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手術台に上るまでの路

こんな経験をしたことは私にとってどんな意味をもつのか。最近ふと思う。

朝、9時手術開始。ガラガラと点滴の台を引きずりながら歩いた。脇に娘が付いていた。夫が後ろを歩いていた。看護師さんが先導していた。

廊下のある区画まで来ると看護師さんが「お家族の方はここまでです」と。まるでテレビドラマのようだと思った。

そこから先には頭にビニールキャップを被った手術着の人がいっぱいいた。早朝から手術を受ける人がこんなにいるんだ、と驚いた。

病院側にとって手術というのは日常的なことなのだ、と改めて思った。

身幅ほどしかない狭い手術台に上がると、一斉にスタッフが私を取り囲んだ。その数7、8人か。執刀医は少し離れたところでこっちを見ている。

いけない、ショーツをはいたままだった。どこで脱ぐの?

私は頭をもたげて、足元の若い女性看護師に「あの、ショーツはいてるんですがどうしましょう」と言った。

彼女は可愛い笑みを浮かべ「麻酔が効いてからお脱がせします」と。

全く余計なことを聞いてしまった……バカ、バカ、すべてお任せしていたらいいのだ。

この場に及んでもアホバカな自分が恥ずかしい。顔が赤くなった、ような気がする。

後で看護師さんに聞いたことだが、頭の方にいたのが麻酔医だそうだ。麻酔医からは、これ以上考えたくない、有りとあらゆる恐ろしい後遺症がありうることを長時間説明された。

万に一つの事故、後遺症はあることを覚悟して同意書にサインした。あのときの医師だとは分からなかった。

あっという間に手術着をはぎとられ、タオルを掛けられたような気がする。

口に何か被せられた。麻酔薬だな。でも、眠くならないよ。ああ、観自在菩薩さま……それからあとは何も覚えていない。目を開けたら終わっていた。

今、思うと、病室を出てから、麻酔をかけられるまでの間、私は般若心経を唱えていた。

私は仏教徒ではない。信仰心もほとんどない。それがなぜ般若心経かというと、『枕草子』の中に「経は般若心経」という文があったのだ。

で、教える私が般若心経の「は」の字も知らないのはちょっと、と思って一般人向けの『ガイドブック』を買った。

で、冒頭と最後だけ暗記しようとしたが、結局暗記は出来なかった。だが、概論は何となく分かった。

その後、私の人生は思いがけない展開となる。

癌患者になってしまったのだ。不安と絶望、なんで私がという理不尽な思いと恨みに押しつぶされそうになりながら、手にしたのはこの本だった。

信仰とは関係ない。ひたすら覚えることによって余計なことは考えるまいとと思ったのだ。

他にすることがないから内科入院中に冒頭と末尾は覚えてしまった。

そして……。

手術台に上がるまで無言の通路。私はひたすら般若心経の呪文を唱えていた。(密教の場合は念仏ではなく呪文と言うらしい。私なりの解釈なので間違っているかも知れない)

麻酔で意識を失う寸前、私は呪文を唱えていたことを今も思い出す。

仕事の過程で覚えた般若心経は、余計なことを頭から一掃するという効果を表わした。

他人に勧めようとは思っていない。念仏であれ、聖書であれ、呪文であれ、一心に暗記して一心に頭で唱えていると、雑念が入り込まないのだ。

宗教にはそういう効果があるのかな、と初めて思った。

色鉛筆画を描くことでもいい。俳句を作ることでもいい。ひたすら没頭することで不安を忘れる。ただ、手術台に行く路ではもっと単純なものがいい。

そういう意味では、手術台に上がってからも唱えられる歌とか念仏はけっこう精神的に良いのではないか。

私に「こんなのもあるよ。案外役に立つかもよ」と教えてくれたのは清少納言だ。

これを運命の導きというのか、単なる成り行きか。

コロナ騒動で本屋にも行きにくい今、私は、時折あのガイドブックを広げてしまうのだ。

せっかく暗記したのを忘れるのはもったいない。呪文を唱えてみようか。

宗教心があろうとなかろうと病気になるときはなる。それでも、手術台に上がって周りをさっと医療スタッフに取り囲まれたとき、わたしは、「観ー自ー在ー菩ー薩」と祈るしかなかったのだ。

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