故人から学んだ、対症療法を大切にすること
6月に入って急に治療院が暇になったこともあり、保管期限の切れたカルテ整理をしています。
開業以来これで2回目。
いらした方のカルテを見て名前を読みながら、ファイルから外していきます。
いろいろな出来事があって思い出深い方々が続き、中には鬼籍に入られた方もおられます。
一枚のカルテで手が止まりました。
前回の整理の時に処理できずに残しておいた方のもの。
10年以上前に不帰の客となられた、当時60代の女性です。
比較的強い側彎症をお持ちで、また慢性膵炎から膵臓癌を患われ、治療を続けておられました。
訴えは背中の中央部分、ちょうど胸椎9番付近の痛み。
そこは、側弯のカーブが大きくなっているところで無理のかかりやすいところでもあり、また膵臓の痛みが出やすいところでもあります。
安静時にも運動時にも鈍い痛みがあり、私にはその痛みが側弯によるものか、内臓に起因するものかをクリアに判断できませんでした。
ただ、胸椎の柔軟性を出す施術(関節モビライゼーション)を行うと、セルフケアも併用しながら2週間から1か月近くは楽に過ごせるため、それを求めて通院されていました。
けれども痛む胸椎付近を動かすことは、対症療法に過ぎません。
当時の私は、漫然と対症療法を繰り返すべきではないという、この業界でよく耳にする言葉を額面通りに受け止めていたので、果たしてこのままでよいのか迷いながら施術をしていました。
ある時「癌が悪化したので入院します」という電話が入り、通院されなくなりました。
数か月後、息子さんから電話をいただきました。
女性が亡くなられたこと。
そして、最期まで仕事を続けられたのは治療院のおかげで、それがなければ背中の痛みで辞めていた。
だから感謝していることを伝えて欲しい、という言葉を遺されたこと。
息子さんは電話口で穏やかにお話しされました。
それを聞きながら、もったいないお言葉を頂戴してありがたいという気持ちの一方で、自分の愚かさを恥じ、無性に泣けてきました。
愚かというのは「本当にこのままでよいのか」と悩みつつ脊椎の施術をしていたこと。
そして、対症療法をその場しのぎの繰り返し、と低く見ていたことです。
クライアントから離れた時にあれこれ悩むのは、建設的なものですから良いでしょう。
けれども悩みながら施術をするというのは、手元の精度が落ちるなど施術の質が低下する可能性もあります。
実施することを決めたのならば集中すべきでした。
プロとして最低限為すべきことが出来ていなかったのです。
もうひとつは「肩がこるなら肩をもむ」などの対症療法を軽く見る、というこの業界の慣習的なものに、何の批判的な検討も加えないまま染まっていたこと。
しかし、このクライアントにとっては、その対症療法が「生活の質(QOL)」の低下を防ぎ、最期まで仕事が続けられたなど、望んだ人生を送る手助けのひとつとなったのです。
私は自分の頭の中の考えに目が奪われ、目の前のクライアントが何を思い、何を願っているのか。
その一番大切なことに十分な注意を払えていなかったのでした。
もちろん、人間、身体、運動機能の理想的な在り方と、そこに至る道のりを示して導くというのは専門職として必要な事です。
けれどもそれには、クライアントがどのような状況にあるのかを踏まえた上でないと「理想」や「正しさ」を振りかざしているだけに過ぎなくなります。
理想や正しさは毒にも薬にもなるもの。
最初からあるべき論を用いても、合う人にはいいけれど、合わなければ心を閉ざしたり、下手をすると傷つけることになりかねません。
以来、私は対症療法を大切にし、はじめは訴えを有する付近の対症療法を丁寧に行っていくことを、心掛けるようになりました。
その上で全身の状態や生活環境を見つめ、より良くなるよう、一歩前進させるためには何をするのが現実的なのかを考えて実践に活かしていく。
いきなりベストを狙わず、ベターを重ねていくようにする。
その最初の段階が対症療法となる訳です。
ご紹介したクライアントは、現在のスタイルを作る上で大切なことを教えてくださったひとりです。
この仕事に就いて以来、多くのクライアントとご縁をいただいてきました。
ここに積まれたカルテは、学びの足跡の一部です。
今の私があるのは師や仲間、そして何よりクライアントのお陰。
そのことを改めて肝に銘じて道を求めていきたいと思います。
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