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おいしいですよ皇后さまは石牟礼さんにサンドウィッチを取り分けてくれた

眼差しで通じ合ったふたり  米本浩二


 2月下旬、熊本市の作家、石牟礼道子さんを訪ねた。2000年ごろからパーキンソン病を患っている。体が動きにくくなる神経難病だ。調子がいい時は来客と会話を楽しむ。
 私が訪れた午後、石牟礼さんは椅子でくつろいでいた。新聞の切り抜きを読んでいる。頃合いを見て私は、「(昨秋会った)美智子さまはどんな方でしたか」と尋ねた。
「感受性が柔らかい。話していると、お互いの心が浸透しあうのです。こんな方をお嫁さんにした方は幸せですね」と即座に返ってきた。

 昨年、石牟礼さんの周辺はあわただしかった。5月の福岡・水俣展で、おそらくは最後になるだろう講演をした。秋には代表作『苦海浄土』を書いた熊本県水俣市の家が老朽化のため取り壊された。最大のトピックは「西のみちこと東のみちこが会いました」と石牟礼さんがユーモアたっぷりに振り返る、皇后さまとの一連の交流であろう。

 発端は昨年7月末、東京であった社会学者の故・鶴見和子さんをしのぶ山百合忌。石牟礼さんは初対面の皇后さまと隣同士になった。
「おいしいですよ」。皇后さまは体の不自由な石牟礼さんのために、サンドイッチやすしを取り分けてくれた。2時間余りの会食の最後に皇后さまは「今度、水俣に行きます」と告げた。「全国豊かな海づくり大会」出席のためだ。この時点で水俣病胎児性患者との面会は決まっていない。

 熊本に帰った石牟礼さんは手紙を出した。大会を控えた秋のこと。直筆の下書きなどで、内容はほぼ正確に分かる。以下、石牟礼さんの許しを得て掲げる。
「水俣の石牟礼道子でございます。その節は、思いもかけずお言葉を賜りましたが、今でも耳の底に柔かく澄んだお声の響きが残っております。(中略)なかでも、「水俣に行きますから」と申された一言が忘れられません。/もしおいでいただけるのであれば、是非とも胎児性の人たちに会っては下さいませんでしょうか。その表情と、生まれて以来ひとこともものが言えなかった人たちの心を察してあげて下さいませ」

 手紙の最後には「毒死列島 身悶(もだ)えしつつ野辺の花」の句がある。一世一代の覚悟で書いた皇族への手紙に、自らの思いを込めた破格の句を添える。謙譲でありつつも諧謔(かいぎゃく)を忘れない石牟礼さんらしい深みのある文面だ。

 天皇、皇后両陛下は昨年10月26~28日、熊本県を訪れた。稚魚放流をする水俣市を初訪問。ここで胎児性患者と対面した。両陛下の強い希望で実現したという。

 10月28日の熊本空港。石牟礼さんは両陛下を見送りに行った。声をかけることはできないと分かっていたが、胎児性患者との面会が果たされたと知って、行かずにはいられなかったという。リハビリ病院に入院中。主治医の許可を得ての外出である。

 車椅子でロビーの最前列にいた。両陛下の車が到着。石牟礼さんは介添えの女性に頼んで立ち上がった。皇后さまは石牟礼さんの姿に一瞬驚いた顔をされ、歩み寄ろうとされたが、何度も振り向いておじぎをしながら去っていった。
 皇后さまが石牟礼さんに気づいた時の眼差(まなざ)しが印象的だった--周囲にいた人は口をそろえる。介添えの女性が振り返る。
「視線というより、眼差しという言葉がぴったりです。石牟礼さんと分かって皇后さまの足が止まった。数秒間でしたが、眼差しと眼差しとの無言の会話があったように思います。そばにいた私も眼差しにくぎ付けになり涙が出た。慈悲でもないし、なんでしょうね、温かいお気持ちがじわっと寄せてきて」

 石牟礼さんは「オーラがありました」としみじみ言う。両陛下が去った後、侍従が「くれぐれもお体を大切に」と皇后さまの伝言を伝えた。
「気持ちが通じ合ってよかったですね」と私が言うと、「よか人でした。ほんとにすてきな人」と石牟礼さんは応じた。「天皇陛下のご様子はどうでしたか」「仲良さそう。お二人が徹底して愛し合っているのが分かりました」

 一息入れて、石牟礼さんは何か書き始めた。「天」という文字だ。句集『天』があるし、『苦海浄土』第3部の題は「天の魚」。「天」はお気に入りの文字なのだ。

 最近、単行本『天の魚』を自分で購入した。同書は全集第3巻や池澤夏樹個人編集『世界文学全集』に収録されているのだが、「希少になった単行本を手元に置いていたかった」という。
「アマゾンで自分の本を買う作家なんて石牟礼さんくらいですよ」。付き添いの女性が軽口をたたく。手製のデコポンジュースを石牟礼さんはおいしそうに飲んでいる。

 今春、石牟礼道子さんは87歳になった。その文筆活動は70年に及ぼうとしている。折々の言葉や、親族、ゆかりの人の証言を集めて希代の表現者に肉薄する。


 

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