見出し画像

#0 競馬初心者のためのニュイ・ソシエール ウイポ配信解説 〜福永祐一という男 編〜

にじさんじ所属のVTuber、ニュイ・ソシエールが競馬ゲーム『ウイニングポスト10』を使った連続配信企画『福永騎手と往く、自家生産馬で日本ダービーチャレンジ』をつい先月開始しました

今回は「この機会に競馬を覚えたい」「競馬は知ってるけど昔の競馬はあまり詳しくない」という人向けにゲーム内での登場馬や出来事を補足しながら、おニュイのリアクションがどういう背景から産まれているのか、いったいどんなドラマが見えているのかを出来る限りフォローしていこうかと思います

①ジョッキー『福永祐一』

新たに始まったこのウイポ配信企画では「自家生産馬を福永祐一騎手に乗ってもらい日本ダービーを制覇する」というテーマを掲げています
ウイニングポストシリーズではサラブレッドの生産牧場を経営しながら馬主として競走馬を育成し様々なレースに挑戦していくゲームで、実在する競馬関係者もたくさん登場するのですが、今企画では日本中央競馬会(JRA)に所属していた騎手・福永祐一に自分で生産・育成した馬に乗ってもらい『日本ダービー』というレースを勝つというのが最終目標になるわけですね

ではまず福永祐一というジョッキーはどんな人なのか?

↑ゲーム内グラフィックでの福永祐一騎手

1976年産まれ(46歳)となる中央競馬の元ジョッキーで、獲得したGⅠタイトル(最も高い格付けのレース)や通算勝利数も非常に多く、日本が誇る名騎手の一人と言っていいでしょう。今現在、普段から競馬を楽しんでいて彼を知らないという人はまずいません
元ジョッキー、とついているのは既に今年の2月に現役を引退しているからで、来年には調教師として競走馬を育成・調教し、レースへ送り出す責任者の立場になることが決定しています

(※調教師となる際は騎手としての免許を返納しなければならないため、調教師になるための試験を受け合格した福永さんは調教師試験の合否が発表された昨年の時点で騎手を引退することになっていました)

福永祐一という人間を語る上で欠かせないのは父・福永洋一騎手でしょう
福永洋一は昭和に現れた元祖天才ジョッキーとも言われる才能の持ち主で、常人には思いつかない奇想天外な騎乗センスや、平成以降の乗り方にも通じるような騎乗フォームを誰に言われるでもなく確立するなど、まだまだ競馬途上国だった当時の日本において圧倒的な存在感を放つジョッキーでした
しかし脂の乗り切っていたころに重大な落馬事故に合ってしまい、一命はとりとめたものの半身不随となり騎手引退を余儀なくされてしまいます
しかし彼を評価する声は引退したあとも消えず、時を経て半ば伝説と化していきました。そんな中出てきたのが福永洋一の息子・福永祐一です

唯一無二の才人と讃えられた騎手の二世ですから周りも放ってはおきません。デビュー以降、祐一騎手の明るい人格も相まって彼の元には人も馬も集まり、順調に勝利を重ねていきます
しかし今でこそ福永祐一は名手として評価を受けていますが、デビュー当初は先輩騎手に「下手くそ」と指摘されるなど父のような強烈な天賦の才はありませんでした。中には「強い馬に乗っているから勝っているだけ」という声すらあったほどです

実際、数あるタイトルの中でも競馬に関わる人間なら誰もが手にしたい「とあるレース」に関してはなかなか勝利することができませんでした。そのレースこそが『東京優駿』――またの名を『日本ダービー』です

②日本中のホースマンの夢 『日本ダービー』

クラシック競走という3歳になる若馬たちだけが挑める3つのレースに『皐月賞』『日本ダービー』『菊花賞』があります
中でも同世代の頂点を決めるレースと言われ、日本中の競馬関係者やファンの関心が一年で最も集まると言っていいのが『日本ダービー』
言うなれば「競馬界における甲子園」でしょう

もちろん騎手の中にもダービーで勝利することを夢とする人は沢山おり、1着でゴールした直後に涙を流すなんてことも珍しくありません
それくらい重く大きなレースゆえ、陣営にのしかかるプレッシャーも相当なもののようで、福永祐一騎手も日本ダービーに始めて出走した時には緊張から大失敗を犯してしまったことも

しかもこの日本ダービー、父・洋一騎手も勝てておらず福永家父子2代にわたる悲願と言われていましたが、祐一騎手は度々参戦し惜しいところまでは行くものの長らく勝ちきることはできず、他のビッグタイトルこそ制する中でダービーの栄冠だけはなかなか獲得できませんでした

しかし数えること19回目の挑戦となる2018年の日本ダービーではワグネリアンに騎乗し、不利と言われる外側からのスタートとなるもライバルを見事な手腕で封じ込め初制覇。見事、ダービー勝利を成し遂げます

その後は吹っ切れたのか、なんと4年間のうちにダービーを3勝(ワグネリアンの勝利含む)し、その内の一頭であるコントレイルでは『皐月賞』と『菊花賞』も制し国内史上いまだ8頭しかいない三冠馬に導くなど、ベテランながらキャリアハイとも言えるような充実ぷりを見せていきました

③そして皆の先生へ

福永祐一騎手がファンに人気なのは、真面目にコツコツと努力して開花した確かな実力はもちろん、メディアを通して垣間見える人当たりの良さもあったと思います
特に近年もっとも多くの競馬ファンに親しまれていたのは、事前にレースの解説をしてくれる関テレの動画企画『教えて!福永先生』シリーズでしょう
現役トップジョッキー自ら大レースの展望を事細かに語ってくれるコンテンツというのは非常に貴重で、下手をすれば自分の戦略を明かすようなことにも関わらず、率先してやってくれるサービス精神には頭が上がりません

↑3度目の制覇となった日本ダービーでも、直前に自ら展望予想を語っていました

その他にもバラエティ的な企画にも出演したりで露出が多く、ウマ娘のヒットによる競馬ブーム再来も重なり、多くの競馬ファンに親しまれる先生的存在になってくれていたと思います

↑競馬芸人であるビタミンS・お兄ちゃんのYouTubeチャンネルにも度々出演してくれています

④そして次の夢 〜騎手から調教師へ〜

そんなベテランにして最充実期を迎えていた2022年12月、調教師試験に合格したことが発表されました。先にも書いたとおり騎手と調教師を並行して行うことはできないため、2023年――つまり今年の2月をもって騎手を引退することも決定されます

加齢による衰えを感じさせない安定した成績で、ウマ娘効果で増えたファンの多くが最初に知ったジョッキーの一人であろうこともあり勇退を惜しむ声は多かったものの、もともと騎手ながらに馬のセリ市へ行って若駒を見る目を確かめていたり、調教師的目線で競馬を見ることが好きだったと語っていましたし、何より『教えて!福永先生』でその片鱗を我々に垣間見せてくれていましたから、冷静に考えれば調教師への転向も納得でした

調教師としての本格的なデビューはもう少し先ですが、既に有力馬がこぞって彼の元に入るという噂が各所からのぼってきており、騎手として最晩年の相棒であり先に種牡馬として引退した三冠馬・コントレイルの産駒デビューと合わせて、いち競馬ファンとしては待ち遠しくてたまりません

⑤企画スタート年代 1998年という『黄金にして黄昏の世代』

ウイニングポスト10では複数の時期からゲームの開始年を選べるのですが、おニュイが今回選択したのは1998年でした

↑ウイニングポストではゲームの開始年時を複数から選べます



この時期の日本競馬は円熟期を迎えており、80年代の終わりにやってきたオグリキャップの登場に端を発する第二次競馬ブームで90年代にかけて競馬人気は一気に国民的コンテンツと言えるまで浸透し、『みどりのマキバオー』などの競馬漫画・アニメや『ダービースタリオンシリーズ』など競馬ゲームがヒットするなど、生粋の競馬馬好きやギャンブラーだけでなく子供や女性にまで広まります
オグリキャップが引退したあとの90年代前半も、三冠馬の息子にして奇跡の復活を成し遂げたトウカイテイオーや、圧倒的な破壊力を見せつけ今でも歴代最強の1角と言われる三冠馬ナリタブライアンなど、個性豊かなスターホースが続々と登場し競馬ファンを沸かせました

また、80年代までのアメリカやヨーロッパ諸国と日本の間には明確に競馬レベルの差があり、海外遠征へ行っても勝利には遠く辛酸を舐めさせられていたのですが、この格差を埋めるために海外馬を招待して行なう国内GⅠ『ジャパンカップ』を新たに設立。当初は海外参戦馬に上位を独占され日本馬が後塵を拝するなどなかなか対抗できずにいましたが、80年代後半から90年代に入るころには日本勢からもチラホラと『ジャパンカップ』勝ち馬が現れていきます

↑日本馬初のジャパンカップ制覇を成し遂げた1984年のカツラギエース。佐藤哲三騎手のように、この大金星を見てジョッキーを志したという人も

後に日本競馬の血統図を完全に塗り替えるレベルで大成功するアメリカの二冠馬・サンデーサイレンスの種牡馬導入もこのころ行われ、2023年現在へと繋がる生産面の底上げも既に始まっていました

そうした人気の沸騰と競馬レベル上昇が最も高次元で結実したのが『1998年クラシック世代』でしょう
98年に4歳(ルール改定により現在表記では3歳)を迎え、『日本ダービー』をはじめとしたクラシックレースを走れる年になった馬達のことをこう呼ぶのですが、この世代はとにかく強いサラブレッドが多く集まっており、後には『黄金世代』とも呼ばれ今なお世代別比較なら最強では?と評されるほど
『ウマ娘』のアニメ第一期で中心に描かれたのは主人公・スペシャルウィークを筆頭としたこの98年クラシック世代だったことからも、いかにツワモノ揃いだったかが伺えます

今回のキーパーソンである福永祐一騎手はその黄金世代の到来直前である1996年にデビュー。天才の息子として当初から注目を集めていた福永騎手は、98年クラシック世代の中でもとりわけ期待の高い馬に乗ることとなりました
それこそがゲーム内でもおニュイが最初に手にした史実馬・キングヘイローです

⑥世界的超良血、黄金世代の貴公子・キングヘイロー

キングヘイローはその血統背景からデビュー前の時点で既に競馬界を賑わせる存在でした
それもそのはず、父は世界最高峰の大レースといわれ、未だ日本馬が勝利したことのないフランスのスーパーGⅠ『凱旋門賞』を圧倒的なキレ味で差し切り勝ちした世界的名馬・ダンシングブレーヴ
さらに母はアメリカのGⅠを7勝もした名牝グッバイヘイロー(補足するとGⅠレースはひとつ勝つだけで競走馬の中では超エリートです)

そんな超がつくほどの名馬同士から産まれた子ですから注目されないはずはありません

当時は日本競馬のレベルも少しづつ上がってきていたとはいえ、これほどの海外の良血を組み合わせた馬が国内で走ることはほぼなく、今見返しても「なんでこの血統馬が当時の日本で走ってたんだ……?」と思うほど
キングヘイロー自身の素質も高く、陣営から期待もされていたため当初はあのレジェンドジョッキー・武豊が騎乗予定だったそうですが、他の実力馬に騎乗する都合もあり、ひょんなことから若手だった福永祐一騎手にバトンが回ってくることとなります

実際に走り出してからもキングヘイローはデビューから三連勝するなど実力をいかんなく発揮。翌年のクラシックレースでの期待馬に名乗りを上げました

↑3歳(現2歳)のデビューから三戦目となる『東スポ3歳S』。このとき2着のマイネルラヴも後にGⅠを勝利する名馬ですから、キングヘイローの実力の高さが伺えます

⑦勝ちきれぬ日々、覗かせる気性難、そして……

しかしそんな期待とは裏腹に4歳(現3歳)のクラシックシーズンに入ると惜しくも勝ちきれぬレースが続くことになります
後に『黄金世代』と呼ばれる世代ですから同期も実力馬揃いなわけで、中でも強かったのが名騎手・武豊の駆るスペシャルウィークと、地味な血統ながら独自の逃げ戦法で他を翻弄するセイウンスカイの2頭でした

前哨戦となるレースでこの両者に先着を許すと、本番となるクラシック一冠目『皐月賞』でもスペシャルウィークこそ競り落とすものの、逃げたセイウンスカイには届かず2着
ならばと挑んだクラシック二冠目にして大一番『日本ダービー』では、「日本ダービー初騎乗」という福永騎手自身にかかるプレッシャーと、毎年ダービー開催日に東京競馬場を包む異様なほど物々しい空気が重なってか、本人をして「緊張にのまれて、頭が真っ白になってしまった」と言うほど冷静さを喪失。本来は中団〜後方から最後に差し切る戦術だったキングヘイローをスタート直後から先頭に立たせて逃げる形にさせてしまいます
その後は言うまでもなく本来の持ち味を活かせずに14着大敗。人馬ともに競馬エリートな家系の悲願達成どころか、福永騎手にとって98年の日本ダービーは苦い思い出として刻まれることとなってしまいます
一方で優勝したのはスペシャルウィーク。騎乗していた武豊にとってはようやくとなる日本ダービー初制覇で明暗がハッキリ分かれる形になりました

キングヘイロー・福永騎手のコンビはその後、善戦こそするもののクラシック三冠目の『菊花賞』ではセイウンスカイの3000mにおける当時世界レコードを紡いだ芸術的な大逃げに破れ、翌1999年の5歳時(現4歳時)も年間通してGⅠレースを勝つことは出来ず、さらに明けて2000年、キングヘイローは無冠のまま6歳を迎えることになります

この頃には既に黄金世代期待の一角という声も少なくなり、ジョッキーも福永祐一騎手から柴田善臣騎手や横山典弘騎手に乗り代わることが多くなっていましたし、同期でライバルだったはずのスペシャルウィークは同じ黄金世代でクラシックとは別路線から頭角を現していた怪物・グラスワンダーエルコンドルパサーらと名勝負を繰り広げ、伝説となった1999年の『有馬記念』を最後に先んじて引退してしまいました

↑王道路線の主役・スペシャルウィークと別路線を歩んでいた黄金世代の怪物グラスワンダーの世紀の対決。ここに至る彼らのストーリーもいつか興味が湧いたら調べてみてほしい


キングヘイローがなかなか大レースを勝ちきれない理由はまず彼の適性がなかなかハッキリしなかったことでしょう
日本のGⅠ中でもひときわ長い距離の3000mとなる『菊花賞』をそこそこに走ったかと思えば、暗中模索していた1999年の後半では1600m『マイルチャンピオンシップ』2着1200m『スプリンターズステークス』3着とかなり短い距離で善戦しはじめます
ここまで幅広い距離で好走する馬は日本競馬を遡ってもなかなかおらず、それでいて勝ちきれはしないというのがまた陣営を悩ませました

2000年に入ってからは馬場が芝ではなくダートのGⅠである『フェブラリーステークス』にも参戦しますが、13着と見せ場なく惨敗
敗因として上がったのが「後方待機すると前の馬の蹴った砂が顔にあたって走る気をなくしてしまう」というものです
実はキングヘイローという馬のもう一つの難しさはこうしたムラっけにあり、ダート戦以外でも他馬に囲まれて揉まれるとやる気が失せ、夏の暑さや雨などもダメ。頭部につけられたシャドーロールやメンコといった道具も神経質さを抑えるためのもので、特徴的な首を高くあげほとんど前に下げない走行フォームも相まって、一見してすぐキングヘイローと見分けがつくチャームポイントにもなっていました

↑頭部を覆うマスクのようなメンコは耳を覆って音への敏感さを和らげたりし、鼻面に被せられた緑のシャドーロールは脚元の視界を減らすことで走りに集中させることができます。ウイポ10では『ウマソナ』としてキングヘイローの気性難も再現

こうしたキングヘイローと陣営の試行錯誤は、2000年の3月26日に開催される1200mのスプリントGⅠ『高松宮記念』でついに実を結ぶことになります
黄金世代にして先んじて短距離GⅠを制していたマイネルラヴや、個性派の超快速馬アグネスワールド、一歳上のベテラン・ブラックホークなど層の厚いメンバーが揃うなか、スタートを切ると中団後方に構えて道中を進み、最終直線では得意の大外ぶん回しから一頭モノが違うキレ味でスピード自慢の馬たちを差し切り優勝
デビューから数えて計11回目のGⅠレース挑戦でようやく手に入れた栄冠でした

キングヘイローを管理・育成していた坂口正大調教師も思わず涙するほどの戴冠で、多くの競馬ファンたちも諦め悪く何度もGⅠ挑戦した彼の勝利に心を熱くさせたでしょう
しかしその結果に複雑な想いを抱く一人の騎手がいました。2着のディヴァインライトに騎乗していたかつての相棒・福永祐一です
このときキングヘイローに乗っていたのは柴田善臣騎手で、福永騎手ではありませんでした
ジョッキー乗り代わりというのは競馬の世界では珍しくないものの、当初からコンビを組みながら自身では結果を出してやることができなかったキングヘイローの勝利に「一番いてほしくない馬が前にいた」と漏らすほど

その後、年を経て2019年にミスターメロディに乗って福永騎手が高松宮記念を勝利した際には「キングヘイローが後押ししてくれたのかな」「僕に大きな糧をくれた馬だけど、何もお返しをすることができなかった」と語るなど、自身にとって特別な存在であったことは確かなのでしょう

キングヘイロー自身は『高松宮記念』のあと、GⅠタイトルこそ取れないものの引退までしぶとく走り続け、ラストレースとなった2000年の有馬記念では2500mと再び長い距離を走りながら上がり最速(ラスト600mを全馬中最も速いタイム)で突っ込んできて4着とするなど、相変わらず距離適性の不可解さを見せつけてくれました
最後の最後まで競馬ファンを楽しませてくれる名馬だったことは間違いありません


これで配信企画の前提となる情報の解説は終わりです。次からは実際の配信の進行と内容に合わせた補足的な解説を色々書いていこうかと思います。ではまた

↑JRA(日本中央競馬会)公式がアップしている福永騎手連続インタビュー動画。もっと彼が気になるという方は是非

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?