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私の歩いたあとは草木も生えないか? その2

https://note.com/kutaja/n/nd6526df4e13d?from=notice

(から続く)

思えば、私がT氏と組むことを反対した人もちゃんといたのである。
たとえばピラミッドというTV番組制作会社の毛利社長。この会社は、デビュー前の沖縄のネーネーズをあずかってマネージメントしていた。私は雇われて、3ヶ月だけネーネーズのマネージャーをしていたのだが、毛利社長はT氏の胡散臭さをいち早く見ぬき、私が彼と組むのを反対した。

私が、結局T氏と事務所を始めてしまったため、私はネーネーズのマネージャーを辞退することになる。(このとき、もしネーネーズのマネージャーを続行していたら別のドラマが生まれていただろう。なぜならネーネーズはデビューまでに、かなりの紆余曲折があったのだから・・・)

友人のO氏には感謝している。
O氏はタナカ氏によって迷惑をこうむったのに、T氏を紹介した私を、責めもせず、彼の事務所に雇ってくれたのだ。
O氏と、私、そしてサトミちゃんという女の子の3人で、大島氏の音楽事務所「スノーベア」は発足した。

3人の事務所「スノーベア」の3人は、おのおのおもしろいくらい、傾向の違うアーティストを担当することになった。

代表のO氏は、主としてロック・ミュージシャンのマネージメントをした。特に、沖縄の元コンディション・グリーンのメンバーであったユタカとウィリーという2人に力を入れた。
サトミちゃんという子は、乃生佳之(のおよしゆき)、デビッド・F・宮原、といういずれもジャニーズ事務所に在籍したことのある二人を担当することになった。
私はというと、T氏が担当していたSS氏が「ボクももうタナカ氏とやるのはイヤだから・・」と言って来て、私が彼のマネージャーをすることになった。(SS氏は一時期、細野晴臣の愛弟子と言われていた人です)

事務所「スノーベア」は、順調にすべりだしたわけでもなかった。私はSS氏に、どんどん新しい仕事を取れたわけでもなく、それはサトミちゃんについても同様だった。
沖縄のユタカとウィリーの2アーティストについては3人全員で売りこみをかけたが、もちろんすぐにデビューできたわけではない。
所属するどのアーティストからも、あまり売上げがあがらなかったが、代表のO氏は自ら作曲・編曲・プログラミングをするアーティストであり、ほぼO氏の力のみで事務所は存続した。

しかし、私もただボーっとしていたわけではないので、SSといっしょに「寺山修司トリビュートアルバム」という仕事を取ってきた。これは、93年が寺山修司の
没後10年であることを記念した企画されたオムニバス盤で、サエキけんぞう、裕木奈江、辻仁成、大槻ケンヂ、タモリ、ローリー寺西(当時)、くじら・・などという、
妙(みょう)といえば妙、わかるといえばわかる人々が参加したアルバムだった。
このアルバムにSS自身も参加したが、彼の推薦であがた森魚氏にも参加してもらったことからあがた森魚氏との長いつきあいが始まるのであった。

あがた森魚氏から、「寺山修司・・」にお誘いした返答のように彼のCDブックの音楽制作の依頼をいただいた。低予算ながら、スタジオを使わずマンションの1室で
録音するという情熱ぶりで、12曲の新曲を世に出した。
さらに「寺山修司・・」に続いて、今度はなんと、宮沢賢治が作詞・作曲を残していたものをCDにするという企画が通り、またもあがた森魚氏に参加してもらった。
(松島がいまだに自分のライブでよく歌う「剣舞(けんばい)の歌」は、このとき知った宮沢賢治の曲である)
これらの仕事を通して、私は音楽制作そのものと、プロモーションというものを少しずつ覚えていったのだ。

さて、この次に来たのが、忘れもしないハードワーク、あがた監督映画「オートバイ少女」のサントラ制作であった。

このサントラ制作が、どのように大変だったかは、意外と語るのがむずかしい。ほぼすべての作曲を手がけたSSの苦労はもちろん並大抵ではなかったはず。私と彼の共通の苦労は、たびかさなるスケジュール変更であり、そして私ひとりの一番の苦労は、映画制作元の青林堂からちゃんと音楽制作予算を確保するための交渉、であった。

この映画は一度ゆうばり映画祭に出品したあとに、おおはばに編集し直されたのだが、私とSS側の快挙といえるのが、すでに先にできあがったサントラ盤が再編集に大いに影響をあたえた点であろう。(これまた、完成した映画を見てもらっても、どこがそうなのかちっとも分からないはずだが、我々としてはおもしろかった)

このような制作に携わり、いつしか、2年もの月日が流れてしまった。「スノーベア」全員でプッシュした、沖縄のユタカとウィリーも無事クラウンレコードからデビューが決まった。

そんな折、「スノーベア」代表のO氏が家庭の事情で、函館に移住しなければならなくなってしまったのだ。このとき、「スノーベア」東京事務所がなくなるわけではなかったのだが、私は、別の事務所に移ろう、と思った。

O氏は、デビューしたユタカとウィリーの宣伝要員として、私に沖縄に駐在してくれないかと切り出したのだが、私はまだ東京で仕事がしたかった。
この時点にいたっても、私は「スノーベア」で、自分の給料分以上に、コンスタントに売上をあげてなかった。
音楽の仕事は続けたいが、別の業務も手伝いつつ、生計をたてようと考えたのだ。

このとき、私がたよれる人はひとりしかいなかった。
かつて私がT氏と組むことを反対した人・・TV番組制作会社ピラミッドの毛利社長…であった。

偶然というのはおそろしいもので、毛利氏は、私がもう一度、自分の事務所に来てくれないかな、と、ちょうど思っていてくれていたのだ。

ピラミッドは、すでにネーネーズのマネージメントからははなれており、従来のTV番組制作や映像制作の業務にがんばっていた。ここに再度、私が、SSとの音楽業務を持ちこむことを承知で、私を迎えてくれた。

ピラミッド代表の放送作家毛利氏は、その昔は大橋巨泉の番組を多く手がけ、飛ぶ鳥を落とす勢いの人物であった(硬派なドキュメンタリーも得意とした)。

しかし、私が入った時点のピラミッドは、ジリ貧であった。毛利氏の番組構成は、どこか硬派で骨太なところがあり、司会者やタレントのキャラクターに寄りかからずに成立する力強さを持っていた。その特徴が、当時のTV番組の主流に合わなくなってきていたのだ。

そういう時期にピラミッドに入り、私は毛利社長の「片腕」として、毛利氏担当の業務のほぼすべてを手伝うことになった。その空き時間に、自分がかかえる音楽業務をしたのである。

ピラミッドという事務所自体では、「クイズところかわれば」という番組のクイズ制作も請け負っていたが、毛利氏本人は、「21世紀の主役」という企業インタビュー番組の構成台本を担当していた。
それとは別に、業界で「ビデオ・パッケージ」と呼ばれる、企業のイメージビデオや商品紹介などのビデオ制作も構成を担当していた。TVの仕事が減っていたからである。

やはり毛利氏は古風なTV界の人、という部分があり、それはおそらく昔の人気放送作家「先生」は、「子分」をたくさん連れて歩いていたのではないかと思うのだが、あたかもそのように毛利氏は、いつもスタッフを2〜3人は連れて出かける。その中にはかならず私が入っていた。ときには、私だけがついて出かけることもあったが、私がい合わせる必要がなさそうな場合も多かったのだ。

私はほとんど1日中毛利氏と動き回っていることになり、また、テレビ人気質かもしれないが、毛利氏は夜もあまり眠らないで仕事をするのである。私はそれにかなり付き合わねばならなかったので、ほとんど自分の時間がなくなっていった。

それでも、音楽の仕事がまるでなくなったわけではないので、そういうときは、許可を取って出向いてゆく。
音楽の仕事というものは、大したことのない仕事でも、時間はかかるものである。打ち合わせも回数が重なれば、たびたび出かけることになる。レコーディングなら、徹夜になることもある。

これが毛利氏は気に入らないのであった。毛利氏にとっては、音楽はさほど重要なものではなく、私がそれに割く時間があまり多いのは、うれしくないのだ。

・・・いや、それはちょっとちがった。毛利氏にとって音楽が重要ではないのではなく、今現在の音楽ビジネスのありようが嫌いなのだった。

毛利氏は、人間の営みの中で、「村落の記憶」のように生まれてきた音楽(歌)の数々を愛しているのだった。かつての民謡や音頭や伝承歌にきざまれた歴史、大衆芸能のなかで昇華された人々の叫び、そのようなものをいかに伝え、また新たな謡曲が
生まれるような音楽環境はいかになしうるか。
そういうことに興味があったのだ。(一時的にもネーネーズをあずかったのは、
伊達や酔狂ではなかったのだ。ネーネーズの曲に沖縄からの南米移民を歌った「イカウー」という曲があり、毛利氏はこの曲を軸にして、世界各国の移民の歴史をつづる「イカウ組曲」という音楽劇も考えていたのだ)

実は、この毛利氏の姿勢には共感できる。しかし彼は現状の日本の音楽ビジネスを毛嫌いしすぎた。当時の私はまだ音楽ビジネスに興味があった。毛利氏の、音楽ビジネスに関わる人への、つらく攻撃的なあたり方が、私はだんだんイヤになってきた。折り合わない部分が肥大していった。

それでも、毛利氏と私はいっしょに、新たな映像顧客開拓として営業活動もしていた(かんばしくなかったが・・)。

そんなとき、一風変わった映像の依頼が舞い込んだ。北海道を本拠地とする健康食品の会社が、海外のガン予防を中心とした健康ビデオを、翻訳をつけて日本で番組化放映したいというのである。

この健康食品会社は、毛利氏が以前取材をしたことがある会社であった。その海外のビデオの制作者は、その会社の代表の知り合いであり、会社代表本人もそのビデオに出演していた。

毛利氏は結局この依頼を受けた。この仕事は、さまざまな紆余曲折を経て、健康食品会社のCM制作もすることになり、放送できる番組ワクも探すことになった。

結論から言うと、この番組とCMは無事完成し、放送もされたのだが、いつまでたっても依頼主の健康食品会社から制作費が振り込まれなかった!
その会社は、本社は北海道だが、東京にはホテルオークラの1室に事務所をかまえて営業していた。傍目にははなばなしくやっているように見えたのだが、実はかたむいていたようで、ある日ホテルオークラから消えていた。それっきり連絡がとれなくなった。

毛利氏は多いに困った。ピラミッドという事務所自体も、潤っていたわけではないので、この番組制作をひとつの起死回生にしようと思っていた矢先だったからだ。

私は毛利氏の弱音を聞いた。
「・・ああ、俺は会社なんかやらずに、ひとりでやっていれば良かったのかなあ・・」
毛利氏は、どんなに苦しくても弱音を吐く男ではなかった。おそらく、彼の生涯で、彼の弱音を聞いた数人のうちに私は入っているのではなかろうか。

この事態とは別に、私はある大きな音楽の仕事に関わっていた。寺山修司と宮沢賢治のCD制作に携わったことが幸いした。その2作に感動した大阪電通のディレクターが、94年京都の「遷都1200年祭」のフィナーレ・イベントの音楽制作を依頼して
きたのである。顧問梅原猛、作曲細野晴臣、作詞松本隆というビッグネームによる
イベントとなり、SSが歌のない部分の音楽をほとんど担当した。私は、全体の音楽制作進行の調整を仰せつかった。

遷都1200年祭フィナーレ『時空の舞姫』

私の音楽の仕事は忙しくなってきた。そんなとき、毛利氏は焦燥の只中にいた。ピラミッドが大負債をこうむるのはまちがいないようだった。この会社はどうなるのか。そして、私と毛利氏との、音楽における意識の亀裂はどうなっていくのか?
私は、仕事は冷静にしていたものの、私生活の部分ではかなり混乱していた。
「・・いっそ、なにかもかも崩れて、ゼロからやりなおせたら・・」
などと考えた。世の中はおそろしい・・。本当にそうなってしまったのだ!

「遷都1200年祭」のレコーディングの大詰めの頃、私が細野晴臣氏とともにスタジオにいたとき、毛利氏はたおれて、病院に運ばれていたのだ。

脳内出血である。手術はしたものの、意識がもどらない。

毛利氏は、ロクに眠らないで仕事をしていた。酒は毎晩飲みまくるし、タバコも1日に60本吸っていた。無理な生活ばかりしていて、いつたおれてもおかしくなかったが、ここにきて、心労でついに本当に・・だった。

ピラミッドの仕事は、ほとんど毛利氏の「顔」でとっていたものだ。毛利氏に意識がない、などと言ったら、おそらく仕事が打ちきられる。という判断から、一時的な入院と偽って、なんと!私がかわりに構成台本を書くことになったのだ。私は、まったく経験のないインタビュー台本を必死に書いた!

「遷都1200年祭」フィナーレ・イベント本番のときがやってきて、私は京都に行った。イベントを成功裏に終えて帰ると、まもなくして、毛利氏は亡くなった。

ここにいたり、ピラミッドは閉鎖することに・・相談の結果、決まった。
副代表にあたる女性と、今は別事務所をかまえている役員と、そしてなぜか、役員でも何でもない私が、弁護士とともに東京地裁に、会社の「破産申立て」に行くことになった。一番在籍期間が短い私が、なぜか頼られて、メインスタッフになっていた。

このとき弁護士に言われたセリフは生涯忘れられない。
「皆さん(私も含まれる)は、ちゃんと地裁で破産申し立てが通るまで、逃げていてくださいね。倒産をかぎつけた債権者が借金取りに来ますから。特定の方に払ってしまうと、あとあと法的にややこしくなるんでね。私には連絡取れる形で、逃げてるんですよ」(!!!)

かくして私は、自宅に息をひそめて申し立てが通るのを待った。
無事通ると、今度は国の破産管財人といろいろお話したり、事務所引き揚げの引越しまで、最後までおつきあいした。副代表の女性は「松島君がいてくれなかったら、たよる人がいなかった」と言ってくれた。私は入社わずか9ヶ月で、毛利氏という個性派放送作家の事務所の、最期をみとったのであった。

しかし思う。
毛利氏が心労でたおれる結果を作った責任は、私にもあるのではないかと。なぜなら、毛利氏を苦しめた、問題の健康食品会社の依頼の仕事を受けたのは、私がいたからなのでは思われるふしがあるのだ。なぜなら、問題が起きる前には、この会社に、毛利氏と私で、音楽イベントを主催しないかと持ちかけようか、などと話していたことがあるからだ。
また、死ぬ直前の毛利氏は、あきらかに私の助けを求めていたように思うのだが、私は答えられなかった。むしろ音楽観のちがいから激しい口論もして、心労に追い討ちをかけていた。

今になって、毛利氏の音楽の愛し方は、基本的にはまちがってなかったと思う。
私が死んで、もし彼に会えるなら、話すべきことがありすぎて、私はどうしたらよいのだろう・・。

しかし人生は続く。毛利さんの事務所がなくなったとき、なぜか、あがた森魚氏から誘いの電話がかかるのである。

へ続く

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