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6月12日(土曜日)午前2時半、奇跡の瞬間

この写真は、まだ母親が傍にいたころ、昼間撮ったもの。全身真っ黒、目は翠色。母親がいても決して人間の傍には来ない子。Uさんが名を付けた。2匹で「てんくう」。

「天」(てん)と「空」(そら)。「長谷川さんがどっちにどの名を付けるか選んで」

真っ黒な子を宇宙の果てしないクロにたとえて「天」(てん)。ブチの子を空に白い雲が浮かんでいるのにたとえて「空」(そら)にした。

一人残されているのは天ちゃん。11日、決心した。このままの状態が続いたら自分が過労で倒れる。来週はワクチン接種日だ。最悪の体調になる。カルチャースクールの仕事もある。このままでは自分がこの状態を乗り切れない。

金曜日から土曜日にかけて徹夜だ。それしかない。朝と夕方は他の猫も出てきて、天ちゃんがおびえて逃げる。

真夜中には周りの猫はすべて姿を消す。天ちゃんは安心してエサを食べられる。

徹夜しても、土曜と日曜日にゆっくりやすめば体の疲労は回復する。だらだら続く精神的な疲労の方が怖い。

もう一人の「猫友おばさん」が、「自分は午前3時に捕まえた」と言ったことが頭にあった。「絶対に鶏肉がいい」と言ったことも。

夕方、お皿に載せた茹でた鶏肉を物置の下に置いて遠くで見ていた。鶏肉を使うのは初めてだった。

黒い頭が物置から出てきて……食べた!こっちを見ている。小さな手で口を拭っている。もっと欲しい、と言わんばかりに。

よし、鶏肉にかけよう。

夕方7時半ごろから少し寝て目が覚めた。

時刻は12時半。日付は土曜日になったのだ。

ベランダの階段にいつものキャットフードを載せた皿を置く。上りついたところにもう一皿。その横に、小さな紙皿に茹でた鶏肉を少し。

傍にゲージを置き、扉を開けておく。いちばん奥にたっぷりの鶏肉を。

わたしは硝子戸を開けたまま、障子の裏に座り、木造のように動かない。庭の夜灯の中、黒い小さな影が。腕時計を見る。真夜中の2時20分。

草木も眠る丑三つ時……

黒い塊はそろりそろりとベランダに近づいて……階段の最初の皿に顔を突っ込んだ。食べている……ああ、神さま……他の猫が来ませんように……

天ちゃんは階段をそろりそろりと上ってついにベランダに。そして、ウェットタイプのキャットフードを食べていた、が、ふと顔をあげた。

このまま帰る?ああ、神さま……。

月の光のなか、隣の鶏肉の皿を見ていることが分かった。

天ちゃんは、鶏肉の方に近づき、首を振りながら食べ始める。顔をあげる。辺りは、丑三つ時の静けさ。

そろりそろり、ゲージに……。鶏肉の臭いに誘われたのだ……

入った!で、でも、尻尾が外に……。

わたしは木造のように身動きもせず、呼吸もせず、このまま脳溢血で死ぬかも、と一瞬思った。

さらに天ちゃんは奥に。尻尾が消えた。中でカサッと音が。紙皿を動かしたのだ。鶏肉に食いついたのだ。

今だ!

わたしは右手を伸ばし、ゲージの扉を一瞬で閉めた。天ちゃんが身をひるがえして小さく鳴いた。

近くに置いていたレインコートをすっぽりとゲージに被せ、携帯を取り出す。時刻は12日、午前2時35分。Uさんは出ない。何度かけても留守電だ。メールなんか打っている余裕はない。

わたしはレインコートに包んだゲージを抱え、ほとんど泣きながら2階の夫を呼んだ、

「ゲージを押さえていて。絶対、ネコを逃がさないで。Uさんを呼びに行ってくる」

真夜中の道を走る。近くのUさんの家に飛び込む。彼女の家の呼び鈴は壊れているのだ。玄関のドアを叩く。叩く。

彼女が出て来た。服を着ている。彼女も服を着たまま待機していたのだ。

彼女が私の家に走る。靴のまま家の中に入る。ゲージを受け取る。二人でまたUさんの家に走る。真夜中、誰かが見ていたら、警察に通報されただろう。

彼女の夫も驚いて外に立っている。今まで彼女の夫など見たこともない。もうどうでもいい。後で説明する。

彼女の車にゲージを押し込む。車は動き出す。母猫を保護している会社の事務所に向かうのだ。

「お願い、気をつけて」わたしは泣きながら叫んだ。

後のことは覚えていない。

家に帰り、ぶっ倒れた。

明け方4時。もう一人の猫友から電話が来た。「ハセガワさん、どうしたの、何かあったの。真夜中の2時半に電話の履歴あったこと、今、気付いたの」

同じ「あ行」に登録しているUさんと間違って、こちらの友にも何度か電話をかけたみたいだ。

「仔猫、捕まえた!」

「おめでとう!」

わたしはまた泣いてしまった。

後は時間が経てばどうにかなる。いつもエサは空っぽになっていて、ウンチの箱にウンチがしてあるというから、母猫和子も空ちゃんも元気なのだ。

天ちゃんを喜んで迎えてくれるだろう。

そして日曜日、13日の夕方、実際、そうなったことをUさんに聞いた。

静かに麦茶で乾杯し、この記事を書いている。あの奇跡の瞬間を今書いておこう……。

もう、切なげな天ちゃんの声は聞こえない。ホッとした反面、とても寂しい。

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