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【第七夜】空想点心屋

ふと目が覚めて、海の近くでも朝一番の鼻の頭は冷たいんだと思った。
妙に頭が冴えてしまったのでまだ暗い部屋の中で布団を出て着替え、マフラーを巻く。
玄関のガラスの引き戸を開けるとひんやりした空気が前髪をなでて、そのまま南へ流れていった。
 
外に出ると意外にもう明るくて、白んできた東の空やまぶしく残る金色の星を眺めながら歩く。
黒々としずかに鎮座する山に背を向けて、坂を下る。
最初に出てきた横道を入って奥へ。鳥の声だけがときどき甲高く響く。
さっきまで見えていた星はもう見えなくなった。
 
コンクリートの塀が切れたと思ったら突然深い緑色の垣根が現れて、対照的に真っ赤な花で椿だとわかる。
つくりものみたいにきれいに開いた花。小さいけど生命力に満ちている。
歩きながら見とれていたら、垣根の上から湯気が流れてくるのに気づいた。
我に返ったら急に寒さを感じ、数メートル先の垣根の切れ目に向かって足早に歩く。
 
民家があった。昭和っぽい外観の、平屋の民家。
正面に玄関。室内は真っ暗でよく見えない。
しかし向かって左側に見える窓、その細く開いた窓から、猛烈な勢いで真っ白な湯気があふれてきている。
もしや火事かと慌てて玄関に向かいかけたら玄関灯が点いた。
ぱっと明るくなった玄関先には大人の膝ぐらいの高さの立て看板がちょこんと置いてある。
肉まんとおぼしき食べ物の絵。その下に「本日7時開店」の文字。湯気の窓の方からうっすらただよっているこの香り、八角か。
 
ここは島の点心屋。
 
 
腕時計を見るとあと30分ほどあった。近所をひと回りしてから戻ってくることにする。
付近の民家もみな古そうで、心なしか街灯の本数も少ない気がする。道幅もせまい。
集落の中でも古い地区なのだろうか。誰ともすれ違わないが、生活感はしっかり漂っている。
空はもうすっかり明るくなって、鳥のさえずりも増えてきた。
背中の方から冷たい風がひゅる、と吹いて、体を追い越した。
 
ちゃんと戻ってくることができて、ふたたびあの民家の前に立つ。
さっきは閉まっていた玄関の戸が開いていて、土間が見えている。立て看板は横によけてある。
おそるおそる近づくと、土間から上がってすぐの廊下の真ん中に木製の箱のようなものが据えてあるのが目に入った。
国民的大喜利バラエティ番組の司会者の演台にそっくりな台で、よく使いこまれた感じ。
台の背後は障子戸になっていて、部屋があるようだ。左手に廊下が続いていて、生成り色の長めののれんが下がった先はここからでは見えない。
しかし目撃した湯気の感じからすると、そちらが台所だと思う。

台の右端に、小さいけれど重厚感のあるくすんだ金色のベルが伏せて置いてある。
手書きのメニューが置いてあるのに気づく。ここでオーダーするのか。
豚まん、鶏角煮まん、麻婆まん、あんまん、桃まん、焼売、ひすい餃子、季節ちまき、想像以上のラインナップ。
それぞれ2個からオーダーできるようで、「中国茶サービス」とも書いてある。完全テイクアウト制らしい。
のれんの向こうからとてもいいにおいがしている。迷いつつ、豚まんと桃まん、季節ちまきに決めた。
やや緊張しつつベルを手にとって下向きのまま振ると、思ったよりも低い、仏壇の鈴のような音がした。
 
オーダーして代金を支払う。土間に置いてあったドーナツ型の座面の椅子をすすめられ、座って待つ。
うっすら音楽が流れてくる。
けだるいビートとエレキギター、中国語らしき女性ボーカルの発音がかわいい。台湾のバンドっぽい。
 
しばらくするとほかほかの点心たちが、茶色くて平たい竹かごに乗せられて運ばれてきた。
豚まん・桃まんはひとつずつ白い袋に入れられ、ちまきは竹の皮で巻かれてたこ糸できゅっと縛られている。
湯気をたてる点心たちはトングでつかまれ、深い緑色の薄手のビニール袋の中に直接納められてゆく。
最後にふたがついたカップで中国茶を渡された。なんとも言えないさわやかな香り。おなかが鳴った。
あたたかくてずしっと質量を感じる袋を手首に下げ、カップを両手で持って暖を取りながら暗い玄関を後にする。
 
外に出ると、しっかり朝になっていた。
車が通る音、テレビの音、目覚まし時計が鳴る音、階段を駆け降りる音。
陽は出てきたがまだ寒く、足早に来た道をたどる。
朝の生活音をかきわけながら歩く。うっすら耳に残る余韻は、あのベルの音。
 

夜から朝に移りかわる時間は、影と光、静寂と喧騒、夢と現実、様々な二項対立が混ざり合う時間。
台所に火が入る。
普遍的な朝が、今日だけの、わたしだけの、あなただけの朝になってゆく。
あたたかいものには魂を包み込んで癒す力があると思う。冬の朝には特に。
おなかも心も湯気で満たすところから始めよう。
ほおばって、飲み干して、そして幸せになろう。


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