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目を覚ませと呼ぶ声が聞こえ     第12章(その三)



           目を覚ませと呼ぶ声が聞こえ
 
             第12章(その三)

 宏子は依然としてぼくのなかを大きく占領していた。それは亜希子とベッドのなかにいても同じことだった。熱い彼女の愛撫をうけ、情事の汗をとかしあっても、ぼくのなかにいる宏子は少しもゆるがなかった。かえって宏子はさらに白い頂となって立ちあらわれてくる。宏子は遠ざかるどころかより近づいてくる。北の国めざしてのその旅は、なにかどろ沼におぼれていくような亜希子との情事から遠ざかりたいと思ったのだ。
 小岩井農場を最初の宿にすると、遠野に出て、ぐるりと海岸をまわり久慈の旅館に泊まった。それから青森に出た。そこから連絡船に乗って、北海道に渡り、かねてから一度訪ねたいと思っていた積丹半島で一泊した。そこまでですでに六日もかかっている。毎晩その地の地酒と土地の料理をついばみながらの旅だった。しかし肝腎のレポートのほうはまるではかどらない。書く意欲がわいてこないのだった。旅をしながらそれと無縁のレポートを書き上げる芸当などぼくにはできないことだった。
 やはりものを書くには、一か所に立ち止まって言葉を掘り起こしていかなければならないのだ。そう悟ると最後の目的地である稚内まで飛行機で飛び、青いオホーツクの海をみおろす小さな旅館に逗留した。ところがそこでも書けないのだ。イメージがすぐに底をついてしまう。美しい自然、海の幸、山の幸が並ぶ料理、それにうまい酒と心地よい温泉。それらはイメージを奪いとっていくものだった。人を創造へとかきたてるどころか、むしろそれを削いでいくのだった。
 ぼくはやっと気づいたのだ。東京だった。ぼくのあの安アパートだった。そこでしか書けないのだ。そう悟った次の日に、飛行機を乗り継いで、東京に戻ってきた。あと三日を残すばかりとなっていた。もともと追いこまれなければ書けないタイプの人間だったが、しかし東京では水をえた魚のように生き生きとイメージがわきたってきて、さらさらとペンは走った。うんざりするばかりに散らかった狭いわがアパートで、自由ケ丘や渋谷の喫茶店で、どんどんペンは走り枚数がふえていく。「新雑誌創刊の一試論」と題した三十枚ほどのレポートを熱病にかかったような興奮のなかで一気に書き上げてしまった。
 古田と会ったのはその日の夜だった。古田はぼくをそのビルの最上階にあるレストランに連れていった。
 窓際の席に着くと、たずさえてきたぼくのレポートをテーブルの上にのせてぱらぱらとめくっていたが、
「こいつはあとで目を通しておくよ」
 と言ってかたわらにおしやった。なんだかそれはどうでもいいと言わんばかりだった。その席から光が無数にまたたく東京の夜景が見下ろせた。眼下に広がるその光景に目をやりながら吉田が歌うように言った。
「ここにはありとあらゆるものがある。悪徳があり、野望があり、犯罪があり、成功があり、暴力があり、倒産がある。ありとあらゆる職業があり、そこにくらいついている蟻の大軍が右往左往している。恋愛があり、情事があり、離婚があり、殺人だってある。こぎれいなマンションのかたわらにおそろしく汚れた木造のアパートが立ち、きんきらきんの高層ホテルの下にあやしげなピンクのラブホテルが立っている。安酒場があるかと思うと王宮のようなクラブがある。この都会の麻薬を一度味わうとなかなかそこから抜けだすことができないものだ」
「そうですね」
 とぼくはおだやかな気持ちで相槌を打った。この男に抱いていた敵意はもうすっかり消えていた。この前はぎらぎらと野望にひかっていたような古田の視線も、この夜は別の印象を受ける。
「明日、これからわれわれの拠点となる所に案内しよう。芝浦の岸壁に立っている倉庫なんだよ。ちょっとした体育館のようにだだ広い建物でね。そこをしばらく借り切ることになっている」
「そこが編集部になるのですか」
「そう。編集部だけでなく製作の機能を全部いれてしまう。スタジオなんかもね。それに公開編集会議とか、トークショウとか、ちょっとしたコンサートもできるような空間もつくる。そこにグッズショップとか喫茶店とかカレーハウスといったものも入れてしまうんだ。その殺風景な倉庫街から、新しい流行の波をひきおこす実験をやってみたいと思っているんだ」
「それは面白いですね」
「君は明日から人間狩りをはじめなければならないな。そこらにころがっている才能じゃだめなんだ。どんなに高いギャラを支払ってもいいから一流を集めるんだ。まずアートデレクター、エデイター、カメラマン、ライターと、これから大部隊の兵隊をかかえるその頭になる七人だね。七人の侍だよ。あの映画の通りだ。あんなふうにして人材を集めてくるんだ。戦いに勝つには一流をそろえなければだめだぜ」
 新雑誌の製作は三チームによって作られるので、スタッフの数が膨大になる。そこで専属の社員は一チーム二、三人にとどめておいて、あとはすべて外部のスタッフで構成しようということらしい。そうすることによって製作コストを節減できるばかりか、より多くの才能をかかえることができるからだろう。三つのうち、すでに二つのチームはほぼ陣容を整えて動きはじめているらしい。一つは上野という四十五になる男が、もう一つは岩動という三十八になる男が、それぞれのチームの指揮をとっているという。そして残るもう一つのリーダーがぼくだというのだ。
「三チームの編集長の年代を、四十代、三十代、二十代とした。まあ君は二十をわずかに越えたのだが、たいしたちがいはない。そんなふうに異なった年代の人間をトップに据えるのは、それぞれの世代の感覚や思想やスタイルを全面に出そうというわけだよ。だから君が担当する版は、君の個性を全面に打ち出せばいい。雑誌の個性というのは集団で出来上がるものではないんだ。面白いことに、しかしそれは恐ろしいことでもあるが、たった一人の編集長によってきまっていくものなんだ」
 またもやこの男はぼくを驚嘆させるのだった。あまりのショックでちょっと言葉も出なかった。
「ぼくが編集長ですか」
「そうだよ」
「しかしぼくにそんな力があるんでしょうか」
「情けないことを言うなよ。おれは三十前にすでに三つの雑誌を作っている。もっともいずれも一年ももたなかったがね。しかし三十のときにだした《木曜島》という雑誌は成功した。あれはいまでも続いているだろう。三十ぐらいになるとようやく世界がみえてくるんだな。それまではただがむしゃらに走るばかりだった。みっともなく転倒してはあわてふためいていた。しかし三十を越えると、退くことがわかっていくんだな。さあっと迂回したり、ぐるりと遠回りすることも知っていく。いわば人間がずるくなるわけだがね。しかし現実というものが一筋縄でいかない以上は、おれたちもまた利口に立ち回っていかなければならない。そういうことがわかってくる。ようやく付け焼き刃ではない本物の力もついてくるんだろうな。君もようやく本物の仕事をはじめる年齢にたっしたわけだよ。君の時代がこれからはじまるわけだ」
「しかし百万を売る雑誌をつくる力なんてぼくにはありませんよ。都会生活はわずか十万部程度でしたし。しかもぼくの担当するページはグラビアだけでしたし」
「おれの目は節穴ではないよ。瀧口さんから君を紹介されて、君の都会生活での仕事を全部見たんだ。君の作ったページのほとんどに目を通してみた。なかなか面白いと思ったよ。なかなか鋭い創造力をもっているし、造形する力もたしかだと思った。君に賭けてみようと思うだけの仕事を君はしているんだよ」
 この男はぼくの敵だった。ぼくは敵の動きを探りだすために放たれたスパイだった。それなのにずるずると崩されていく。なにか大きな力でぐいぐいと引きずりこまれていくのだ。
「ぼくにはどうしても吹っ切れないところがあるんです」
 と不意に口をついて出てしまった。こんなことを口走るなんてすでにもう敗北を物語っているようなものかもしれなかった。
「吹っ切れないとは?」
「都会生活社はどうなるんでしょうか?」
「瀧口さんはなにも言っていないのか」
「あの人はまだなにも話してくれません」
「だったら、おれもいまはなにも話せないな」
「噂通りに村田書店に買収されるということでしょうか」
「そのことはいずれわかることさ」
 それは肯定したことなのだろうか。古田は揺れ動くぼくの心を察したかのように、
「君は瀧口さんに感謝しなければいけないな。君をもっとも優秀な人間としておれのもとに送り出したんだ。君はいわば瀧口さんによって育てられた瀧口さんの弟子だ。君のなかに三十年間の都会生活の歴史が流れこんでいる。君のなかに流れているその歴史を、今度は新しい雑誌のなかに流しこめばいいんだよ。たぶん君には悔しい思いがあるにちがいない。都会生活をつぶしたくないという思いもあるにちがいない。そういう悔しさや屈辱感を新しい雑誌のなかに怒りとともに投げこめばいいんだ。それがほんとうの復讐ということになるんじゃないのかね」
 その翌日、久しぶりに都会生活社にいった。一歩社内に足を踏み入れてみると、慣れ親しんだ空気が一変していることに気づいた。みんなのぼくに向ける視線がおかしいのだ。冷ややかで、敵意さえこもっている。これは気のせいなのだと思おうとしたが、とりつくろっている表情の下にあきらかに敵意とさげすみの感情がながれていた。きっと留守のあいだにぼくの噂でもちきりだったにちがいない。敵に身売りをした裏切り者として。
 刺が突き刺さるような雰囲気のなかで、ぼくは机のなかを整理したり、新しい職場で使う文房具などを紙袋のなかに入れたりしているうちに、いままでぼくの住居であったようなこの編集部がひどく澱んでいることに気づくのだった。それどころか腐敗した空気さえただよっている。そんな空気のなかで、ぼくはしきりに、溌剌とした情熱と高揚した活気がみなぎっている新しい編集部を思うのだった。
 どうせぼくは裏切り者だった。だれもがそんな目を向けるならば、徹底的に裏切り者になってやろう。そう居直ってみると、古田が言った復讐ということの意味がわかってくるような気がした。ほんとうの敵はだれなのか。復讐するとはどういうことなのかということが。

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