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私の歩いたあとは草木も生えないか? その1

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● 不定期刊くたじゃ報  33号  (2003年発表の再録)
  私の歩いたあとは草木も生えないか? 1 / 松島玉三郎  ●

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某インディーズ・レーベルを主催しているK氏は、その昔、竹中労氏のもとで助手をしていたらしい。そのK氏がこんなことを言った。
「竹中労のあとをついていった連中は死屍累々(ししるいるい)だった・・・。竹中さんの歩いたあとは草木も生えない」
(これは、かなり身近にいた人ならではの暴言のたぐいであろう)

私は今までいろいろな職に就いてきた。

大学在学中は、少女マンガ好きのおたく青年であった私は、少女マンガ誌の編集者になりたくて、有名雑誌社への入社をめざしたのだが、どこにも採用してもらえず、就職留年した。
留年中に、衆議院議員の秘書のアルバイトをして、その議員の紹介で、やっと折込広告の代理店に入社した。

やっと入れたのだから、おとなしくしていればいいものを、時代が昭和が平成になって1年くらいたった頃、私は転職魔になってしまった。

そして、私の入る会社は、ことごとくつぶれてしまうのであった。・・・あたかも、私の歩くあとは草木も生えない、かのごとく。

その頃、私はすべてにいきづまっていた。
勤めていた折込広告会社は好きでもキライでもなかった。生活を変えるべき時期、というものがあるとすれば、そのときがまさにそれであった。タイミング良く、なぜか、私のもとに転職斡旋のアンケートハガキが届いたのだ。
私はすぐとびついて、紹介されたディスプレイ会社にあっさり転職してしまった。それから、いばらの道が始まった。

ディスプレイ会社は、80年代後半の東京のおしゃれなカフェやバーの内装プランをのきなみ担当していた会社であった。(ライブハウスのクラブクアトロも手がけていた)
それらのお店の設計をごっそり手がけていた某設計事務所から、ディスプレイの仕事をほとんどもらっていたのだ。それもそのはず、その設計事務所とディスプレイ会社は資本提携していたのだ。私はこのディスプレイ会社の営業職として入社した。

慣れない営業の仕事で、私はかなりヘマをやり、先輩からいじめられた。まあ、それはしかたのないことなのだが、私が入社してから、仕事がどんどん減っている気がしたのだ。これはまずい。
それは気のせいではなく、本当に減っていたのだ。また、ひとつひとつの仕事の予算も減ってきていた。時は1990年、バブル崩壊が進行中だったのだ。

最終的に、この会社は先細っていって、ついには関連会社に吸収されて、なくなってしまった。その前に私は、あたかも沈む船から逃げ出すネズミのごとく、別の会社に転職してしまった。私にしては珍しく、鼻が利いたのである。

次に入った会社は、セールスプロモーション・デザインの会社であった。ほとんど電通の下請け業務がメインである。この会社の営業職として私は働き出したが、この会社は最初やたら羽振りが良かった。電通から膨大な量の仕事をいただいて、デザイナーたちは必死で徹夜でこなしていた。

この会社は、デザイナー3人が集まり、3年ほど前に発足し、小さな部屋1室でやっていたものが、急成長したらしい。日夜仕事漬けのある日、副社長が言っていた・・・
「いやあ、電通さんに言われちゃったよ。そんなにたくさん仕事を受けて、もうけちゃって、おたくの会社、我々の一角に入ってくるつもりかい?本気で、日本のエグゼクティブの入る覚悟があるかい?てね」
・・・それを言った電通のおえらいさんは、何が言いたかったのか?今思うと、ずいぶん焦点ボケな発言である。からかっていたのであろうか?

それが証拠に、この会社もほどなく業績が急激に悪化して、倒産してしまうのだ。私は、またもその前に、ここから逃げ出したのであった。

ここまでが、私のバブル時代である。2度もバブルな転職をしてしまい、素直に沈没していった。もっとも、この時期がバブル崩壊であったことを私がちゃんと把握するのは、その数年後であった。

ここに至り、私はついに、自分の好きな音楽のウラカタの仕事を本職にしようと思いつく。
もともと、80年代おわり頃から、会社にかくれて音楽イベントの企画などをしていた私なのである。ちょうどこの時期、私の友人のミュージシャンが結成したグループがイベント等で人気を博していた。このグループのマネージャーをやってくれないか、という話が舞い込んだ。…では、ひとつこのグループを私がどこまで売りこむ事ができるか、やってみよう、という気になった。

そのグループはギタリスト3人が集まったインスト・グループでゴンチチが3人になったような感じだったが、ゴンチチよりもう少しジャズ寄りのテイストが売りで、また1人がギターシンセを使って、おもしろい味を出していた。
横浜の反町(たんまち)周辺の3人で結成したので、「タンチョークラブ」と名乗っていた(反町チョーキング・クラブの略であった)。

さてさて、当時の私はがんばって、この「タンチョークラブ」にいくつかのイベントの仕事を取ってきた。そのうち、プロデューサーのS-KEN(エスケン)氏に出会い、この「タンチョークラブ」を聴いてもらうと、かなり気に入ってくれた。S-KEN氏はちょうどオムニバスアルバム「東京ラテン宣言」を企画中で、「タンチョークラブ」を急遽このアルバムに入れたいと言ってきた。

私は二つ返事で快諾し、日本のサルサバンドたちにまじって「タンチョークラブ」も
レコーディングに参加した。曲は、S-KEN氏の判断もあって、あえてラテンぽい曲ではなく、ジャンゴ・ラインハルト風なジプシースウィングの曲を入れた。

このあとがトントン拍子で、このアルバムの発売元の(今はなき)アポロン音楽工業の若手ディレクターから「タンチョークラブ」の単独デビューの話をいただいたのだ。しかもピチカートVの小西氏をプロデューサーの迎えてのレコーディングに決定し、あれよあれよという感じだった。

すっかり売りこみに自信をつけていた私は、これとは別のルートから、デビュー前の沖縄のネーネーズの雇われマネージャーをたのまれた。
S-KEN氏から「松島は世界に通用する2つのアーティストのマネージメントをしてるなー」などと言われて有頂天になっていたが、実はこれからが大変であったのだ。

ネーネーズが東京のオムニバスライブに出演することになり、その打ち合わせに行った。いろいろなバンドのさまざまな事務所のマネージャーが集まっていた。
その中に、(のちにモンド・ミュージックという本を書いて話題になる)SS氏のマネージャーでT氏がいた。私はたまたま、この打ち合わせにシステム手帳「タイムシステム」を持って出かけたのだが、そのT氏が後日私に電話してきた。

「いやあ、音楽業界って、他の業界から比べるとラフな人が多いですよね。そこにあなたが高級システム手帳タイムシステムを持って来たんでびっくりしたんですよ。ああ、こういうしっかりした人もいるんなだなあ・・と感心しちゃったですよ。実はですね、松島さん、私といっしょに新たに事務所を興しませんか?」

私はT氏に呼び出されて溜池で会った。
彼は、細野晴臣氏の事務所にてSS氏のマネージャーをしていたけれど、今は独立したと言った。これから会社を作ろうと思っていたけど、ぜひ私とやりたいと言う。私の一存では決められないと思ったので、「タンチョークラブ」のリーダーと相談した。私たちは、二人とも細野晴臣氏が好きだったので、その事務所にいたという人物と会社をやるのは、なんかワクワクする素晴らしいことに思えた。結局我々は、この誘いをお受けした。

しかしT氏は、本当は細野さんの事務所の人ではなく、むしろ細野事務所にいたとウソをついて、各方面にめいわくをかけていた問題人物なのであった。
(SS氏のマネージャーをしていたのはウソではなかった)

それを知らない我々は、T氏といっしょに事務所を始めてしまった。
さてT氏は…ただの無能ではなく…誰かに自らの事業計画をプレゼンする能力は本当にずばぬけていた。ただ、T氏が問題人物なのは、そのプレゼンした内容を、ちゃんと実行できないことなのだった!
実行できないばかりでなく、すぐに別のことに興味が移ってしまい、ほうりだして、人に押し付けてどこかに行ってしまうのだ。
思うに、こういう人が、一番人にめいわくをかける、一番やっかいな人なのだ。我々は困った人と組んでしまったのだ。

それでも当初は、T氏の行動はパワフルで、たのもしく思えた。音楽制作のフリープロデューサーのHS氏の事務所の一角を間借りして居をかまえたし、「タンチョークラブ」のレコーディングの打ち合わせもどんどん仕切っていった。音楽ライターのAN氏も事務所スタッフとして連れてきた。

T氏のメッキがはげてきたのは、私が知り合いのから、門前仲町にオープンするライブハウス「深川座」の企画を手伝う仕事をもらってきてからだった。

このお店は、当時話題になった「お座敷ライブハウス」であり、「下町のフォークソング専門ライブハウス」であった。90年代後半のアコースティック・ブームの草分け的な店だった。(斎藤和義氏は、この店からデビューした)
当初、音楽TV番組の有名な構成作家のTK氏(「夜のヒットスタジオ」等)によって出演者がブッキングされ、たった100名弱しか入らないこの店のオープニングは南こうせつ氏が飾ったりした。しかし、さまざまな理由からTK氏がブッキングを担当できなくなり、私が企画と現場担当をお受けするという、大抜擢をいただいた。

門前仲町の深川座

私は問題人物T氏とともにこの業務についたのだが、人脈と信頼のあるTK氏が降りたのだから、思うように有名シンガーのご出演を願うのがむずかしくなった(当然である)。
しかし私は自分の人脈を駆使して、それなりに面白いブッキングを埋めていった。
(EPO初のアコースティック・ライブや、フランスのピエール・バルー氏とボサノバの中村善郎氏の共演などがそれに当たる)
だがT氏は、いわゆる「世間一般にとっての有名人」をなかなかブッキングできないことに、だんだんイライラするようになり、我々スタッフにつらく当たり始めた。また彼は、ミュージシャンの都合やメンタリティをあまり考えずに強引にイベントを組むところがあり、私はこれには閉口した。
T氏の発想は広告代理店的で、宣伝プランニングとしては悪くないのだが、音楽制作の微妙な機微を理解する力に欠けていた。むしろ、そのような機微は、宣伝プランニングを鈍らせるものとして、うっとおしく思っていたのだ。
ある日、私とT氏はついにけんかした。

さらに追い討ちをかける事件が発生した。
私の昔からの友人であり、作・編曲家・キーボード奏者のO氏が自分の事務所の旗揚げコンサートを企画していた。私はその宣伝業務を受けたのだが、広告業務好きのT氏がこの仕事は自分で担当すると言いながら、実際にはろくな宣伝ができなかった。むしろコンサート直前まで大幅に告知を遅らせて、実質的にO氏に損失をあたえる事態になった。

ここにおよんで私はT氏を「無能」と判断して、彼とは決別した。
「タンチョークラブ」は、私ほどすぐにT氏の無能さに気づかずT氏について行ってしまった。
寛大なO氏は、私を信じたばかりに不祥事が起きたのに…そんな私を許して、T氏と別れた私を彼の事務所に迎えてくれた。

私の道に草木が生えないとすれば…問題人物T氏と組んでしまった過ちの…うしろの道は、すさんだ荒れ野であった。T氏は、自分の事務所を(有)アジャストと名乗っていたが、実は有限会社登録すら済ませてなかったのである!
これじゃ、「会社がつぶれた」ことにはならないが、音楽業界にとびこんだばかりの私への強烈な一撃であった。

https://note.com/kutaja/n/n797aab422ba4
   へ続く

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