「うちのママは、ラーメン屋でカレーを頼む。」
私には特別長けた何かがあるわけではないので、毎度noteを書くにあたって着地点や構成を決めて、前後の内容が繋がるかも見直して、少しでもまとまりのない文を見やすくするためにメモにメモを重ねています。あれでも。
しかしながら今回は、どうしても感情で文を連ねそうなので、構成や着地点も特に考えていません。
書きながら何が伝えたかったのかが浮き出てきたのなら、感情から生まれた文が最適な役割を果たしたと言っても良いでしょう。
じゃあ、今回はそれを目標にしてみます。
子どもみたいな、2人の大人と私の話。
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真面目そうで実は一番子供な兄(27)と、めちゃくちゃ強くて破天荒な母(55)が、私の家族です。
(ペットも立派な家族だけど、今回は紹介だけにさせてな、ごめんジョア。)
それでは、少ない記憶を頼りに時系列に沿って少し私の家族の話をしようと思います。
家族の許可は取ってないのでどこまで話していいかわかりません。
怒られるのは嫌なので柔らかい話だけ出そうかなと思います。
壮絶な話はいつか情熱大陸とかで話せたらカッコイイですね。将来大きい人間になれたら、オファー待ってます。
私が2歳の頃、父が癌で亡くなりました
父との別れはあまりに早く、思い出は私にとっては皆無といっても過言ではないですが、
唯一駅前で母親に抱っこされながら働きに出る父に向かって手を振っていた(正確に言うと母によって振らされていた)記憶だけ残っています。
父も母に似て破天荒だったようで、いろんなエピソードを母や兄が笑顔で話すのを見ると、少しだけ羨ましく思います。
夫を亡くした異国人の母は、まだ慣れない日本で女手一つで子供2人を守り抜くことを余儀なくされ、なぜか「飲食店やるか」と決めたわけですが、それはもう想像を超えた苦労が待っていたことでしょう。
昔からよく「女は舐められちゃダメだよ、強くいてね」と言い聞かせる母の言葉に妙な重みを感じていたのも、
きっと裏で子供には見せれないような辛い経験をしてきたからだと思うと、母は偉大だな、と改めて思います。
大黒柱を失うとその分家計を支えなくてはいけない責任も分散します。
兄と母は、この家族を守るために常に1番に家族のことを考えていました。
母が経営するお店は、ランチ営業から深夜までです。少しの休憩時間に家に帰り、まだ幼い私の世話や家事をするのは骨の折れるような毎日だったと思います。
いつからか私の家には家政婦さんがやって来ました。数ヶ月ごとに私の世話をする人が変わります。
そんなのも、割と慣れるもんです。
自分の見えないところで娘がしっかり世話をされてるのか気が気でない母は、よく家政婦に対して注意をしていました。幼い頃の私はそれを「喧嘩」と捉えていましたが、今思い返せば注意をするのも仕方ないな。という気持ちです。
そんな中でも母は、少しの合間を縫って私に会いに来てくれました。寝るときはいつも隣に居たし、ご飯を作れるときは寝かけながら焦げかけのご飯を作ってくれたし、プーさんの絵本が全部読めたのも母のおかげです。
今考えたら、いつ休んでたんだ?と思うばかり。
私が小学生に上がるころには、家政婦さんという存在は居なくなり、親戚の姉がお手伝いさんとしてやって来ました。
母は三姉妹の末っ子で、一番上の姉の娘、私の従姉妹にあたる人です。
うちの家族は親戚間の距離が非常に近く(物理的な距離ではありません)、それゆえいろんな問題が発生することもあります。
これに関しては兄に怒られたくないので何も言及しませんが、母にはとにかく「お疲れ様」と言ってあげたい毎日です。
家政婦よりかは親戚に家を見てもらう方が気持ち的にも気楽だったのでしょう。
しかし定期的に子供の私が「喧嘩」と捉えてしまうような出来事が起こり、従姉妹の姉もいつのまにか家から姿を消していました。
少し成長した私からすれば「そりゃそうなるや」ということばかりでしたが。
世話をされた私にとっては数年間のいい思い出もたくさんあるので、どこかで会って「こんなにデカくなったぞ」って言ってみたいなとは思っています。
そんなことが起こると、小学生の私でも、自分の家庭は少し他の家庭とは違うのかもしれない、と思う時もあります。
もしかしたら母は苦労をたくさんしてるかもしれない、と思う時もあります。
だから昔から私が作文なんかで書くことは全部「かぞくのこと」でした。
そんな感じの文が割と市で表彰されてなんかの市の発表会に呼ばれた時の、母の笑顔は、そりゃもう、最高でした。
記憶力は悪い私ですが、脳裏に焼き付いています。
当時の私は、仕事しかしない母の幸せはどんなものかを考えるようになって、小学生なりの答えを見つけました。
「お店の常連さんに、私とお兄ちゃんの話をしてる時が一番しあわせそうだなぁ」
そう気づいた私は、母の喜ぶようなことを意識的に始めていました。
こうなったのも、私が単に母が好きだから、とか、母といる時間が少なかったゆえの親への承認欲求だけではなく、兄がそう教えてくれたからでもあります。
「おまえのママは世界一すごいんだぞ。だからたくさん辛いんだ。子供は、お母さんを幸せにしなきゃダメだぞ」と、子供の私にもわかるようにたくさん教えてくれました。
兄は中学生のころから、お父さんの代わりに私を叱り、教え、そして様々な環境を提供してくれました。忙しいママの代わりに、三者面談も授業参観もスーツで参加してた。
口では言わないけど、父親がくれたであろう愛は、全て兄から注がれました。
そして、いつも母を愛してました。
そんな姿を常に背中で見せてくれた兄には、いつも感謝しています。
兄貴このnote見てるよな?そろそろ秋服買いたいわ!頼むで
ママも寝ないで授業参観に来るときもあったなぁ。
その頃から髪は真っ赤で、横にはチャラめの若いスーツの兄。
ママは「髪、恥ずかしくない?」とよく聞いてきましたが、
「むしろずっとそれでいて」と言えるくらいには、「くつざわのお兄ちゃんかっこいいし、ママも面白くて優しいし大好き」と言ってくれる友達に囲まれていました。
話が逸れました。感情で文を書くとこうなるんですね。
そうそう、母が何をしたら喜ぶのか子供なりの答えを出した私は、意図的に母が喜ぶような立ち位置に居るようになったのです。
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1つ。母は「愛される子」であると喜びます。
母は非常に世渡りがうまく、今お店が上手くいっているのは昔からの常連さんのおかげといっても過言ではありません。
そんな背中を間近で見てきた私も、ある程度人への接し方とか、常連さんにする方法とかはわかるわけです。
自営業のお店にいる時間も長かったので、いろんな年代のいろんな人と仲良くさせていただきました。「いい子だね娘さん」と母に言わせたら目標達成です。
いわゆる「ごますり」が上手く、幼い頃から無駄に世渡りについて考えていました。
私は、大人にママのことを褒めて欲しかった。ママの今までの苦労が認められて欲しかった。
私が褒められるということは、親が褒められているようなものなので、それぞれの人に合った「いい娘」をやってきました。
おかげで地元には私を娘のように可愛がってくれる存在が沢山いますし、今も連絡を取り合えるような、仲の良い先生も多いです。
そんな感じで、「愛される我が子」の立ち位置を形成してきました。
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2つ。母は「目立つ子」であると喜びます。
小学生の頃の運動会では、最前列で大きな旗を持ってみんなを率いたり、中学の頃は学年委員になってみたり、高校の頃の集合写真は最前列で横たわっていたり、
そんなことを母に見せて聞かせては笑顔にさせ、私も満足していました。
ただ、そのポジショニングは歳を重ねるにつれて、「イキリウェイ」が形成される要因になります。
高校生になると、男勝りな自分を演じていたり、無駄にクラスを仕切っていたり、いろいろ黒歴史になるようなことばかりしていました。
別に母を喜ばせたかったから仕方ないとか言うわけではありませんし、私自身がただのイキリウェイ気取ってたのは確かなのですが、
毎度そんな集合写真を見せたり、エピソードを聞かせるたびに母の顔を覗き込んでたのも事実です。
例の如く、フォロワーが爆増した日は一番にお母さんに報告しました。
SNS疎い母はあまり理解してませんでしたが。
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3つ。母は「強い子」であると喜びます。
昔は「転んでも泣かない」「お兄ちゃんと口喧嘩で勝つ」くらいで、強い子ね、と頭を撫でられていましたが、大きくなるとそんなわけにもいかず。
少し細かい話をすると、私の家族は、私が高2〜高3あたりの頃に割と人生で一番壮絶な時期を過ごしていました。
それ自体を詳しく話すとアレなのでアレですが、母は今までの50倍くらいの責任や苦労を負い、兄もそれに伴い負担が発生し、タイミング悪くその時期に不吉なことがまぁ人生ゲームのようにポンポン起こりました。
ゲームかというくらい、遊ばれてるのか、というくらいに「努力をこれだけしても関係なく起こる出来事」に常に絶望するしかなく。
そんな頃、皮肉にもタイミング良く、17歳の私には重い出来事がポンポン起こっていました。
家族の前で泣けない私の、唯一隣で泣ける相手であった飼い犬も闘病生活の末亡くなりました。
今まで沢山頼りにしてきた家族も、頼れる状況じゃありません。私よりも辛いだろうから、頼るなんて出来ません。
その上、強い子でないといけません。
となるともう勝手に出てくる涙とともに必死に動き続けるしかなかったのですが、親には1ミリも悟られないように上手に過ごしました。
高校でもそんな素振りを見せることもなく。
「舐められてたまるかクソが」精神のせいで尖っていたので、そんな状況下にあることが少し恥ずかしかったのです。
「だるいから学校サボったわw」を貫き通すと、楽です。本当を知っているのは数人の友達と先生で十分です。
そんな最中、特に何も知らないクラスメイトの男子がその頃の私と親を軽く侮辱するような発言をLINEでしてきたことがありました。
自分の沸点は家族関係なんだなぁ、と気づきました。野次馬が沸いてしまうような酷い怒り方をし、ブレーキの効かなくなった私はまぁ酷いことをしました。マジでごめんって謝りたい。謝ったけど。
そんなことももちろん親には、「ママを侮辱されて怒ってしまった」なんて言えず、
「ひどいこと言ってくるやついてさ〜!昔から口喧嘩強いじゃん?今回も勝ったわ〜笑」と、強い子を演じたことを覚えています。
良くない方向に、「強い」を捉えていました。
いろいろひん曲がっていましたね。
頭が空っぽだったんでしょう。
とにかくどんな時期でも、「泣かない強い子」をやってきました。
親の前で泣くことほど、親を心配させてしまうようなことはありません。
昔は、心配させないことが親孝行だと勘違いしていたのです。
そうやって、今まで特に自分を持たずに生きてきました。
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よく取材とかで、「今の活動はなんで始めたのですか?」とか「なんでそんなに家族と仲良いんですか?」と聞かれます。
全て因果性で結びついていると考えます。
昔から今までの人生が今の私を形成し、同時に家族との仲も作っています。
そして、家族との仲の良さが今の私に結びついているのかもしれない。と最近考えました。
表に出るような私、あるあるモノマネを始めた私、聡明ぶってカッコつける私、確実に嫌というほど幼いころからの経験が今と今に至るまでの過程全てに影響してます。
既述したように、目立つ子であるポジショニングをしてきた私ですが、正直、根っから目立つことが好きなわけではありません。一人で静かなカフェで本を読むことの方が好きな時もあります。
そんな私が、将来的に直接影響するわけでもない、なんなら理想像が直で向けられるような「表に出る仕事」を時たま受ける理由は、親への宣材になるからです。
親の知らないところでよくわからないことしている不安は果てしないでしょう。目に見える充実っぽさを提供すると、安心させてあげることができます。
そしてちょうど良いことに、お母さんの夢は「テレビで子供を見ること」でした。
テレビに家族ごと出た時なんかはもう、死ぬほど喜んでましたね。私はその顔を見れたことが、冗談抜きで一番嬉しかったです。
表に出るような私が形成された理由はそんなとこでしょうか。
また、強い娘であることを望まれていることに気付いた時から、「強い子」を履き違えた私は口が悪くなったり男勝りな言動気取ったり、いろいろ間違えた「強い子」になっていきつつありました。
(肝心のメンタル面は強化されませんでしたが)
そうすると、表面上だけでも、私が良くモノマネをしていたような架空人物とは反対の自分が形成されます。
モノマネしやすい対象というのは、いかに客観視できるかという部分にあります。
私が元から友達の前でそういった架空人物を真似していたのは、正反対の対象だからこそです。私が私を演じていても、なんのエンタメにもなりません。
ありそうな女モノマネをしてた理由はきっとそんな感じ。あくまで憶測。
んで、残りの聡明ぶる私ですが、それは昔からそうであったわけではないです。
私の母はちょい過剰な愛と共に過剰な子供扱いをします。
何もできない子であるほうが、過保護気味な母としてはいつまでも母で居れるので子供扱いをするのは全過保護母には共通する心理であると思います。
でも、私個人としてはもう成長した私を認めて欲しかった。
あまり親に対抗することのなかった私ですが、最近は子供扱いをされると不機嫌になります。
母に横文字のビジネス用語が伝わるわけないです。
それでもこれだけ大人に近づいたことをやっている、と言いたかった。マーケターやらプランナーやらの肩書きを求めたり、コンサルをしてみたり、noteで小難しいことを書いてみたりして背伸びをする私は
ただ親に大人だと認めて欲しいだけの子供なのかもしれん。ですね。
そんな感じで、今の私を形成する要素は、幼い頃からの経験だったり、親を愛す感情だったりに左右されてるんです。きっと。
こういうの、自己分析って言うんですか?楽しいですよね。自分を知った気になれるので。
今まで自分軸で生きてこなかったので、自分に対して興味を持つことがすごく新鮮です。
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こうして感情で文字を起こしてみると
私は少し、偏った生き方をしてきたのかもしれません。
あまりに家族依存の傾向が強すぎました。
ひまわりを好きになった理由も、「あなたは良く笑うから、ひまわりが似合うね」と母に言われたことが理由です。
注がれてきた愛の、返し方がわかりませんでした。喜ばれることを表面上で作り上げれる自分でいれればそれでいい、とさえ思っていたかもしれません。
最近になって、親はそんなことは望んでないと気づきました。
私が私の人生を生きて、美味しくご飯を食べて、お兄ちゃんと仲良く笑っていれば、それで幸せなのです。
「ママはこうしたら喜ぶよね」と表情を伺いながら過ごすことは望んでないです。
ラーメン屋さんで、カレーを頼んじゃいけない理由はありません。
ママはいっつもラーメンが有名なお店でカレーを頼みます。失敗します。
お兄ちゃんと私でラーメンを分けてあげます。
自分が食べたいものを食べて、失敗したら家族が分けてくれます。
お母さんの言う「強さ」はたぶんそこなのかもしれません。
ラーメンのうまい店でカレー頼むの、相当な勇気いりますよね。
でもそれは家族ありきの強さです。書きながら気づいた。
このnoteのタイトルは本当は「すごくかんたんな愛のはなし」でした。
確かにすごく単純で、簡単な話です。まっすぐな愛を受けて育ち、そしてまっすぐに返そうとしすぎた。
でも、タイトルは今の方がしっくりきますね。
今回は、どうしても感情で文を連ねてしまったので、構成や着地点も特にないまま終わりそうでしたが
書きながら何が伝えたかったのかが浮き出てきたのなら、感情から生まれた文が最適な役割を果たしたと言っても良いでしょう。
ラーメン屋さんで何を頼むかは自由です。餃子追加しても良ければカレー食っても良いんです。ただ、リスクもあります。
でも美味くなかったら、家族に「美味くなかったろ」って、ラーメン分けて貰えばいいです。
今までは、その店のおすすめを頼んで、美味しそうに食べてる私を演じて、「美味しく食べててよかった」と言わせてその店を出てきました。
たぶん、満足した状態で退店出来るのは前者でしょうね。
まぁいつもの場合おかんは普通にカレー食べたくて失敗してるだけです。普通にチョイスミスです。
変な比喩を使いましたが、「家族ってどうして家族なの」って、自分に問いかけたことがなかった私はいろいろ履き違えていました。
親孝行の仕方、見直すタイミングですかね。20歳ですし。
とりあえず親の前で泣くことから始めてみますか。
長くてまとまりのない文でしたが、ご一読いただきありがとうございました。
こんなnoteを書く子になったで、おかん!
一緒に情熱大陸出ような!
5:39 おかん、仕事から帰宅。着々と味噌汁を作り始める。
いつも美味しいよ。
いただいたサポートは、可愛い可愛いボーダーコリーのジョアのおやつにしちゃいます。ありがとうございます。🐕