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「誰よりも寛容であるべき自分」は自分に寛容じゃない

最近、自分の寛容度に悩むことがあります。文字にしたら整理される気もするので、ちょっと書いてみようかなと。真面目なnoteになりそうです。

こんばんは、くつばこのりこです。今日は最近の悩み事ノートです。悩み事ばっかり書くと暗くなっちゃいそうなので、最近あった嬉しかったことをたくさん書かせてもらいます! ①ボランティアで家庭教師してた子が大学に受かったこと②早稲田祭大盛況だったこと③ずっと希望してた障害学のゼミに受かったこと④母校で授業ができること⑤友達が、何かに書く「尊敬している人」に自分の名前をあげてくれたこと 全部全部嬉しくて、何か自分にお祝いを買いたいです。ヘラルボニーの、派手なのがほしいです。

☆感情的に、寛容になれないことがある

 具体的な記述は避けますが、最近、気持ちや感情を「分かち合いたい」と思いながらも、「あーきつい」と思ってしまうことがあります。そういうとき、だいたい私は「人間全般、むり!」となって、SNSに触れられなくなります。自分が心地よく関われないのは、相手の特性が原因のこともあれば、社会的な立場が問題のこともあります。(相手はひとりじゃないです)いずれにせよ、脳内を整理して、自分の感情を整えようと思う前に、感情に自分を持っていかれて、返信ができなくなったり、勢いでSNSのアプリを消してしまったりします。誰かから通知がくるというだけで心がごーんと重たくなって、一度目覚めてもまた目をつぶり、すべての連絡を拒絶したくなります。
 SNS以外のパターンもあります。人と合うということが怖くなります。これはだいぶ治りましたが、一時期は、人に会いたいと思われることが怖くなり、限られた人以外と会おうとするとぐらぐらと体調が崩れる時期がありました。
 原因は、どれも「自分が誰かを受け入れられないこと」への嫌気です。
 (今振り返れば、誰かに助けを求めればよかったと思うのですが、さなかの自分は「自分のヤバさ」に気が付けないので、「早く治らないかなー」と思うだけでした。)

☆「寛容であるべき」自分を責めてしまう

 私は、くつばこという、多様性を大切にするサークルの代表をしています。くつばこでは、互いの違いを大切にするし、私自身の弱さも、みんなに大切に愛でてもらっていると思います。でも、いや、だからこそ、私の中にはいつも「私が一番寛容であるべき」という規範がででんと居座っています。多少つついても、びくともしません。これが、結構厄介です。自分の感情に蓋をするように、「寛容にならなきゃ」と思って、そう思っている自分が嫌になります。

☆なぜ寛容になれないのかに、冷静に迫りたい

 なんで、私はネガティブな感情を持ってしまうんだろう。何が受け入れがたいんだろう。まずそこを探さないと、このまま苦しくなってしまうだけだと思います。うたの、「寛容は不寛容に勝てる?」のnoteととても近いですが、すべてに寛容になろうとしても、結局自分に寛容になれません。現にたまに限界が来ます。「どこまでを受け入れるのか」を客観的に判断すべきでしょう。相手が「寛容になろうとしない」のではなく、「寛容になれない」のだと、ちょっと難しいんですが…。
 でも。せっかく自分がこれだけ「寛容になれない」瞬間があるなら、その背景に迫らないと、もったいないですよね。
 そして、もうちょっと、弱い人間になりたいと思います。客観的な判断は、自分だけではできないもの。オンラインの活動が多いのでちょっと難しいところもありますが、ちゃんと周りを頼れるようになりたいです。弱い自分に、寛容になりたいです。

 これを公式のnoteに出すのはあんまり良くないかもしれないけど、成長記録ということで、残しておきたいと思います。
 これを書ききって、昨日のうたのnoteの最後の一文を読みました。くつばこの悩みは、案外共有されているのかもしれません


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