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恋は、遠い日の花火ではない。

言葉には「鋳型」の作用があるから、いわゆる座右の銘はもたないようにしてきた。それでも好きな言葉はある。いや、気になる言葉と言ったほうが正確かな。

ひとつ目は、山崎ナオコーラさんのデビュー作『人のセックスを笑うな』の一節。「枝は美しさに向かって伸びてはいない。枝は偶然に向かって伸びている。たまたまそういう形になっている」。じつは本書を読んでいない。ある方から教えてもらって、「あっ、いいな」と思った。そうそう、小説の書き出し限定なら、綿矢りささんの「さびしさは鳴る」が好きだ。目にした瞬間、固まった。たしか『蹴りたい背中』の一行目。

もうひとつは、ツイッター。3年くらい前のつぶやき。投稿者は、学生さんだったと思う。気になる人だったけれど、いつのまにかタイムラインから消えていた。「家族って気持ち悪い」。

最後は、藤原新也さんの著作の一節。「あの墓に唾をかけろ」。たしか同名の海外小説があったと思うけれど、それとは別。この言葉、正確にはご自身のものではない。藤原さんが東京藝大に入学が決まり上京の前夜、門司駅(だったと思う)裏の深夜映画館で始発列車を待っている間に観たイタリア映画、そのエンドロールに記されていた言葉だ。藤原氏ご本人がそう書いているから間違いはないはずなのだが、先週、なにかの拍子にこのフレーズを思い出し、家にある著作を片っ端からチェックした。『乳の海』ない。『東京漂流』やっぱりない。『メメント・モリ』ない、ない。どこにも記載がなかった。もちろん、見落とした可能性はある。あきらめた。「まあ、いっか」という気分になった。それがわかったところで、なにかが変わるわけでもないだろう。

「墓」とは先祖の墓であり、常識や習慣のメタファー、そう勝手に解釈をしている。この言葉を思い出すたびに「君は自分の足で歩き続けろ」と言われているようだ。

人は、短期記憶と長期記憶を選別して、いつまでも覚えておきたい記憶を脳の「海馬」に収納するという。昨日のワイドショーの話題を咄嗟に思い出せないのも、海馬ではなく、それが短期記憶として前頭葉で処理されているから。つまり、覚えておかなくても大丈夫。これが好きな人が、はじめて自分のために作ってくれたビーフシチューだったとしたら、即「海馬」行きだ。

不思議だな、と思う。なぜその言葉が「刺さる」のだろう。いったい誰が、どんな理由で「選別」しているのだろう。選んでいるのは「私」だ。けれども、選んだという実感はない。気づいたらそうなっていた。不思議は不思議なのだけれども、その言葉が私を「形成」しているのもまた事実。そんな風に考えてゆくと、私とは意外と手の届かない遠くにいるのかもしれないな、とぼんやり思いを馳せる。

もうひとつ思い出した。「恋は、遠い日の花火ではない」。小野田隆雄さんのキャッチフレーズ。1994年に始まった「サントリー・オールド」のキャンペーンに「通し」で使われた。大先輩のコピーに難癖をつけるつもりはないけれど、いわゆる「キレ」のあるコピーではない。全体的にもやもやしている。つかみどころがない。しかし、「詩的だ」のひと言で片付けたくないなにかがある。いつまでも海馬に残るのだろうな。そういや、この手のCMはすっかり減りましたね。少し寂しい。   (写真:城戸保)



かまーん!