している。しかしそれがあまりにも綺麗な物語のようなもんだから、やがて夢追い人の理想となり、解像度が低いまま言葉だけ独り歩きしているのではないだろうか。


”夢追い”は美しさだけでは出来ていない。

好きではないけど得意である分野を貫くこと、好き以外の働く理由を見つけること、「嫌い」からただ逃げること、そういった道ももちろんある。これらの道を照らすライトを、綺麗に表面が舗装された道を精一杯照らすことに使わなくてもいいだろう。

好きなことがないことを嘆かないでほしい。夢がなくとも、「好き」を職にしなくとも胸を張れる世の中であってほしい。舗装され魅せられた正解は、あなたの正解ではなく、誰かさんの正解なのだから、どうか自分を「間違っている」と卑下しないでほしい。


...と、相談されるたび返答しているのに、結構な割合で既読無視されるのでクソ悲しい。せめてハート押してな❤️

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(話が逸れちゃった.......。)


私自身、夢追い人だった。

好きだと思っていたことは好きではなくなり、好きだと思っていたことは実は得意なものではなく、楽しくもないことばかり得意で、なるほどこんなもんなのかと理解した。

別段好きでもないが比較的得意なことをしてある程度安定してくると、やはり好きなことを追い求めたくなる性なのか、人間。最近はしきりに好きなことを探している。

探していると言っても、私には既に好きなものは沢山ある。いくら好きなことが磨り減ろうが、広く浅く派だったのが功を奏したのか、好きなものはまだある。
無難に喫茶店巡りも釣りもお菓子作りもカメラも読書も好きだが、これらの程度の「好き」は仕事にしようものなら朽ちることを知っている。これはもう、これまでの感覚だから言語化しようがない。


朽ちることのない「好き」を探していた。


クリスマスマーケットが好きだ。しかし「クリスマスマーケット」を形作る要素の何が好きなのかはわからない。北欧の雰囲気なのか、それとも売られているホットワインや雑貨の類か、統一された装飾か、はたまたイルミネーションに照らされた人々なのか。

私はこれを「なんとなく全部の雰囲気が好き」という言葉では終わらせてはいけない。このままだと、その「好き」は結局朽ちてしまうことを知っている。あの豆腐屋のツリーが、先取りしすぎた百均の陳列棚が「なぜ狂おしいほど好きなのか」がまだ説明出来ないのだ。


そこで私は、あの感覚になった瞬間の光景を写真として残し、全ての共通点を探すというなんとも面倒臭いことを始めた。

買い換えたばかりのiPhoneで撮る写真は無駄に画質が良くて、感覚を残すだけに使う機能としては良すぎるくらいだ。他人が見たら「これが何?」となるような写真がフォルダに十分に集まった。


一枚一枚目を通す。


てっきり自分は統一感のあるシンプルで洒落たものが好きなのかと思っていたが、統一されているとも、洒落てるとも言い難い商店街の角の雑多な古本屋がフォルダに残されていたので違う。

「これが好きだ」という思い込みは怖い。答え合わせの作業はやはり必須だった...。


ある一枚に、東京都八重洲口のDEAN & DELUCAの店舗が写されていた。意味もなく入店し、意味もなく茶葉とクッキーを買い、カレンダーにはないティータイムを想像してあの高揚感に浸っていた。

ヒントを探す気持ちでDEAN & DELUCAを経営する株式会社ウェルカムの会社概要、経営理念、代表である横川さんの記事など一通り目を通した。するとなんとなく目に留まったのが「感性の共鳴」という文字。


私とよく似た友人に相談していた時も、同じ単語が出ていた。

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感性。気になったのでいくつかの文献を探ると、少々哲学的な話になってきた。


この言葉が定義するものはカント哲学や認知心理学によって様々だが、大体に共通するものが、これは無自覚的、直感的な「能力」であるということ。


心理学における「感性」とは、色や形や感情などを知覚する「感覚」とは異なる。例えば、絵画の色や形などの情報を得るのは感覚的処理であり、その絵に含まれうる多義的な情報を得るのは感性的処理だということだ。

後者の処理の過程は無自覚であり直感的、そして主に「評価」という形で表現されると定義されている。

ただ、この評価は万人が可能なわけではなく、個人によって対象や程度の差異があるゆえに印象評価の「能力」であるとされている。

...多分そういう解釈だと思う。たぶん


これを元に当てはめると、私は豆腐屋のツリーを、自分を高揚させる対象として「評価」していたのだ。

そしてこれは完全に持論だが、この評価に値する感情(高揚感など)、そしてその感情の起因とする対象(豆腐屋のツリー)を、それごと「情緒」というのだと思う。


豆腐屋のツリーを見て、私は瞬時にツリーにオーナメントを飾る店主、チラシを飾るまでに至った店主の思考を自分の中で作り上げ、現物を見ることによってその物語の鱗片に触れたような気がしていた。これが多義的な情報である。正解はなく、対象から各々が想像しうるもので異なる意味が生まれる。



「多義的な情報」は私が創り上げた空想物語、それを含む「対象」は豆腐屋のツリー、また、その対象とその処理から生まれる感情が「情緒」なのだ。

情緒を感じるものに個人差があるのは、感性的処理すなわち「評価」が能力であるからだ。この能力は、趣味嗜好含む個人の性質により差が生まれるもので、優劣の上で語られるものではないと私は思っている。(趣味嗜好が人となりに準ずるものであり、それゆえ性質に含まれるというのも持論)

あるからいいとか、ないからダメとか、どれに情緒を感じないから劣っているとかそういう類の話ではない。


つまり私は多義的な情報を含みうる対象とそこから生まれる感情全て、つまり情緒が「好き」であり、この「好き」は私の能力であるということ。そしてこの能力は、私の性質に帰属するということ。


性質は天性のものであるので、朽ちることはないだろう。と思った。この「好き」は消えない。



広島の地を平和記念資料館に行ってから巡ると、全てが複雑な感情を纏う対象に思えるのと同じように、その地に関する本を読んでからその地に観光に行くと、沢山の情緒を感じることがある。

やはりその地の情緒が好きだったのだ。「旅行好きだわ〜」と思い仕事にしてみて違和感を覚えたのは、それを動画や記事に編集するとどれだけ「エモい」フィルターをかけようが、画面を一枚介するだけで私の感じた情緒が消えてしまう気がしたからだ。



私の尊敬する経営者の言葉に「自分の渇きを癒すプロダクトだけが、回り回って同じ渇きを持つ人々を癒す」というものがある。これは記述した「感性の共鳴」と同じ意味も含まれていると思った。


昔ながらのメニューに当時から変わらぬ家具、古びた雑居ビルに在る純喫茶では埃までが愛おしいものの、「こういうのが好きなんでしょう」「エモいでしょう」が透けて見えるような、限りなく本物に近い昭和を模したものには少しも心が動かないのだ。

これは、後者には私の渇きを癒す情緒が含まれていないからだ。しかしこれを「エモい」対象とし好む人がいるのも事実で、その人たちは感性的処理でなく見た目などの感覚的な部分に富んでいると言える。

既述したがどちらが優位とか劣っているとかいう話ではなく、単純に性質、各々の持つ渇きの違いなのだ。



光、埃、匂い、音、空間、物語そのものを感じ取る「能力」が「好き」として私に備わっているとしたら、この長々とした4789文字の仮説が本当なら

私の渇きを癒す情緒だけを追い求めた空間を創ることこそ、「好きを仕事に」の体現なんじゃないかと気づいた。


きっと私がいつか空間を創るときは、「この場所にこんな光が差し込んでいればいいな」「このテーブルにはこんな匂いが届いたらいいな」とか言い出すんだと思う。もしくは誰かの空間と思いを受け継ぐんだろう。先人へのリスペクトとセルフエスティームが共存する場所を。

それが私の情緒なので。




私の渇きを癒すものは、SNSにはないんだよな



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