輪廻転生と人生一回きりの両立

      
 
 どうにかしてこの二つの相克を統合できないか、と私はいつも考えていた。いつからかと言うと、保育園に通っていた頃からだ。
 牧師の家に生まれてしまったのが運の尽き、記憶が始まる時から死後の世界について考えさせられる日が続き、今日にいたる。

 結論を言うと、えっへん、魂の数が膨大にある一方で、魂が宿れる体がめちゃくちゃ少ない、ということである。

 つまり、宇宙空間に魂というものが無数に漂っているのに対して、魂が宿れる体は偶然が重なった場所にしかできない希少な物で、浮遊する魂がたまたま体に接触した時に宿れるのだ。その確率は、ジャンボ宝くじで一等が当たる確率と同じくらいだろう、と考えたのである。

 こう考えれば、「確かにもう二度と当たらないだろう人生は一回きりと言っても言い過ぎではない気がしてくる。他方、いやいや、正確にはゼロパーセントじゃないのだから、輪廻はあると言えるじゃないか、ともなる。
 これを考え付いた時は、自分の天才ぶりに恐れおののいた。あまりに独創的で革命的だったので、後年どこかの偉い人がテレビで同じことを言って「さすがですね。」と思慮の浅いコメンテーターがもてはやしているのを、私がぼぉーと眺めているのは悔しすぎると思い、「それは私が最初に考え付いたんだ。」と証拠を残しておくべく、何か知的財産で保護されないか、と検討したほどであった。

さらに、私の思索は留まるところを知らない。天文学で「ダークマター」という現代の技術では測定できない存在が宇宙空間に原子構成物と同じくらいあるようだ、と聞くに及び、「これこそが魂だ、ユーレイカ。」と叫んだのである。宗教間の争いを鎮め、さらには、宗教と科学の争いすら統合してしまう自論には、まったくもって、科学を代表するノーベル賞授与式において、物理・平和・文学でトリプル受賞する私に対し、会場に乱入してきた世界の三大宗教の最高権威者達から熱くハグされてしまうだろう、と思うのである。

 ここまでくるとせっかくなので、我が理論を下地にした科学小説を書いておきたくなる。もし、出版されれば、私が最初に考え付いたことの証拠になるし、印税でいい暮らしもできるというものだ。
 しかしである、こんな人類史に燦然と輝くことになる世紀の大発見を周囲に得意満面に話すと、「ふーん。」である。まったく、これだから世俗の愚民どもは、と憤りつつ、たぶん死後に評価されて、ベストセラーになるんだろうな、と思い、印税が自分のポケットに入らないことを考えると、書いてもしゃーないな、と思う私であった。

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