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タワーマンションは黄昏れて 単行本①

 Twitter発新時代小説ジャンル「タワマン文学」の最前線を行く二人が、全チンで連載する小説『タワーマンションは黄昏れて』が始まって半年。初の単行本を発行するよっ!湾岸のアマハガンタワーを舞台に繰り広げられるヒエラルキーと愛憎渦巻くピカレスクロマン小説で年末を鬱屈とした気持ちで過ごそう!


プロローグ 湾岸ターミナル豊洲より愛を込めて(窓)

都内、郊外、地方、そして異国の地から湾岸に集いし民の約束の地、東京・豊洲。聖地にそびえ立つは一本のタワマン。天を衝かんとする黒光りタワーが呼び起こすのは人々の畏怖の念、そして羨望の眼差し。ここはアマハガンタワー。坪単価五百万超の天空の塔では、今宵も様々なドラマが繰り広げられる――。

「昨日の夜もスケボーやってる奴らがいたけど、ちゃんと警備してんの?」
 機嫌の悪そうな顔で、朝から私を詰問するスーツ姿のサラリーマン。眼鏡の奥で、温度を感じさせない光が鈍く光る。「高い管理費払ってるんだからちゃんと働けよな」と舌打ち混じりに去って行く姿から、他者の仕事に対する敬意を感じ取ることはできない。豊洲のタワマンで警備員を始めて三ヶ月、この雰囲気にはまだ慣れない。

 アマハガンタワー。黒光りする五十階建のタワーマンションが私の職場だ。といっても、世界有数の治安の良さを誇る日本において、警備員の役割は多くない。制服を着て、住民ににこやかに挨拶をするのが主な業務だ。十年以上この仕事をしているが、会社に指定された場所を転々とするだけ。たまたま、今の職場がここだというだけだ。

 イベント会場、オフィスビル、商業施設…様々な職場で警備をやってきたが、豊洲のタワマンでの仕事は独特だ。「パシャッ」後ろを振り向くと、無言で私にスマホを向けている住民と目が合う。無表情のまま、去っていく男性。「何かあるとすぐ写真付きで苦情が来るから、気をつけてくださいよ」警備会社の担当者のため息混じりの警告を思い出す。

 スケボーキッズに荒らされないように二十四時間体勢で監視しろ、景観を損なうから昼間はカラーコーンをどけろ、近隣店舗のイベントにうちのタワーの名前が入ってなかったから中止にしろ――。屹立したタワマンのように勃起、もとい肥大化した権利意識を持った住民によるクレーム。常軌を逸した要求が連日のように続き、精神を病む同僚も少なくない。

 「おはようございます!」
 朝の挨拶が返ってくることはほとんどない。疲れた顔のサラリーマンは皆、何も聞こえないかのように、スマホを凝視しながら無言で歩く。三十五年ローンに追われてあくせく働かねばならぬ辛い現実と向き合うより、湾岸マンション価格ナビで新着中古物件の売出し価格をチェックし、現在自分が住んでいる部屋の含み益を計算するのに忙しいのだろう。数字に踊らされる、哀れな大人たち。

 「こんにちは!」
 私に挨拶を返してくれるのは幼い子供達だけだ。微笑ましい気持ちになるが、「ちゃんと勉強しないと、将来あんな仕事しかできないのよ!」と手を繋ぐ母親の声が嫌な気分にさせる。ホワイトカラー以外は仕事ではないといわんばかりの、剥き出しの差別意識。幼稚園のうちから九九を覚えさせることはできても、倫理観を育むことはできないらしい。

 彼らもまた被害者だ。有名大学を出て一流企業に就職、年収一千万円に到達し、一生を捧げてようやく手が届く抵当権付きの75平米3LDK。そんな人生の象徴も、ヤフコメ民にかかれば「準工業地域の埋立地に建つ狭小倉庫」と煽られる。敵愾心は憎悪を育み、そして先鋭化する。スケボーを憎悪し、「湾岸民は不当に差別されている」と被害意識をこじらせる人々。過激思想に染まり、聖戦に身を投じる豊洲民を止める者はどこにもいない。

 このタワーに住む子供達も皆、一様に疲れた顔をしている。「組分けテストの結果最悪だった、アルファに残れないかも」「ママが来月からプリバート行けって」ランドセルを背負いながら、放課後の話題はサピックス一色だ。あの子達がうんこやチンチンで盛り上がっている場面を見たことがない。将来、早稲田に入ったらどうするつもりなんだろうか。

 スマホの画面越しに、決して手に届かぬ眩い世界が目に入る時代。自分が辿ってきた道が正しいのか確信を持てないまま、タワマンや街に自身を投影してしまう哀しきモンスター達が生まれるのも仕方ない。アカウント名に物件名や地名を入れてTwitterで暴れ回る多様性フレンズも、現代社会の抱える宿痾なのだ。

 気がつけばもう夕方だ、今日のシフトも終わった。六十五歳を越え、最近は立ち仕事が続くと腰が痛くなる。社会との接点を求め働いているが、妻も「そろそろ引退したら」と心配しているし、もうそろそろ潮時かもな。そんなことを考えながら、「湾岸地区のターミナル駅」と彼らが主張する豊洲駅から有楽町線に乗り込む。ゆりかもめと有楽町線しか通っていない駅をターミナルと呼ばないと、小学生で習わなかったんだろうか。

 有楽町で日比谷線に乗り換え、六本木駅に到着した。昔は野生の狸が歩いていたというのに、森ビルの再開発が全てを変えてしまった。我が物顔で闊歩する外国人や露出度の高い若い女をかき分け、六本木ヒルズレジデンスB棟に入る。地権者住戸だかなんだか知らんが、こんな無機質なコンクリートの塊より、親から受け継いだ木造家屋が懐かしい。タワマンなんてものを誇る奴らの気が知れない。


第1話 シュレーディンガーの含み益(窓)

「まだ客がつかないってどういうことですか、AD200つけたらすぐ決まるって言ってたじゃないですか。何ヶ月経ってると思ってるんですか!」
 スマホを持つ手が怒りでわなわな震える。思わず声が大きくなるが、相手が意に介す気配はない。

「いやー、リモートワークが普及して、最近港区でも都心のワンルームはなかなか決まらないんすよー、まあもう少ししたら戻ってくると思うんすけどね―」

 マナー講師を発狂させそうな、学生のような言葉遣い。仲介業者の他人事な態度で、苛立ちを更に募らせる。こいつは誰を相手に喋ってると思ってるんだ。こっちは天下の日本生命の社員だぞ。ビジネスの場での言葉遣いも分からないような奴が、馬鹿にしやがって――。

「いいから早く見つけてください、また進捗を連絡しますから、頼みますよ!」
 相手の返答も待たず、通話終了ボタンを押す。スマホを壁に投げつけたい衝動に駆られたが、円安でiPhoneが値上がる中、昨年買ったばかりの最新機種を壊すわけにはいかない。逡巡の末、テーブルの上にあったビールの空き缶を握りつぶす。

「どうしたの?なんか怒ってたみたいだけど……」
 リビングと廊下を繋ぐドアから、寝間着姿の恵美の姿が現れた。寝室で寝静まる妻と娘を起こさないように小声で話していたはずが、つい興奮して声が大きくなっていたようだ。

「ごめん、別に大したことじゃないんだけどさ。ちょっと仕事のトラブルで。もう解決したから大丈夫だよ」
 できる限り平静を保ちながら、自分に言い聞かせるように声を絞り出す。ここで異変を悟られるわけには行かない。

「そう、なら良いんだけど。まだ紗代子も夜泣きが続いてるから、先に寝るね。おやすみ」
 ジェラピケのパジャマの袖から出た恵美の指がひらひらと宙を舞い、ドアがカチャリと閉まる。スリッパの音が遠くに去ったことを確認して、深い溜め息をついた。

 こちらの憂鬱な心情などお構いなしに、リビングの窓からは運河越しにそびえ立つ東京の街がまばゆい光を放っている。この宝石箱のような光景も、愛する妻と生まれたばかりの娘も、胃の奥の方で蠢く痛みを止めてくれない。

 絶対に恵美に知られる訳にはいかない。まさかワンルームマンション投資で毎月十万円を超える赤字を垂れ流しているなんて――。

 駒沢大学駅から徒歩5分の戸建てで生まれ育った。三井物産に務める父と、専業主婦の母。父は小さい頃にNYに駐在していたが、4つ離れた兄と違ってまだ小さかったから、記憶も朧気だ。帰国直前に雪が降り、家があったニュージャージーのハドソン川沿いに見たマンハッタンの夜景がキラキラして綺麗だったことだけは覚えている。

 帰国後、英語はほとんど残らなかったが、勉強には苦労しなかった。小4から通ったサピックスではずっとアルファクラスだったし、父の母校である慶應義塾大学の附属校である慶應普通部に合格。普通部と塾高ではテニスに汗を流し、大学ではペニスを振りまわした。就活では経済学部のゼミの先輩がリクルーターをやっていた日本生命にすんなり入った。

 すべてが順風満帆だった。慶應卒、業界ナンバーワン企業、約束された年収一千万円。沈みゆく国でもきちんと勝ち筋を見つけ、それを逃さぬ自らの優秀さに酔いしれた。要領の悪い同期が地方支店をドサ回りしている間、一般職の同期で一番美人だった恵美と身を固め、本社の管理部門で着々と地歩を築いた。怖いものなんてなかった。

 一億四百六十万円、四十五階に位置する80平方メートルの3LDK。アマハガンタワーのモデルルームで、この輝かしい人生を彩るに値する物件と出会った。建設地の近所にあるぐるり公園では、若い連中がスケボーに興じていた。かつての故郷、アメリカのカルチャーをも包容する自由な雰囲気も気に入った。スケボーがアスファルトをこする音と相まって、運河越しの夜景は幼い頃に目にしたNYの景色を思い起こさせた。

 時代という名の追い風も吹いた。新型コロナ禍によるマンション価格高騰は、入居前の時点で千万単位の含み益をもたらした。そして恵子のお腹に宿る、今日と未来をつなぐ新たな生命。齢三十歳にして、勝利を確信した。あとは栄光への道を一歩ずつ踏みしめるだけだ。
好事魔多し。今となっては、あそこで立ち止まるべきだった。

 「ワンルーム投資、マジで熱い。なんもしないでジャンジャン不労所得入ってくるし。ワンルームと仮想通貨とレバナスだけで億りそうな勢いだわ」
コロナ禍が落ち着きつつある中で開催された、大学のサークルの同期会。電通に勤務する友人の左腕では、デイトナの秒針が時を刻んでいた。「これからの時代は副業」という言葉が、アルコールとともに脳髄を揺らした。翌週には有給をとって、麻布十番の不動産屋に飛び込んでいた。

 兄さん、マンション投資に興味あんの? ならちょうど良いところにきた。とっておきの物件があるよ。少し築古だけど、リノベーション済み。オーナーがコロナで本業の資金繰りが厳しくなって泣く泣く手放すんだけど、なんと表面利回り七%。港区の物件は資産価値が落ちないし、流動性も高いからね。え、日本生命? すごい会社勤めてるね、ならウチが提携している地銀からローンも安く引っ張れるよ。早く決めないと、他の人が買っちゃうかもねーー。
 美味しい話には裏がある。向こうからくる物件はすべてクソ。そんな当たり前のことを、慶應も日本生命も教えてくれなかった。優しい人達に囲まれた優しい世界から飛び出てしまったインパラを、サバンナに住む肉食獣が放っておいてくれるはずがない。

 不労所得を得るつもりが、買付が通った瞬間に賃借人はどこかに消え、気がつけば半年以上空室が続くマンションのために毎月十万円を超えるローンを払う羽目になっている。コロナで都心のワンルームがダブついているなんて、どこにも書いてなかったし、誰も教えてくれなかった。ついでにレバナスと仮想通貨の含み損は先月の時点で一千万円を超えていた。

 「低金利時代、マンションの頭金を最小限にして手持ちの資産を運用した方がスマート」というTwitterに書いてあった情報を鵜呑みにした自分が馬鹿だった。今は「証券口座を見なければ含み損は概念なので気にすることはない。シュレーディンガーの含み損」という言葉にすがって生きている。

 別に今すぐ破産する訳じゃない。月々の給与と恵子の育休手当で住宅ローンはちゃんと払えているし、なんといっても地域ナンバーワン物件であるアマハガンタワーの売買価格は右肩上がりだ。昨日SUUMOで確認した、二階上の同じ間取りの部屋の売り出し価格と比べた時の含み益は既に三千万円近い。

 でも、いくら住んでいる家の含み益があったって、株と違って配当があるわけじゃないし、引越し先がなければ意味がない。概念としての利益、シュレーディンガーの含み益。アパートローンの返済と投資の含み損で痛む胃の鎮痛剤にもなりやしない。同じ金額でも種類によってこんなに感じ方が違うなんて、経済学部の教科書にも、福翁自伝にも書いてなかった。

「水際対策も緩和されたみたいだし、今年の夏休みはハワイ行こうよ。久々に本場のエッグスン・シングス食べたいな」
 何も知らない恵美の、夕食中の言葉がリフレインする。ハワイ旅行なんて、円安でいくらかかると思ってるんだ。エッグスン・シングスなんて、いつ行っても客が誰もいないお台場のアクアシティで並ばずに食えるだろうが! 湾岸民ならお台場の経済活性化に少しは貢献しろ! ……なんてことが言えたら苦労しない。離乳食を食べる紗代子がぐずり始めて有耶無耶になったが、また頭痛の種が増えた。

 夜景を見つめながら、ふとスマホでハワイ行きの飛行機を検索してみる。冷静に計算してみると、今までワンルームで垂れ流した赤字がなければ余裕だった。家族とのかけがえのない瞬間を犠牲にして、俺は一体何をやっているんだ。胃痛が酷くなり、さっき飲んだビールが逆流しそうになる。

 こうなったら仕方がない。メールアプリを立ち上げる。
「先程の件ですが、AD300にしたらもう少し入居者が早くつかないでしょうか?なんとしても赤字を止血したいので、以前頂いた賃料値下げの件も検討したいのですが、少し詳しいお話を伺えないでしょうか?」
 これは敗北じゃない、戦略の見直しだ。ガラス越しの東京の夜景が、少し滲んで見えた。

第2話 高層階の恋人(麻)

 梅雨の晴れ間。平日の昼間。三菱一号館美術館の、ポーランドだかハンガリーだかの画家の展覧会。暇つぶしのために来たようなものだったが割と好みだった。売店でポストカードを1枚買って帰る。

 アマハガンタワー。2016年竣工。地上50階建。東京メトロ有楽町線豊洲駅徒歩5分。倉庫とボロ家が肩寄せ合っていた海っぺりの寒々しい埋立地を、三井不レジが再開発で見事に塗り替えてみせた。やや派手に塗り替えすぎた。インターネットでは「黒光りタワー」と呼ばれていた。チャコールグレーのざらりとしたタイル。深い緑色の重々しいガラス。「デザインにあたってはドイツの黒い森《シュヴァルツヴァルト》をイメージ」ノムコムの物件紹介にはそんな小っ恥ずかしいことが書かれていた記憶がある。

「丸の内もタクシー圏内ですよ」
 私へのアピールになると思ってか、営業マンは販売センターでそんなことを言った。試しに乗ったら1,800円も取られた。それからは丸の内へは甲斐甲斐しくメトロで行った。行ったところで買えるものはせいぜいピエール・エルメのドレッシングくらいだった。いまや坪500万も珍しくないタワマンの暮らしは、せいぜいそんなものだった。帰りの有楽町線はガラガラで、向かいのガラス窓には私の顔がぼんやりと映って揺れていた。

 このマンションを見つけてきたのは夫だった。
 慶應のテニサーで出会った。何度か二人で飲みに行ったりしたけど当時は付き合わなくて、社会人になって数年してから「久しぶり!笑」と久しぶりにLINEが来て、飲みに行って、その日のうちにそういう関係になった。在学中は合コンで知り合ったフェリスの女と付き合っていたが、たぶん結婚を考える段になって、攻玉社から慶應経済へ、そして双日へと、本人曰く「東京を順当に駆け上がった」自分の子供に、偏差値55の女の血が混じるのが嫌になったんだろう。岡山の朝日高校から慶應文学部へ、UFJの一般職へと進み、ちょうどペアーズで付き合った明治卒の生保勤務の彼氏と別れたばかりの私が、何というかちょうどよかったんだろう。私からしても彼はちょうどよかったんだろう。
 働いて気付いたことは、働くのが好きではないということだった。昼間からエシレのサブレでも齧りながら古い映画を観るような、そんな退屈で幸福な専業主婦になりたかった。彼にはそれだけの稼ぎがあったし、例のフェリスの女に浮気されて別れかけたトラウマからか、彼は私を鳥籠の中に閉じ込めておきたがった。利害の一致。パレスホテルで挙げた真っ白でうつくしい結婚式。私たちは永遠の愛の形をした噛み合う蛇。私たちはお互いを消費し合っていた。

 「ミスチル聴かないのは人生損してる」夫の口癖だった。夫はミスチルが好きだった。学生時代のサークルの飲み会でも空気を読まずミスチルを熱唱していた。今でもお風呂でよくミスチルを熱唱していた。
 経験則として、ミスチルが好きな人間というのは人形焼のようにみんな同じ形をしている。ウイイレが好きだ。F1が好きだ。東野圭吾が好きだ。卒業旅行でシンガポールに行ってカジノをやっていた。パズドラをやっていた。遊戯王カードをやっていた。両親は仲が良くて家庭の不和なんてものを想像できない。自分の価値を信じてやまない。その価値を分かりやすく証明してくれるものを欲してやまない。彼にとって、フルローンで買ったこの黒光りするタワーマンションは、そのもっとも重要なもののひとつのように思われた。
「リセールバリュー下がるかもしれないじゃん」
 だから彼は、私が美術館で買い集ふめたポストカードを飾るために壁に穴を開けるのを嫌がった。私はおとなしく従った。
 彼とはそういうところで話が合わなかった。それが学生時代に彼と付き合わなかった理由のひとつだった。私は文化の匂いみたいなものが好きだった。彼が分かりやすさを愛するように、私は分かりにくさを愛した。分かりにくさを分かりにくさのまま受け入れることで、何だか賢い人間になれる気がした。私は分かりにくさを消費した。サブカルの本質というのはそういうことだと思った。美術館に行ってポストカードを買った。飾られることのないそれは、黒光りするタワーマンションのこの部屋のどこかの戸棚の隅で、私の物言わぬ透明な不満とともに、静かに眠っていた。

だから私は、ポストカードをこの部屋から出してあげることにした。

 豊洲駅から少し歩けばアマハガンタワーが見えてくる。冷房の効いたエントランスには程度の低いハイブラ店舗みたいなひんやりとした匂い。高層階用のエレベーターホール。42階へと駆け上がる小さい箱が、自宅のある18階をあっという間に通り越していった。

「お疲れ様」
 4201号室の主は私にいつもそう言う。わずか数年で終わった彼の会社人生活が うっすらと残した癖なのか、「愛してる」から逃げるための大量生産品みたいな挨拶なのか、もうとうに考えるのはやめた。

 文学部のゼミの同期。早稲田を真似することがこの慶應で一番効率よく「変わった人」になれると気付いていた天才。ロン毛に黒縁メガネ。作務衣に便所サンダル。ボロボロになった古い三島と寺島にハードカバーのマイケル・サンデル。「たま」に「くるり」に「はっぴいえんど」。書き始めるが書き終わらない長編小説。中身は案外ベタな青春群像劇。朝井リョウへの愛憎劇。ひようらのコンクリ打ちっぱなしの、どうも親からの潤沢な仕送りのために学生にしてはちょっと家賃の高そうな彼の住むそのワンルームに、当時の私はよく通っていた。

 彼がいま住んでいるのはいわゆる地権者住戸だった。月島でシーフードミックスなんかを作る零細企業が実家らしかった。その工場だか倉庫だかがアマガハンの再開発にかかって、黒光りする何部屋もの部屋に化けたらしかった。実家は事業を畳んで不動産賃貸業に転じたらしかった。彼も家業を継ぐために親のコネで入った、食品関係の専門商社にいる必要がなくなったらしかった。

 彼と会わなくなったのは、彼の分かりにくさを分かってしまったというか、結局彼のあらゆるものは何かの逆張りのカウンターカルチャーに過ぎなくて、私は私で彼のその分かりやすい分かりにくさを消費していたというか、まぁつまりは、愛が加速してメンヘラ化した私が彼に告白して振られたという、ありふれた結末だった。セフレの終わりというのは、シーフードミックスの袋の中の形状たちのようにありふれたものだと相場が決まっている。私は彼の掌の上の輪切りのイカであり殻を取り去られた小さなエビに過ぎなかった。

 彼とまた会うようになったのは、森美術館の帰りだったか、また行き場のないポストカードを一枚買って帰ったその日、平日の昼間の人気のないアマハガンタワーのエントランスですれ違ってからだった。埃ひとつ浮かんでいない、作りものみたいなそのエントランスの日差しの中を横切る、彫りの深い彼の顔の造形。落ちる鮮烈な陰影。象徴となる光景。「どうせ人に貸したりもしないからいいよ」彼は草間彌生のポストカードを壁に飾ることを快く承諾した。私はこれまで買い集めていたポストカードを彼の部屋に持ち込んだ。それらは木製の上品な額縁に収められて、思う存分に紫外線を浴びて、目に見えない速度で色褪せていった。

 彼は相変わらず「いかにも」な感じだった。やや長めの癖っ毛をセンターパートにして、銀色のメタルフレームの丸眼鏡をかけて、服はオーバーサイズのTシャツで、キングヌーの影響を受けていることは明らかだった。まだ小説を書いていて、最近やっと書き上がったそれを三田文学の新人賞に出してみたが佳作にも引っかからなかったと笑っていた。笑ったその歯は病的に真っ白だった。ホワイトニングに通っているし、最近はVIO脱毛にも通いはじめた。ホワイトニングとVIO脱毛をする文学者なんて彼のほかに聞いたことがなかった。

 つまるところ、私たちはみな記号だった。
 記号として生き、そして誰かを記号として消費していた。人生をAmazonで買った様々なクッキー型で抜いて、焼き上がったそれを、この黒光りする品のないタワーマンションの一部屋一部屋に詰め込んでいた。ここは記号の塔で、私たちはその住民だった。港区に住むお金も、千代田区に住む品性も、渋谷区に住む感性もない私たちが、お互いの人生を齧り合いながら、甘いクッキーの屑が散らばった床の上で、終わることのないダンスを踊るのだ。

「これ好きって言ってたよね」
 誰かからもらったであろうエシレのサブレの青い缶を彼は私にくれて、私は彼の体温がすっかり抜けたそれを家に持って帰って、アクタスのソファの上で開けて、サクリ、と前歯で齧った。クッションフロアの床にポロポロと屑が落ちた。ルンバがいつか吸むそれを、私はじっと見つめていた。そろそろ夫が帰ってきて、お風呂でミスチルを歌って、「ミスチルフジロック来ないかな〜」と言うだろう。私はよくできた妻のように、それを聞いてニコニコと笑うだろう。そうしてこの馬鹿みたいな仮面劇は、ずっとずっと続いていくだろう。

第3話 つよくてニューゲーム (窓)

 「君、ポケットに何か隠しているな! 万引は犯罪だって知ってるのか? どこのタワマンの子だ?」
 ファミマの入店メロディを背に、自動ドアの前に仁王立ちする店員。どこにも逃げ場はない。固唾を呑んだお客さん達の視線が集まる。
「実る、学びを。帝京魂!!」
 静寂の中、帝京平成大学の広告の音声だけが、店内に響いていた。

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