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D坂シネマの夜が更けて 山崎範子

 中古とはいえ、16ミリ映写機を買った日の喜びは忘れられない。北辰SC10、アームがぐるりと回る仕様で、スクリーンと合せて二十万円ちょっと。二万円のズームレンズは映写機購入祝いのオオギからのプレゼントだった。これでもう十キロ以上ある映写機を文京区から借り出して運ぶ苫労から解放されたのだ。

 D坂シネマ(団子坂マンションの一室だったので)と称して自宅で映画会を始めたのは『谷根千』を創刊して数年後のことだ。子どもの通う保育園の映画会で、映写機を操作する保母さんに会い、「あら、誰でもできるのよ」と教えてもらって、さっそく映写機操作技術講習会に申し込み、三日間の講習と五百円の費用で認定証をもらった。これさえあれば自冶体や都立図書館のフィルムライブラリーから16ミリフィルムが借り出せる。モラリス「赤い風船」や「白い馬」、カレルーゼマン「悪魔の発明」、虫プロの「やさしいライオン」、岡本忠成、おこんじょうるり」「南無。病息災」、カナダやチェコや上海のアニメ作品なんかを借りてはIDKのマンションでカタカタ映して楽しんだ。自分が見たいものを映していたが、そのうち近所の子どもが集まるようになり、夕飯前の忙しい時間に子どもを頂ける場所として重宝されるようにもなった。

 子どもが小学生になり学童保育に通い始めた。指導員の野中賢治さんから「ここで映画会をやりませんか」と声をかけてもらった。三十平米もない狭い家にひしめいて映画を見ている現場を目撃し、救いの手を伸ばしたんだと思う。学童保育の千駄木育成室の名をとって「千駄木キネマ」と改め、初めてプログラムも作った。

 それから十二年間に四十八回、子ども、ときには大人相手に千駄木キネマは続いた。ほとんどは都立日比谷図書飴のライブラリーから借り出すフイルムで、アニメのほかに「チャップリンの黄金狂時代」、小栗康平「泥の河」、東陽一「絵の中のぼくの村」もやった。近所に住むアニメ作家を招いて自作の上映会もした。暑い夏は公園にスクリーンを張って野外映画と夕涼み会をした。

 子どもが子どもでなくなって、「千駄木キネマ」は私の手を離れてしまったけれど、一方で谷根千工房の事務所か団子坂マンションの半地下倉庫に移ったのを機に、あらたな「D坂シネマ」が始まっていた。

 団子坂上に鮹松月という和菓子屋があり、熊沢半蔵という主人がいた。『谷根千』4号の和菓子特集で話を聞きに行き、ご主人が8ミリアニメを作っていることを知る。隠れ家のような部屋で作品を見せてもらったときの驚き! 熊沢さんの生まれ育った浅草の町が、少年の目で伸びやかに、ユーモラスに映し出される。

 まったく知らずにいたが、キネマ旬報社の監督全集に「期待に応えうる個性ゆたかな作品を、長期間にわたって作り続けている」作家として紹介されてもいたのだ。

 さっそく谷根千工房主催で「熊沢半蔵映画祭」をする。みんなに観て欲しくて、会場を変えて何度も映した。オリジナルフィルムしかないので、映画会には必ず熊沢さん自ら8ミリ映写機をまわしてくれた。その熊沢さんが、一九九七年に七十二歳で亡くなり、フィルムの行き先がとても気になった。数年ののち、熊沢作品の大部分が京橋のフィルムセンター所蔵となった。

 谷根千工房が団子坂マンションに移ってから、仕事場にスクリーンを張って、モリとオオギと二人でヒマがあれば記録映画を見た。モリが関係する「地方の時代映像祭」や「ゆふいん記録文化映画祭」関連の。お勧めを見たりもした。あるいは、『谷根千』34号の都電特集のときに都電を借り切って乗車したあとに東京都が制作した都電のニュース映画を、グァテマラからやってきた友人との夕食会にグァテマラの保健衛生の映画を、東欧に環境調査に行く友人にチェコスロバキア時代の地理映像を探してきて映したりした。とにかく映写機を回したいだけだったかも知れない。

『谷根千』を発行していることで、「これってどこだかわかります?」と地域の映像を見てもらいたいという機会も増えた。白山にお住まいの岡田正子さんから一九一八年にペンジャミン・ブロツキーが撮影した「Beautiful Japan」をみせてもらったときも驚いた。こんな映画が残っているんだ。岡田さんはその後十数年かけて調査し、少しずつ映像の背景を明らかにしている。

 五年前、谷根千工房に若手スタッフのカワハラが入社し、町の催し「谷中芸工屐」の実行委貝にもなった。「ヤマサキさん、D坂シネマを芸工展でやろうよ」という。一回目は「谷根千と東京を探る」をテーマに四日問で十九本。それから毎年「産業と谷根千」「日本の技、雅の世界」「生き方と仕事をめぐる」と真面目そうなテーマを決めては、誰も見たことのなさそうな映画を探してきた。

 この間に、会場は谷根千工房の事務所から千駄木五丁目にある旧佐野邸(現・社団法人在宅看護協和会)の蔵に移った。築百年になる蔵の保存活用を手伝って縁が生れ、その蔵を今はNPO映画保存協会が借りている。公的支援から洩れた映画フィルムの保存に取り組むこの若手グループとは、熊沢フィルムをフィルムセンターへ橋渡ししたときに知り合ったのだ。今では「D坂シネマ」の強力助っ人である。

 公共ライブラリーには、購入したり企業から寄贈されたまま、貸し出し記録のないフィルムもある。何か映っているかは見てのお楽しみで、ヒマを見つけて「D坂シネマ」のための試写会をする。文京区や台東区のライブラリーにもおもしろい映像は山ほどある。「二十年後の東京」(一九四匕年、東京都開発局)を二十数年前に見たとき、これはみんなに見せなくちゃと興奮した。そういえば、「D坂シネマ」の始まりは子どものアニメとこの記録映画だったっけ。

 さて二〇〇八年、「D坂シネマ」のメイン作品は解説付きの「Beautiful Japan」なのだ。

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草の葉ライブリー                          山崎範子「谷根千ワンダーランド」                  三月刊行

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