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誰でも本が作れる革命  外山滋比古

ロバートアンリ3


 出版社をつくろうと思ったのは、あと二年で八十歳になるというときであった。若いとき、編集の仕事をしたが、自分の会社をつくって、本を出そうなどと考えたことは一度もなかった。出版社の経営は編集をすこしくらいした人間では、うまくいかないと漠然と感じていた。実際、編集者あがりで出版をはじめた友人たちの成績があまり香しいものではないことも承知していた。気持が変わったのは、仕事のなくなる老人のあわれな姿を見せつけられたからである。

 友人のある教師は、とっくに停年退職、いまは非常勤の講師を細々つづけていた。学校では、若い人で教えたがっている卒業生もいることだし、この古参の非常勤にやめてもらおうということになった。しかし、それを本人に伝える役はだれも引き受けない。ある知人がその損な役を押しつけられた。 勇退を勧告された老教師はよほどおもしろくなかったのであろう。伝えた人の名をあげて、彼に首を切られた、といいふらした。

 もともと非常勤講師は一年契約である。年度末が来れば自然にやめる建前になっている。毎年変わるのもわずらわしいから、自動継続で続けることが多いのである。年度の途中でやめてくれといわれたのでなければ、首になったというのはまったく当らないのである。この老人はもとは聡明な人であったのに、年をとって、欲深になり、そんなこともわからなくなってしまったらしい。あわれ。やめたくないのは教師にかぎらない。企業のトップでも、いろいろの手を使って、居すわりを考え、老害のそしりを招く例はごろごろしている。

 つまり、あとにすることがないから、いまのポスト、仕事にしがみつきたいのである。勤め人は、かりに、あとに目途がなくてもやめなくてはいけないのだが、そのふん切りが難しいから、停年という非情なルールをつくって、古い人間を一掃するのである。

 それがはっきりしてきたのは、近年のことであるから、引け際でやめる人は大きなショックを受ける。そういう退職者たちを見ていて、六十歳で退職する人たちのために、社会は、新しい働き場をつくらなくてはいけない。日本の政治家は浮世ばなれしているから、そんなことは考えたこともあるまいが、もっと雇用、ことに高齢者雇用の増大に力を入れなくてはならない。

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 私か出版社を興そうと思った第一のねらいは自分をふくめて、年をとってから生きがいのある仕事を新しくつくることであった。それには、社員はすべて定年退職者にする。働ける限り、終身働くことを原則とする。ただ給与は、低目におさえる。二交代制にして、早番は、朝から午後一時くらいまで勤務、遅番はそれから夕方まで働くようにする。これなら、かなりの高齢でも勤まるはずで、ベテランの経験によって、りっぱな業務ができるとふんだ。

 年をとった人間が、若いものの仕事を奪うようなことができるわけがない。若い人たちだって、雇用はきびしくなっているのに、どんな理由であっても、年寄りがまぎれこんできたりしては迷惑する。新しく熟年者ビジネスを創らなくてはならない。これまで存在しなかった新しいタイプの企業である。

 私の出版社設立のねらいは、ただ、退職者のための雇用創出ということだけではない。出版社でなくてはいけないと考えたのは、かねていだいていた出版への不満があったからである。ありきたりの出版をするのなら、なにも老人の出る必要はない。私か頭に描いた新しい出版の主な特色をあげれば、

一、従来、若年読者を主たる対象とした本が出版されてきたのに対し、大人向き、中高年読者を中心にすえた出版を目指す。

一、これまでの出版は、本当に読者のためではなく、出版社の利益を中心に考えてきたフシがある。たとえば、小さな活字で、三百ページ近い大冊でないと本らしくないときめてかかっている。いまの読者を考慮すれば、百二十ページどまり、活字も大きく、一行の字詰めもうんと少なくする。一行に四十字も詰まっていては、読みにくくてしかたがない。

一、読者のワン・シッティング(一度に読む時間)が短くなっているから、段落も思い切って短くする。

一、これまでの翻訳は大体において、原著者の方を向いている。読者に背を向け、難解であることを怖れなかった。発展途上国の翻訳である。これを改め、翻訳に読者の方を向かせる。明治以降の翻訳の多くが読者を相手にしていなかったから、新しい翻訳は、過去のほとんどすべてを改訳することになる。大事業である。

一、スタッフはぎりぎりにしぼって、コストの低減をはかる。

 いろいろな人に会って、この構想を打診してみたが、あまり、いい反応は得られなかった。この年で、素人が、難しいとされる出版に手をつけることの不安を口にする人が多かった。ただ、家族が意外に積極的で、やってみたら、ということであと押しをしてくれた。

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 実弟が銀行勤めを終えて、ぶらぶらしているから、ちょうどよい。さっそく、ごくわずかだが、手当を出して、設立準備、手続き関係をすすめてもらうことにした。会社の資本金は、とりあえず三千万円とした。ワンルームマンションを買うくらいのつもりだということである。

 先年から、会社の設立は容易になって、一円でもできるといわれるが、実際には、なかなか厄介なことがある。それをひとつひとつ処理して着々と準備はすすんだ。編集ははじめ、専任一名、非常勤三人くらいからスタートするつもりで、某社を近々停年退職する人を心当てにした。たぶん、二つ返事で来てくれるだろう、とふんでいた。

 ところが、この人が、ダメだった。ほかに当てがあるのではなく、つい最近、やっかいな病気が見つかった。新しい仕事を考えるどころではない、というのである。これには、まいった。大丈夫とふんでいたから、ほかの人を考えてもみなかった。いまさら、おいそれと適任者があらわれるはずもない。

 まっとうな、あるいは、それ以上の報酬を出せるのなら、ともかく、半人分にすこし色をつけたくらいでは、知らない人をさがす気にもなれない。ひとが頼めないのなら、自分でやるか。いったんはそう考えたが、なにせ、年である。五年つづけられる保証もない。目をつぶって飛び出すのは、いかにも乱暴である。
 何日も悶々と考えた。こういうことをいつまでもつづけては体にもよくない。そう思って二年ごしですすめてきた会社設立を断念することにした。

 社名まで考えてあったのに、残念であったが、編集の柱がなくては、出版社は建たない。大黒柱はだれでもいいわけにはいかないのである。会社をつくるということを、それとなく、折りにふれて口にしていただけに、やっぱり、できませんでしたというのが、いかにもふがいなく、口惜しかった。

 やはりそれがひびいたのか、体調を崩して寝込んでしまった。さんざんである。しかし、ものは考えようだ、とこのごろは割り切っている。いい加減なスタートをしてすぐ頓挫するより、しない方がいいにきまっている。

つくった会社がすぐつぶれるようなことにでもなれば、この程度の小病ではすまなかったにちがいない。やはり、あきらめて、よかった。そう思って自らを慰める。さらに考えれば、この失敗までの道行は結構おもしろかった。新しいことを創めるというのはたいへんだが、われを忘れさせる力をもっている。

 二年半、けっこうたのしい夢を見た。はかない夢であったが、老いの身に、不思議な力を与えられた。そう思えば、未遂の会社設立も笑って忘れることができる。

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 それから一年がたった。ある朝、やはり出版をしよう、という考えがインスピレーションのように、よみがえった。ただし、出版社をつくるのではない。自主、自費出版である。もちろん売れることは考えないが、後に残る本を出したい。自分の本も出すが、すぐれた仕事であれば未知の人の本を出版するのである。そのために、これまで細々と蓄えてきた私財を惜気なく使う。そうなれば、緊張する。うかうかしていられない。

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