ソフト(ウェア)SF

 最近はSFも裾野が広がってきて、人に勧めるときにも「いろんなSFがありましてね~ なんでもSFって感じです いやホント」とかいってしまう。じっさい8割くらいは正しいのだが、じゃあ"本当に"なんでもSFなんスかといわれるとちょっと苦しい。たとえば、王道なろう系・純恋愛系。

 自己紹介:京都で数学やっています。Nagaraです。留年の危機です。


 発端は夢野久作の『人間腸詰』という作品の読書会で、わたしは「世界観スチームパンクにして、人間をソーセージにする機械をもっとSFチックにすればSF名乗れそ~」などと軽率な発言をしていた。なんならこのままでもSFってギリギリ強弁できる。青い瞳が義眼だったとかよくないですか?
 最近のSFを摂取してる人にはこの感覚が伝わると思う。個々人の意見は置いといて、『人間腸詰』臨界点の怪奇編に入っててもそれほど違和感はないだろう。だって恋愛編に『人生、信号待ち』が入ってるんだからさ。

 そうなると、この「SFっぽい」ってなんですかという話になってくる。これは重要な問題で、持ちあわせの百合小説をどう改稿したら『Pixiv百合文芸コンテスト』のSFマガジン賞を狙えるかというところにかかわってくる。
 あ、やっぱり秘密にしておこうかな。わたしも狙っているので。

 なお個々人によって感じ方は結構ちがうらしく、『魔法少女まどか☆マギカ』『進撃の巨人』などは意見が分かれる。みなさんはどうですか? わたしは前者はSFだけど後者は違う派閥です。
 そんなわけで友人と意見の衝突もありつつ、こうした個人の感性の違いによらない説明を考えていた。なおこの間に流れるようにして『白熱光』(グレッグ・イーガン)を買っている。

 それで生まれたのが今から紹介するSF分離説だったりする。

abst:SFには「対抗不可な絶対」「規則的な現象」「説明的な態度」が絡みあった面白さがある。空想科学という枠組みが深堀りされるにしたがってSFというジャンルからこれらが分離され、逆にこうした面白さを備えた小説がSFと呼ばれるようになった。

 『ペンギンハイウェイ』はちょうど境界上にあるようなSFで、水球や世界の歪みの原理は科学的に解き明かされない(むしろそういうファンタジーなんですと強弁される)一方、吸いこまれた物体が出てこないという絶対的な「死」の連想、規則的な満ち引き、それらに対する主人公たちの科学的態度というSFの面白い部分がそろっている。
 
 『魔法少女まどか☆マギカ』も「人間の抗えないキュゥべえ」、「ソウルジェムと魔法少女・魔女に関連したsystematicな設定」、「ほむらのタイムリープでの検証/最終的な解決法」がSFチックで面白い。このsystematicっていうのが個人的にはすごく刺さるわけ。

 「対抗不可な絶対」は科学の理論的な部分に、「規則的な現象」「説明的な態度」は科学を成立させていく過程に根差している。要するに科学の面白いところ。じっさい古典的なScienceFictionalなSFの面白い部分の根っこはこういうところにあると(個人的には)感じており、良いSFはこういったソースと人間がよく絡んでいてとてもおいしい。『プロジェクト・ヘイル・メアリー』とかね。

 実践。SFっぽくない百合ショートショートのabstをいじって「対抗不可な絶対」「規則的な現象」「説明的な態度」を塗りこみ、百合SFにしてみる。ここで科学的なものにすると意味がないので非科学的ファンタジーで。

 AとBは高校の美術部の部員で、Aが先輩。Bは才覚に溢れておりAはそれに嫉妬している。Bは明るい生命のカタチを描くことが得意で、Aは綺麗なBと醜い自分を比較しては落ちこんでいる。ある日感情が抑えられなくなり、AはBに迫るが逃げられる。翌日Bが体調不良で部室に来なかったのでAはBの家まで行き、そこでBを汚したいという欲望のままに押し倒してしまう。二人は幸せなキスをして終わり。

提供:数学の友人ら

 三要素を適当にぶち込んでみる。
 思いつかないから有名な小説からアイデアを借りてこよーっと。テッド・チャン『地獄とは神の不在なり』が好きなのでそこから。

 対抗不可な絶対:
 描いた絵になんか宿るみたいな。それは人間には決められない。

 規則的な現象:
 やっぱり絵によって宿るものはある程度変わってくる。Aはどれだけ明るい絵を心掛けてもBのほうが明るい存在が宿る。Bが暗い絵を描いても裡に光を持つような優しい影のような存在が宿る。

 説明的な態度:
 Bにコツをいろいろ教えてもらうとか、あと宿った存在に過去の幻影を見るとか。最後に二人が愛しあってから一緒に書いた絵で陰陽が融合したような存在が宿るみたいな。

 完成版abst:

 聖画には「存在」が宿る。(既定の描き方・具材など)という風に描いた絵には、描いた者にだけが見える「存在」が顕現する。ふと出会ったAとBは互いの描いた「存在」が見えることに驚き、共に過ごすようになる。後に生き別れの一卵性双生児だと分かる。Aの陰気な「存在」に対してBの「存在」は明るく生気に満ちあふれており、幼いころから絵に親しんでいるAは嫉妬する。Bは遅くから描き始めた天才気質であり、優しい性格をもち、Aに色々教えるがAの「存在」は暗く顕現する。(SFチックに変化をパターナライズするといい。あと「存在」の中に過去の自分を見るとか。)ある日Aは嫉妬とのあまりBを押し倒してめちゃくちゃにするが、Bはそれを受け入れ、二人で身体に描いた絵には陰陽の融合した慈愛の「存在」が宿る。

とりあえず画材に血は混ぜてそう そんな気がするよね

 現代ならSFって主張可能な作品ができた。エモーショナルなところまであるのでこのまま百合文芸に投げても大丈夫。ちゃんと絵で試行錯誤する「SF的オイシイ部分」も書いとけばSFタグをつけても大丈夫。
 なんか設定が甘い気がするが、急造という言い訳でごまかしておく。ファンタジックな「存在」もAR的なものにしたら面白いのかもしれない。

 「対抗不可な絶対」「規則的な現象」「説明的な態度」があるからSFなんだという主張は無理がある気もするが、でもなんとなく的を射ているような気もする。

 上で挙げた三要素のような「SF的面白さ」をどう説明するかというのは各々あると思うが、「最近のSFの拡大の正体は、SF的面白さを兼ね備えた作品がSFと呼ばれるようになったという変化」という点は割と自信があり、今後もいろいろと考えてきたいと思っている。

 っていうのの概要を話したんですよ。KUSFAの新歓読書会でのことです。
 そこで出たのが「ハード(ウェア)SF」と「ソフト(ウェア)SF」ということばで、最近は現実の技術もSFもソフトに移行してて、ハード(ウェア)SFとしてのガジェット(ロボットとか)はどんどん薄れてるよねという話になった。

 それでいうとわたしの提唱した三要素はまさしくSFのソフトウェアであって、それをいろんなハードに差し込むことで拡大しているのかもしれない。

 ぴぴー。不明なディスクが挿入されました。
 もうディスクって古いのかな。カセットにしとこう。

 ところで、物語の本筋とは関係ないところで「さりげない科学的態度」を出されるとハートがキュンとしちゃうよね。「この国の衛兵はAというとBと返し、CというとDと返す。つまりABといえばCDと返すはずだが、DCと返す。すなわちこの国のメモリはプッシュダウン式なわけだ」とか。
 こういう「SF萌え~」みたいなところを敷衍したのがソフトウェア的SFの流行なのかもしれない。

著者:Nagara (twitter @b_6k_)


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