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1月14日(日) 天気:快晴 日記は現実と向き合う場所、小説は正しさと距離を置く場所

8時過ぎに起床。朝の日差しが気持ち良くて、しばらく当たりながら窓の外をぼーっと眺める。ここのところ昼前に起きることが多かったが、私が知らないところでも太陽の光はずっと私を照らしてくれているのだよな。
そんなことを考えながら今日は廃品回収なのでまとめておいた段ボールを黙々と運び出した。ひと仕事終えて、またベッドの上で少し微睡む。
母親は仕事を休むことにしたようだ。微熱が続いていて非常に心配。もう少し続くようなら病院に行くことを勧めたほうがいいだろうか。
今日は氣志團のライブなので、おめかししようと先日購入したばかりのお気に入りのチュールのブラウスを身に着けて出かける。妹には「(着たら)エンペラーになる」「まじでどこに来ていくんこんなの」「絶対いらん」と言われた一着だが、着ていける場所があった。
行きの電車で、多和田葉子さんの『雪の練習生』を読む。多和田さんの本はこれが初めて読む作品で、本当は『地球にちりばめられて』か『百年の散歩』から入りたかったが、たまたま手元に来たのがこの本だったのでこれもなにかの縁と思って購入。「これぞ小説を読む醍醐味だよな」と思う表現が随所にあって、ところどころ目を離して響きを味わった。

ものを書くというのは不気味なもので、こうして自分が書いた文章をじっと睨んでいると、頭の中がぐらぐらして、自分がどこにいるのか分からなくなってくる。わたしは、たった今自分で書き始めた物語の中に入ってしまって、もう「今ここ」にはいなくなっている。頭を上げてぼんやり窓の外を見ているうちに、やっと「今ここ」に戻ってくる。でも「今ここ」って一体どこだろう。

祖母の退化論/多和田葉子

くやしさは森へ行って集めてくるわけにはいかない。誰かがくれる大切なプレゼントだ。

祖母の退化論/多和田葉子

耳の中を薔薇の花びらでくすぐられるような気分で

祖母の退化論/多和田葉子

少し読み進めただけでこれだ。尊敬する角田光代さんが、以前「人は生きるのがつらいからフィクションを読む」といったことをインタビューで話されていた。フィクションだからこそ、こういった表現ができ、それを味わうことができる。最近自分でも小説を書いてみようかと思っているが、その理由もそこにある。日記は一日の出来事を振り返るという「現実と向き合う作業」が伴うが、小説は「現実や正しさから逃げる場所」になりうる。最近はあまりにも正しさが叫ばれている気がするから、やはり小説のような場所が自分には必要だ。

ちなみに今日のメインイベントである氣志團のライブは言わずもがな最高だった。久しぶりのホールツアーということでおなじみの寸劇も復活していたけど、その分MCがいつもより控えめだったような気がする。それでも約2時間半、歌って踊り続けた團長は本当にすごい。中学一年生の頃から見てきているけど、当時と変わらない姿でそこにいて、なんなら歌も演奏もダンスもパワーアップしている。先輩がこんなに頑張っているのだから、私も頑張ろう。MCで、團長が昨今のいろいろに触れて「みんなが悪いわけじゃないから」と言っていた。その言葉になんだか救われた気分になった。こうして團長にはこれまでの人生何度も救われてきているから、いつか御本人に直接会ってお礼が言いたいと思っている。その日まではまだまだ生きていこう。

それと今回ライブについてきてくれた友人が先日作った日記本の感想をくれた。なんなら本も持参していて、見返しながら教えてくれた。その本もたくさんドッグイヤーがついていて、そんなにちゃんと読んでくれたことがとてもありがたかった。それから「小説、向いてると思う」とまで言ってくれたので、今年はさらにやってやるぞと力が湧いてきた。
いつ死ぬかわからないし、團長も「元気な人は元気な人なりにやれることを目一杯やろう」と言っていたし、とにかくやれることをやろう。

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