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訪れた国

Episode 4 – Iran 1

 

 2001年にドバイを経由してテヘランへ行った。夜中に乗り換えた飛行機がテヘランに近づくと、女性たちは頭にスカーフを被り始めた。まだ暗い早朝にもかかわらず郊外の空港から市街地に向かう道には車があふれていた。明るくなってくると、すすけた大きな建物の壁にイラン国旗と革命軍兵士の絵やアラビア文字が描かれているのが見えた。よく見ると1960年代の大きなアメリカ車も走っている。夜明けの街は水墨画のような感じで、なんとなく1980年頃(4人組追放後、鄧小平復活前)の中国のようで色がない。一党独裁の中国と宗教独裁のイランは何となく似ていると思った。

テヘランの街を歩く女性たちは、頭をすっぽりと覆う黒いヘジャブではなくカラフルなスカーフを付けて金色に染めた髪を見せていた。ただ、服は靴まで隠れる黒い服を着ている女性が多かった。家庭パーティに招かれて行くと、彼女たちはTシャツとショートパンツに着替えてくつろいでいた。外ではノンアルコールビールくらいしか手に入らないにもかかわらず、家庭内ではビールやワインが自由に飲めてウィスキーさえあった。

当時は、ラフサンジャニ大統領(1989年~1997年)後の「文明の対話」を掲げて外交交渉を重視したハタミ大統領(1997年~2005年)の時代で、テヘランの人々はのびのびと自由を謳歌して暮らしているように見えた。

テヘランの街は北の3,000m級の山のすそ野が南の土漠(砂漠)へ続くなめらかな斜面に位置している。市内にはシャー(1979年の革命以前のパーレビ国王)がパリのシャンゼリゼのようにと思いを込めたメインの道路が南北に走っている。道路の両側は大きな木の並木となっており、歩道脇には雪解け水を流す幅3mくらいの浅い水路が設けられていた。

街が勾配のあるすそ野に広がっているので、南北方向は自家用車か歩くことが市民の主な移動手段となっている。公共のバスは見かけない。市街地は車であふれており、車間に少しでも隙間があると割り込むので渋滞はさらに激しくしなっていた。車同士の接触は日常茶飯事のようで、接触事故を気にする様子はあまり見かけなかった。

交差点で横断歩道を渡っていると、信号に関係なく車が侵入してくる。身についた癖でつい小走りに車を避けて渡ろうとしてしまうが、テヘランの人は決して走らない。また、ご婦人方は車のあふれる道路をどこでも横断する。彼女たちは車をかき分けるようにして堂々と歩くので、車は一時停止するしかない。さすがだと思わずにはいられないが、よく事故が起きないものだ。テヘランでは車の運転をしたくないと思った。台北についで運転したくないと思った2番目の街だ。どちらも長い歴史と文化を誇る民族の街だが、車の運転になると文明の高さとは別の話らしい。

公共交通機関に恵まれない街だが、東西方向は等高線に沿っているので地下鉄電車が走っている。友好国の技術(資金も?)供与により建設されたと聞いたが、階段横のエスカレーター用の穴にエスカレーターはなかった。

テヘランの北の方は高級住宅地で、広い庭付きの豪華な建物が多い。多くの庶民が暮らす南の方にはケテルビー作曲の「ペルシャの市場にて」を思わせる市場がある。西にある隣の山にはスラムを思わせるような建物が、山肌にへばりつくように頂上まで密集している。

多くの日本人は山の手に住んでいる。なかでも、日本を代表する商社の幹部宅は庭付き邸宅で、広い庭もさることながら300㎡はあろうかという応接間は天井が高く、訪問団との商談用に中央を開けて両側に10脚くらいずつのソファーが置かれていた。いかにも日の丸を背負って民間外交を担っているという感じがした。

幹部宅の食事は、イラン人のコックが作る多国籍料理で飲み物はビール、ワイン、ウィスキーなど何でもある。さすが日本の商社で各種のアルコール類が揃っている。アルコール類は各社独自のトルコからの峠越え調達ルートから入手しているようだ。おかげで商社回りをすれば、ラベルの違ういろいろな種類のビールが楽しめた。

レストランでの食事メニューは限られている。高級レストランで提供している料理は前菜(3種類)とメイン(肉料理4種類と魚料理1種類)とデザート(3種類)が標準的メニューでA4一枚の片面に書けるくらいの種類しかない。中華街は見かけないが、豚を使わない中華料理屋がある。中華のメニューは多くA4二枚くらいあった。

料理の価格は通貨のリヤルで書かれているので、多くが桁の大きな数字だ。二人で夕食をとると50万リヤルくらい(約6,000円)になる。支払いは1万リヤル紙幣50枚の札束が必要になるので、ポケットはいつも札束で膨らんでいた。

 ほとんどのイランの人はモスリムのペルシャ人だが、キリスト教徒のアルメニア人やペルシャ湾岸にはアラブ系の人がいる。外国人に格段親切というわけではないので初めは話しかけにくい感じがする。しかし、話してみると見かけと違い悪気があるわけではなく知的な人たちだということがわかる。一般にプライドの高い人たちが多く、社会的な立場のある人は「ありがとう」というとき「メルシ」と言っていた。

 ローマ帝国と共に長い歴史を持つ中東の大国イラン(ペルシャは西洋の呼び名)は、豊かな文化と資源の豊富な国を誇りとしてきた。アーリア人のイランは中東に位置する非アラブのトルコと共に独自の道を歩んでいる。違いはトルコが政教分離の政策を取ってきたのに対して、革命後のイランはイスラム法学者が宗教の最高指導者として政治的にも最高の地位にいることだろう。

現在のイランは外国勢力と対等の交渉をすることが絶対に譲れない線で、その姿勢は大統領が穏健派でも強硬派でも変わっていない。最近の日本が参加していない多国籍間交渉においても対等の交渉テーブルにはついている。交渉の結果として交わされた国家間の「合意」を一方的に離脱するような国があると、交渉で築いてきたお互いの信頼関係が崩れてしまう。今後難しい交渉になるだろうことは察するに難くない。

 有史以来、争いの絶えない中東にあってすべての関係国が満足する解決を望むことはほとんど不可能かもしれない。答えの見えない問題に接するには、西側も東側も中東も日本も交渉による「文明の対話」が唯一の道ではないだろうか。

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