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アフガン帰還兵の証言  三浦みどり

ロパートアンリ1


さらに悲劇的になっていくウクライナ戦争。その悲惨な戦況が日本のメディアでも報道されていくが、なにやらその報道の姿勢は遠い地で起こった悲劇が厚化粧されて、専門家と称する人たちを登場させて興味本位の平板な腐ったような解説がなされる。

スヴェトラーナ・アレクシエーヴィッチ著三浦みどり訳「アフガン帰還兵の証言──封印された真実」が、日本の読書社会に投じられたの一九九五年である。いまこの本は絶版状態で手に入らない。この本は、まさに現在起こっている「ウクライナ戦争」の真実を伝えている、いま私たちが読まなければならない本である。

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 アフガン帰還兵の証言   三浦みどり


訳者まえがき

「アフガン帰還兵の証言」の一部が、コムソモールスカヤ・プラウダ紙に掲載されたのは一九九〇年二月、アフガニスタンにソ連軍が侵攻してから十年後、正式な撤退は八九年だから、アフガニスタンへの介入をやめてわずか一年後である。九〇年七月に全文が月刊誌「民族の友好」に掲載され、ここに訳出したのはその後、単行本として出されたものである。

 本書には、七九年末のソ連軍のアフガニスタン侵攻後の十年間に、ソ連各地からアフガニスタンに送られた兵士たち、息子や夫を失った女性たち、従軍していた女性たち(医療班、戦闘員、事務など)の告白が集められている。ベラルーシの女流作家スヴェトラーナ・アレクシエーヴィッチの第三作目のドキュメンタリーである。

 その前の二作で、第二次世界大戦で従軍していた女性兵士や看護婦たち、当時子供だった人たちの戦争体験をカセットテープ数百本分も聞き書きし、「もう戦争のことは書きたくなかった」という作者は、まったく予期せぬかたちでアフガン戦争に関わる場面に遭遇する。本書は、八六年のその場面から始まる。アフガニスタンにソ連軍が突然侵攻してから七年目。戦場からははるか遠く離れたベラルーシの片田舎でのこと。アフガン戦争で戦死した若者の遺体が家族のもとに運ばれてきたのだ。

 アレクシエーヴィッチは八八年に、公式の取材団の一員としてアフガニスタンを訪れた。モスクワでは他人事だった戦争が、アフガニスタン行きの飛行機が発着するソ連南部のタシケントで急にその素顔を現し始める。著者は想像を超えた事実に次々に突き当たり、この作品の読者となるソ連の一般国民と同じように愕然としつつ、アフガン戦争で心身に傷を負った人たちの聞き書きを始める。

 戦争が始まった後、政権はゴルバチョフの手に渡り、ペレストロイカ(改革)で「グラスノスチ(情報公開)」が政府の方針となって、報道の自由が許され、アフガン戦争に対する一般の評価も「アフガニスタンの近代化を助ける同盟国の支援」から「政治の誤り」「犯罪的な人殺し」へと変わっている。それは帰還した兵士たちにもはねかえる。戦争体験を経て自分自身も変わったうえに、国も変わってしまって、少年たちは過去から二重に断絶されてしまう。

 ソ連時代にはこのようなドキュメンタリー文学はありえなかったし、ソ連の読者もこうしたかたちで自分を観察しなおすことには慣れていなかった。「そんなことを書いて何の意味があるのか、無駄だ。自分たちをそっとしておいてくれ」と電話をかけてくるアフガン帰還兵の声で各章は始まっている。

 聞き書きを進めていくうち、この戦争で深く傷つけられた少年たちに対する自分の世代、大人たちの責任、罪の深さを痛感した著者は、「これが全てだというつもりはないが、書かないではいられないことだけを書く」と、公式の文書では救われることのない一人ひとりの生命の行方を尋ね、全てを集団で判断し、決定するのではなく、個人個人がそれぞれの責任をとることを、自分の本当の姿を知る勇気を持つことを求めて作品をまとめあげた。作品の発表から三年もたって、九三年六月に、アレクシエーヴィッチは証言者の二人から「名誉棄損」で裁判に訴えられ、同年十二年に訴えの一部を認める判決が下った。

 しかし、本書に書かれたことに酷似した状況が、ロシアの南部国境近くのチェチェン共和国で起きている今、アレクシエーヴィッチの聞き書きはロシアの内外でますます読者を増やしている。

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訳者あとがき

 本書の原題を直訳すれば「亜鉛の少年たち」となるが、「亜鉛の棺になった少年たち」といった方が作者が込めた意味に近いだろう。

 一九七九年末にソ連軍が突然アフガニスタンに侵攻してから十年に渡って、ソ連の各地から毎年十万人もの少年たち(ソ連の徴兵年齢は十八歳)が「国際主義の義務を果たすための兵員」としてアフガニスタンに送り込まれ、その戦死者たちが亜鉛張りの封印した棺に納められて家族の元へ送り返されてきた。この亜鉛張りの重い箱は封印されていた。暑い国からの遠距離の輸送、広いソ連国内の輸送という事情もあるが、何より、戦争の実態が国民に知られてはならなかった。

 どうしても開けるならドライバーかバールでこじ開けるしかない。棺には見張りがついていたが、見張りのいないすきにこじ開けて中を見た人は気を失ってしまったという。そのような死、アフガニスタンに送られた者たちの死は長いこと隠されていた。亜鉛の箱は外から木の棺で覆われ、埋葬は夜、人目につかぬように行われた。墓碑銘にはどこで亡くなったかは記されず、「死亡」とするだけで「戦死」と記すことは許されなかった。

 戦況はソ連にとってはかばかしくなく、戦死者の数は増え続け、八六年頃には政府部内でひそかに撤退が検討され始める。平穏な日常から異国での戦争にいきなり放り込まれ、平和時には知らずにすんだはずの人間の残酷さ、醜さを自分の中にまで見い出さざるを得なかった少年達は国に帰っても戦地の実態を語ることは許されない。学校やその他の集まりに招かれて「アフガニスタンでソ連軍は英雄的に支援活動をしている」という話をさせられる。

 ソ連の人にとってアフガンは戦場というより「海外」であり、海外旅行が自由でなく、消費物資の不足している国内の人にとっては、アフガン帰りのイコール外国製品を持ち帰ることだった。国に帰って、そうした見当はずれな期待、羨望、無理解に囲まれ、少年たちは自分でも対応しきれない内面の変化を「亜鉛の棺」のように自己の内に封印しておくしかない。外見上はアフガンに行く前と変わりなくても、深い傷がうずいている胸のうちは、木の外箱で覆われた「亜鉛の棺」に封印された真実と同じだ。

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 十年続いたアフガニスタンへの軍事介入に失敗し、ソ連軍が正式撤退して半年余りでこの作品の一部がベラルーシの新聞に載った。その後さらに九〇年の二月十五日にソ連の全国紙コムソモールスカヤ・プラウダに「亜鉛の少年達──アフガニスタンの体験を持つ者達の独白」(本書のうち八人のもの)が掲載された。これによってアフガン戦争の真実が一般の人々の眼に触れることになった。政府や軍を批判する表現を避けた「ドキュメンタリー」に慣れていた読者にはショックが強すぎた。

「やっと癒えかけた傷に触れないでくれ」「わが国の少年達に『殺人』の汚名を着せるな」と手紙や電話での激しい抗議、意見、訴えの声が洪水のようにおしよせアレクシエーヴィッチの家の電話は鳴りっぱなしで、彼女はどうしていいかわからなくなった。このような普通の兵士の本音に触れることは読者にとって初めてだっただけでなく、「グラスノスチ(情報公開)」の政策がとられる前には発表することもできなかったわけで、書く側もそうした経験を積んでいなかった。

 アレクシエーヴィッチは実名を載せてはいけないと理解し、その後、「前述の記事に実名を載せて迷惑をかけた」と「文学新聞」で謝罪している。しかし「やっと真実を知ることができた」と感謝する声も多かった。

「アフガン戦争は政治の誤りだった」「国がまちかっていたのだ」と公言するのが当たり前になってきた風潮の中で、政府は国民が真実を理解しようとする間も与えず、忘れ去ってしまうことを奨励する。封印された亜鉛の少年達の真実が知られないまま、時の流れに任せて人々の意識から消されようとしていた時、この作品が発表された。

 ところが一九九二年の六月にこれを脚色したものがベラルーシの劇場で上演され(劇が終わると満員の客席は総立ちになり、沈黙したまま長いこと去らなかったという)、ベラルーシのテレビで放映されて、ある戦没兵士の母親は「作品に出てくる発言は事実に反する、実戦部隊の将校だった息子が泣くはずはない、勇敢な将校として息子は愛するソ連のために死んだのだ。アレクシエーヴィッチが書いた恐ろしい真実なんかいらない」と、本書の一部を載せたベラルーシの雑誌と作者を名誉棄損で訴えた。

 この時は原告側か裁判の審理に出廷せず、予備面談だけで終わったが、半年後に別の証言者から再び名誉棄損の訴えが起こされた。
 作者は母親たちと話し合いたいと法廷に行く。アフガン戦争で息子を失った毋親たちからは「あたしたちの子供は破滅させられたのに、あんたは、それをネタにして稼いでいるのよ」「軍隊に行ったこともないくせにうちの息子が戦死していた時、あんたは大学の机にでもしがみついてたんだろう」「八つ裂きにしてやる」などと激しく罵声を浴びせかけられる。

 ベラルーシの作家ワシーリーブイコフ(小説「死者に痛みはない」の作者。小説「災いの印」で既に旧ソ連時代に革命の暴力性を告発している)など第二次世界大戦に出征経験のある作家達を初め多くの人々が裁判に反対して法廷に投書する。

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 ある医者は「数百人の普通の人たち──紛争地域の難民やその現場の人たち──の証言を否認することはできない。そのかわり、そういう証言を取材したジャーナリストを『とっちめ』『身の程を知らしめ』『口を封じる』ことはできる。アレクシェーヴィッチも口をつぐむし、時代の犠牲者は証言しなくなる。その時、我々の子孫に何が残るのか。騒々しい勇ましい行進曲や勝利の報告が大好きという連中の甘ったるいひそひそ話か。こんなことは経験ずみのはずではないか」と書いている。

 原告の側に立つつもりで法廷に来たアフガン帰還兵の一人も、裁判の二日間傍聴席やロビーで語られていることを注意深く聞いた後、『アレクシェーヴィッチの敵であった者の告白』として、「アレクシェーヴィッチを責めるとすればアフガン戦争を始めた愚か者によって破滅させられた青春に対する愛情が感じられないということだけだ。この本を読んだ者が手の平を返したように私達に接するようになっても責めようとは思わない。あの戦争にかかわりを持たないで済んでいた連中もアフガニスタン戦争の「恥部」を知ることになるのだ。我々は殺りくの道具という役割を演じたことを再考すべきであり、それぞれ各人が悔い改めに至るのでなければならない」と投書を寄せている。

 結局、一九九三年の十二月八日、母親の訴えのうち「事実の歪曲である」という部分は認められ、コムソモールスカヤ・プラウダは謝罪の記事を求められるが、名誉棄損の訴えは却下。もう一人の原告、つまり帰還兵の名誉棄損の訴えは認められアレクシエーヴィッチが国庫と原告に裁判費用を払うという判決が下された。その直後に作者は「『亜鉛の少年たち』の裁判」として裁判の記録をまとめ、「民族の友好」誌(一九九四年五月号)に発表している。

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 一方、アフガン撤退から数年しか経っていない今、ロシアの南部国境チェチェンから「亜鉛の棺」が国内に運ばれて来るのを見て、「名誉棄損だ」とアレクシエーヴィッチをなじった母親達も「政府や軍があんな事をするとはあり得ないと信じられなかったが、あれは事実だったのだ」と認め始めている。アフガン介入当時と違って、ペレストロイカ(改命)を経て、社会主義ソ連が崩壊した今、母親たちは積極的に息子達を取り返しに出かけて行き、独自の働き掛けをしている。

 ツ連のテレビは、逮捕された容疑者やインタビューを受けている人の顔をテレビ画面に平気で大映しにする。ソ連国内の報道におけるプライバシー軽視の悪癖がアレクシェーヴィッチにもあっただろう。だが、軍やベラルーシ政府が一兵士の「名誉棄損の訴え」を裁判にして、「忘却の邪魔をする作家」つぶしに、生活にも困っているアフガン帰還兵を利用したことの方が気になるところだ。

 アレクシェーヴィッチ(ベラルーシはヴィッチで終わる名字が多い)が裁判にかけられたベラルーシはポーランドに西の国境を接する旧ソ連構成共和国の一つで、言葉もロシア語に似たベラルーシ語とロシア語が使われている。

 第二次世界大戦でツ連に攻め入るナチスドイツは西部国境沿いの街ブレストを通り、ブレストから首都ミンスクまでは主戦場となって住民は避難する間もなく多くの村で村民全員が納屋に閉じ込められ、老人から赤ん坊まで焼き殺された。ナチスの占領下にあっても沼沢地の地の利を得て、粘り強くパルチザン活動が繰り広げられ、ベラルーシの国民はこれを共通体験として持っている。

 チェルノブイリ原発事故の際、放射能で著しく汚染されたプリピャチ河、ゴーメリ州はベラルーシの南部にある。ナチスによる占領や原発事故と、いつも被害者となってきたベラルーシではソ連崩壊後もロシア国内より旧体制復興の兆しが強い。

「戦争で人間は自分を知ります。以前には思いもかけなかったような自分を、殺したくなり、それに慣れる‥‥これは『戦闘本能、憎しみ、破壊の本能だ』といわれます。そういう生物的な人間を私達は全然知りませんでした。あまりに思想や言葉の力ばかり信じ過ぎて、自分の中にあるそういう部分を十分に認めてこなかったからです。そういう人間がわが国の戦争物、恋愛物いずれにも不足しているように思います』とアレクシェーヴィッチは言うが、加害者でありうる自分を見つめ直すことを容易には受け入れ難いベラルーシでもある。

 ベラルーシだけでなくロシアの作家達も、この裁判では一貫してアレクシエーヴィッチを支持している。それはべラルーシもロシアも改革に行きづまり、旧ソ連時代の支配勢力が力を盛り返しつつある今だからこそ、三年前に本が出た頃には不可能だった作家つぶしの裁判ができたのだ、と作家たちが感じ取っているからだ。

 「アフガン帰還兵は、地獄の様な体験を心の内に封印させられたまま四つの方向に分かれて行った。一つはあの世へ、もう一つは車椅子や杖をついて地下道へ物乞いに、第三は戦闘の経験を買われて国内の治安維持のための特殊部隊に、第四は犯罪をおかして収容所や監獄に。それ以外の者はほんのわずかだ」という記事がグラビア雑誌アガニョークに載ったことがある。しかし、「亜鉛の棺」に封印された少年達や娘たちの真実はもっと多様で、彼らは一塊にくくられることに反発している。

 国の政策で行われた戦争で心身に傷を負った者達が切り捨てられて行くとき、自分の戸惑いや迷いを認めながら、あえて現在進行中の歴史を書き留めようとするアレクシエーヴィッチが、国内の読者もまだ慣れていない、実体験者一人一人の聞き書きというこれまでになかったジャンルを守って行けるならば、それは、再び若者達を犬死にさせない道に通ずるのではないだろうか。

 アレクシエーヴィッチの最初の二作、『戦争は女の顔をしていない』(一九八四年)、『ボタン穴から見た戦争』(一九八五年)は、それまでの戦争物とはまるで違い、「戦争物は男の専門だ」と考えていた人達には気に入らなかったという。「戦争は何より人殺しであり、戦争では普通の人間も人を殺してしまえるのだという恐ろしい事実を考えたい」という、右にも左にもイデオロギーに偏らない(それ故、右からも左からもたたかれる)アレクシエーヴィッチのことをインタビュー記事で初めて知ったとき、「英雄でも何でもない普通の人の体験記を読むことには慣れていないソ連でも、とうとう澤地久枝のようなドキュメンタリー作家が出てきたのか」と大いに嬉しかった。

 とくに反体制的に動いていた人ではなく、めだたない作家なのに、アレクシエーヴィッチの作品の意味を汲んでこの本の紹介を支持してくださった江川卓先生初め、本にするのを助けてくださった方々に厚くお礼申します。またこうした作家とそれを取り巻く状況を注意深く見つめる眼が養われたとすれば、それには澤地久枝さんとの仕事があったということも記して感謝いたします。

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 三浦みどりさんがその本の最後にしたためた澤地久枝さんは、岩波現代文庫「戦争は女の顔をしていない」(この本も訳者は三浦みどりである)の解説で、『著者と訳者のこと』というタイトルで、三浦さんの最後をこう書いている。

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 三浦さんは『戦争は女の顔をしていない』の翻訳を終えたあと、活字にならないむなしい時間を送っている。群像社との縁は深く、彼女も出版社もよくねばったと思う。いやアレクシェーヴィチ自身、完成した原稿が出版されるまで二年間待っている。さらには『コムソモールスカヤ・プラウダ』に発表した文章に対し、取材を受けた母親たちから告発され哉かれる事態もあった。
 彼女のノーベル文学賞受賞を誰よりも喜ぶはずのみどりさんは、もういない。三年前、二〇一二年十二月に亡くなっている。

 葬儀は多摩葬祭場であり、夜ふけて不安になるほど暗く遠い道を多摩墓地近い祭場へ行った。アレクシェーヴィチがその三年のちにノーベル文学賞をおくられると誰も思わなかったはずである。
 知りあって数年後、三浦さんは結婚して奥井みどりになっている。「どんな人?」と聞いたら、「こういう人と結婚したらすばらしいとずっと思っていた人」と言う。理学方面のロシア語専攻の人だった。
 
 その夜、喪主はしょんぼりしていて顔を見られない。三浦さんは手当て療法にこっていて、わたしも一度だけその「道場」に参加したことがある。告別の席には療法のリーダーの姿もあった。
「みどりさん、ひどく痩せたので心配していましたが‥‥」
「医者へ行けと言っても、そんなこと言うなら離婚すると言われて。わたしはなにもできなくて心残りです‥‥」
 腹部のガンだった。

 三浦さんがわたしとどんな旅をしたのか、ほんのすこし『私のシベリア物語』と『ボルガ いのちの旅』に書いた。三度目の心臓手術をひかえた一九九四年、NHKテレビの仕事でボルガ川を訪ねたわたしは、移動中気がつくと、みどりさんの手がわたしの背中にあてられていた。わたしたちはポーランドのワルシャワ、トレブリンカ、アウシュビッツ、クラカウ、当時のチェコスロバキアへも行った。
 絶滅収容所といわれる人気のまったくないトレブリンカでは、細い骨がまだ点在する砂地で小さな松ぼっくりをひろい、それはいまもすぐそばにある。それは、ひとの命のはかなさを暗黙裡に語っている。


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