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【観劇記録】『テラヤマキャバレー』(2024.02.09)

 2月9日(金)、東京の日生劇場で『テラヤマキャバレー』の初日を観劇してきた。
 脚本は池田亮氏、演出はデヴィッド・ルヴォー氏。
 主演の寺山修司役は香取慎吾さん。

 はじめにおことわりさせていただくと、(大げさに「観劇記録」と書いたけれど)私は観劇初心者であるため、以下はとても素朴な感想である。
 演劇史の知識も乏しく、寺山修司に関しては国語や日本史で習う一般教養レベルのことしか知らなかった。観劇前に、軽くインターネットで生い立ちや「天井桟敷」について調べて、初めて知ったことも多かった。
 という程度の者が書いた感想として、ご容赦いただきたい。


 いきなり、作品の内容とは関係ない話になってしまうけれど――日生劇場、足を踏み入れた途端に「豪華な劇場だなあ」と感嘆してしまった。
 劇場のランク……みたいなのはよくわからないし、そういう尺度自体が現代にはそぐわないものかもしれないけれど、とにかく入っただけで、ここは特別な場所だぞ、と感じた。背筋が伸びるというか。
 濃い赤色の絨毯が敷かれていて、毛足の感触が靴越しにしっかりと伝わってくる。二階席へと上がる階段は螺旋階段。手すりまでもが高級に思える。劇場内も広々としており、天井が高く視界良好だった。
 これこそ庶民の感想という気がするが、どこを見ても「格式が高い」という感じだった。マナーが骨まで染みついているような紳士淑女が盛装で訪れるのに相応しい場所、とでも言おうか。いちおう身なりに気をつけてジャケットを着ていたものの、私のような垢抜けない者が足を運ぶにはいささか早い場所だったのでは、という緊張感があった。

『テラヤマキャバレー』は、臨終間際の寺山修司の脳内のおはなしということらしい。
 寺山が、脳内にいる劇団員たちと劇のリハーサルをしている中、擬人化された「死」が現れて、彼に時間が残されていないことを告げる。しかし、あくまでも生に執着する寺山と、彼を守ろうとする劇団員たちの様子を見た「死」は、次の日が昇るまで寺山に猶予を与える。「私を感動させる芝居を見せてみろ」と。そして「死」は、寺山に三本のマッチを渡す。それは、擦ると過去や未来へと飛べるマッチだった……。

 という導入からして、なんとも抽象度の高い、観客の理解度が試される作品だった。私には、何割この舞台の真髄を理解できたものか、はなはだ心もとない。
 その一方で、華々しい舞台と音楽、劇団員たちが繰り広げる愉快な騒動は観ているだけでひたすら楽しく、難しいことを一切考えずとも豊かな時間が過ごせるのも間違いない。
 また、言葉というものが時に空疎であるということも作中で描かれていたから、この作品から受け取ったものを無理矢理すべて言葉に変換しようとするのも違うのではないか、という気もする。

 以下は本編の内容に触れた感想になるので、これからご観劇の予定で、予断を持ちたくないというかたは、ご覧にならないでください。



 まず、一本目のマッチを擦って過去に飛び、近松門左衛門が出てくるというのが面白かった。なんでもありで自由だな、と。
 しかも、過去に飛ぶと言っても、過去に登場する人物たちはその場にいる「脳内劇団員」に憑依しているような設定。でも夢の中のできごとだから衣裳も変わる。同じ役者が時代を横断して複数の人物を演じることに大胆な必然性があって、自由な表現だなあと楽しくなる。
 過去編の近松門左衛門は『曽根崎心中』を作っている最中。
 同作のモデルとなった情死事件を「死」は目の当たりにしており、そのことを告げられた近松が「死」から詳細を聞き出そうとするくだりが興味深かった。
 現実そのままに芝居を作ったら、それは本当にあなたの作品なのか、というような問いが「死」から発せられ、個人的にこれには唸ってしまった。
 創作は、細部を緻密に創りこんで、いかに受け手に対してそれを「真実らしい」と思わせるかの勝負、という面がある。一般的に「リアリティ」という言葉は、作品の完成度の高さを測る指標ともなっている。
 しかし、単なる現実の模倣である創作に意味はあるのか?という問いが思わぬ角度から提示されて、ささやかながら創作活動をしている私個人は、なにかと向き合わされたように感じるくだりだった。

 寺山が二本目のマッチを擦ると、舞台は現代に飛ぶ。2024年2月の歌舞伎町に。
 この挿話がとりわけ強く胸に迫ったのは、私が歴史に疎く、「歴史的視座」というものを内に持たないからであるかもしれない。現代と接続されたこの場面は、背景知識を持たない私でも主題がストレートに飲みこめて、頷かせられた。
 冒頭で「言葉が俺の墓場」というようなことを言っていた寺山は、話が進むにつれて「言葉」に対して懐疑的になっていっていたように思うが、2024年の若者たちを目の当たりにした寺山は「ここには言葉すらない」と絶望する。
 スマホという小道具がわかりやすく、オンラインコミュニケーションによる言葉の空疎化という当今の問題が前面に出てくる。
 その一方で、中身のない言葉をかまびすしくまくしたてる若者たちは現代の「家なき子」である、という設定が割り切れないものを感じさせて、単なる文明批判や懐古主義とは違うことがわかる。

 そして第二幕、「問い」を巡る話を経て、観ている自分の中にも様々な問いが生まれた。
 安易に結論を出してしまうことを遠ざけるという主題も感じたから、「これがどういう話であったのか」を無理矢理言ってしまうことは避けたい。
(単に、言葉にするのがたいへん難しい……ということもあるのだが)

 ご出演者のかたは皆さん素晴らしかったのだが、ごくごく個人的な視点から印象的だったかたについて、感想を書かせていただく。
 寺山役の香取慎吾さんを生で拝見したのは初めてだけれど、圧倒的な存在感で、本当にスターなのだな、としみじみ感じた。
 そしておそらく、寺山に次ぐくらい出番の多い「死」役の凪七瑠海さんも、「死」という概念の、年齢や性別という属性が似合わない超人的な空気を体現されていてすごかった。宝塚歌劇団のかたのお芝居を劇場で拝見したのは初めてのことで、なるほどオーラが違うとはこういうことか、と思わされた。
 また個人的には、アパート/寺山ハツ/初役の村川絵梨さんが印象に残っている。寺山の母である「ハツ」を憑依させたようなくだりがあるのだが、親子の情の歌とお芝居が忘れがたい。

 最後に、青肺/田中未知/家出女役の横山賀三さんについて。
 観劇初心者の私が、このゴージャスかつ本格的な舞台を観にいったのは、ご出演者のひとりである横山さんのファンだったことが大きな理由であるので、どうしても観劇中は横山さんのお芝居に注目することが多かった。
 まず、横山さんが全編通して女性の役を演じていらっしゃることに一驚した。しかも、ドラァグ・クイーン的に「女性性」をあえて強調するようなパフォーマンスではなく、「青肺」という女性の人格をごく自然に表現していらしたことに、また驚かされた。
 寺山を深く愛し、彼のためなら死をも厭わないというような「青肺」。彼女が、透き通るような美しい声で「時には母のない子のように」を歌い上げる場面の哀しみが、棘のように胸に刺さっている。
 夢の中で展開する本作は人間の属性の境界が揺らぐような感覚を味わえるけれど、横山さんのお芝居はその美点に大きく寄与していたなというのが、一ファンとしての感想です。

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