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適塾  緒方洪庵  3  駒敏郎

そなしはきいと

 適塾は青春の塾である。
 塾生たちの年齢はいうまでもない。その挫折を知らぬひたむきな追究、贅沢なほどの熱情の浪費、傲岸ともいえる反俗の矜持、幼稚と老成、無軌道と使命感の混淆、すべてが青春の属性であり、人生のまばゆい一時期にだけ発散されるものだ。

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 適塾  緒方洪庵   3        駒敏郎

 輪講に話を戻そう。テキストの写本を終えると、これを当日までに、どこからつつかれてもボロが出ないように読みくださなければならない。何年も使い続けているテキストのことだから、誰かに聞けばすぐにわかるのだが、塾生たちは、ないしょで聞いたり教えたりすることを恥と心得ていた。独力でとりかかって疑問にぶつかると、たよるものは辞書だけである。ところが、適塾にはその辞書「ヅーフ・ハルマ」が写本で一揃いあるだけだった。もう一揃い「ウェイランド蘭語辞典」があるにはあったが、これを使いこなせるのは、よほど学業の進んだものだけだ。

 この「ヅーフ・ハルマ」は、オランダ商館長のヘンドリック・ドウフが、通詞の協力を得て、ハルマの蘭仏辞書をもとにつくりあげた蘭和辞書で、当時最も便利な辞書だったが、なにぶん発行部数が少なく、閙学者のあいだではその写本さえも貴重品扱いだったわけである。

 百人の塾生に辞書が一部というのだから、塾生たちは目の色を変えて争奪戦をやった。いよいよ明日が会読だというその晩は、いかな懶惰生でもたいてい寝ることはない。ヅーフ部屋という字引のある部屋に、五人も十人も群をなして無言で字引を引きつつ勉強している」(福翁自伝)というありさまである。この神聖貴重な辞書は、塾生の部屋の隣りの六畳の間に置かれていて、持ち出しはいっさい厳禁になっていた。
                                
 長与専斎もこのヅーフ部屋の想い出を書いている。「百余人の生徒皆此一部のヅーフを杖とも柱とも頼むものなれば、立替り入代り其部屋に詰め込みて前后左右に引張り合い、容易に手に取ることも叶はざる程なり。斯て昼間は字義の詮索も屈かざれば、深夜に人なきを伺ひ字を引きに出かけるもの多く。ヅーフ部屋には徹宵の灯火を見ざる夜ぞなかりし」(松香私志)。ヅーフを手に取ったら用を足しに行くこともできない、うっかり席を立とうものなら、辞書はもちろんのこと場所まで人に取られてしまう。専斎たちは、つねづね、ヅーフを座右に置いて心ゆくまで原書を読むことができたら、「天下の愉快」だろうと話しあっていたそうである。

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 いま塾生たちの神殿だったヅーフ部屋に五分冊の「ヅーフ・ハルマ」が展示されているが、これは安政年間塾に学んだ岡村義昌が、一八九八年(明治三一)に寄付したもので、塾そなえつけのヅーフは、のちに一八六二年(文久二)洪庵が奥医師になって江戸へ旅立つおり、混雑中に紛失してしまったという。このヅーフはかなりていねいに使ってあるが、適塾のものはもっとひどい状態だったことだろうと思われる。第一冊の表紙に岡村はこんなことを書きつけている。

 「此蘭学字書ヅーフ・ハルマは義昌十七歳の時、緒方洪庵の門に入り蘭書を学びし時用ひたる書なり。当時此書の外に国語を以て訳したる字書なし。又洋学と唱ふるも蘭学の外に洋学なし。此書開明の今日不用に属すと雖も五十年前未開の有様を見るに足る」。開明の明治の末まで、岡村はこの写本を愛蔵していた。彼もまた、ヅーフの一行一行にその青春を燃焼させた一人だったのだ。

 このヅーフ部屋の真下ではないが、すぐ斜め下が洪庵の書斎だった。狭い中庭に面した茶室ふうの四畳半の間で、二階の大部屋の南がわの窓から首を出すと、目の下にその書斎の丸窓が見えている。洪庵一家の居住区はこの中庭の奥で、塾生たちは通りに面した二階屋の上下を使っていた。中庭でいちおうは分けてあるのだが、棟つづきであるうえに猫の額のような狭い庭だから、隔離効果はたいしてあがらなかったことだろう。

 百人もの裸ん坊の若者が騒ぎまわっているすぐ下で、よく自分の勉強ができたものだと思うが、洪庵はこの書斎で「病学通論」「扶氏経験遺訓」「虎狼痢治準」と、三冊の主著を完成させている。

 輪講で会頭をつとめるクラスの連中は、よく洪庵の講義を聞いたようだが、日を決めて塾生たち全部に講義をするということはなかった。こと勉学に関しては、進むべき方向とそのための最大限の便宜を与えるだけで、あとはまったく好きなようにさせていた。勉学の進む進まないはすべて当人しだいのことで、どんどんやって塾中の書物を読みつくした者は、ほうっておいてももの足りなくなって洪庵の話を聞きに来る。

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 百人からの塾生を抱えていると、その経費もかなりなもので、医者番付では大関の洪庵にとっても、相当な負担だった。洪庵は、せっせと稼ぐこともしなければならなかったのである。嘉永、安政という年は、世の中も沸きかえっていたが、医者としての洪庵も、相ついで起こった二つの大きな仕事のために多忙をきわめた。

 その一つは、種痘法の普及と大阪除痘館の開設である。牛痘苗による種痘は、一八二三年(文政六)に、来日早々シーボルトが試みて失敗をしているが、その効果については蘭医たちは早くから耳にしている。何とかして善感させようと何度もとりよせるのだが、バタビヤから長崎へ。熱帯を通る長い航海中に、痘苗が変質してしまって役にたたなかった。

 シーボルトに学んだ長崎の楢林宗建が、たまたま乾いた痘痂ならながくもつのではないかと考えついて、オランダ商館付の医者モーニツケに、とりよせ方をたのんだ。一八四九年(嘉永二)七月十七日、バタビヤの子どもの腕からとった痘痂が.日本の子ども.宗建の息子の建三郎の腕に植えられ、これがみごとに善感したのである。シーボルト以来二十九年かかって、牛痘法が日本で成功したのだ。

 この痘痂が、蘭医たちの手から手へ引きつがれて、たちまち全国にひろがってゆくことになる。京都では、日野鼎哉が長崎の唐通詞頴川から送られた痘苗を、自分の孫たちに植えて成功した。藩命を受けて長崎へ行こうとしていた福井の笠原良策は、この痘苗をわけてもらって雪の栃ノ木越えをやりながら越前へ持って帰る。同じころ、日野から手紙をもらった洪庵は、とるものもとりあえず鼎哉の養子で、大阪で開業している日野葛民を伴って、京都へ駆けつけた。そして連れて来た子どもに痘苗を植えてもらって、大阪へ持ち帰ったのである。洪庵自身も、この時に種痘をうけている。

 大阪の古手町に除痘館ができた。京都についで二番目、江戸の除痘館よりも半月ほど早い。洪庵はこの除痘館の仕事に打ちこんだ。漢方医たちの流す惡宣伝や、理由のない恐怖をいだく人たちのなかで、痘苗を絶やさぬようにつぎつぎと植えついでゆくということは、たいへんな大仕亊だったのである。

 もう一つは、一八五八年(安政五)八月のコレラの大流行である。日本は一八二二年(文政五)にその第一波に襲われて、大阪は最も大きな被害を受けたが、アメリカ船ミシシッピー号が運んで来たという安政の第二波は、箱根を越えて江戸にまで侵入し、江戸だけでも死亡者三万人をこえる惨状を呈した。

 まさにこれは、蘭方医としての洪庵の真価を問われる事件である。長崎には、前年赴任して来たオランダ人の医師ボンベがいて、予防と治療に大車輪の活躍をしているが、関西では洪庵が中心となって対策に奔走した.細菌学が発達して伝染性の病気だということはわかっていたが、コツホがその病原菌を確認するのはさらに二十五年のあとである。ボンベも洪庵も、もっぱら食品衛生による予防と、対症療法だけで、必死になってこの悪疫とたたかったのである。「虎狼痢治準」は、診療につぐ診療の毎日、夜を徹してまとめあげたもので、書き上げたあと一時、洪庵は過労のために立ち上がれなかったという。

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 洪庵の業績は、むしろこうした医業の分野で大きい。闡学者としての洪庵は、開国以前の蘭学者に共通な限界をもっている。鎖国下の日本では、オランダ語が外国語のすべてであって、蘭書は新知識の泉だった。だが国をひらいてみると、オランダ語はヨーロッパのほんの一部でしか使われていない地方語で、より新しい知識をじかに吸い取るためには、他の国語を学ぶ必要のあることがわかってきたのだ。洪庵が営々として育てあげてきた有為の青年たちは、このままにしておけば、使い道のない骨骨董品になってしまうのだ。洪庵が教育者としてすぐれていた点は、自己の限界を認め、新しい道をえらぶことを積極的に塾生たちにすすめたことである。石井宗謙に宛てた手紙のなかで、洪庵は「当時世に開くべきは英学に候」と、はっきりいいきっている。

 適塾の塾頭を勤めていた長与専斎を、思い切って手放したのも、そうした考えからだった。洪庵が江戸へ出て坪井塾へはいったのは二十二歳のときだったが、専斎もちょうど同じ年齢に達していた。生きた学問をじかに学ぶべき年齢である、洪庵はそう思ったのだろう。適塾は、人格形成の場として、一種闊達な自主の精神を育て特異な塾風を誇ってはいたが、その学問的内容について、硬化沈滞の兆しがみえはじめていたことは否めない。これは洪庵の責任ではなくて、洪庵ほどの人にさえついて行けなかったほどの激しい時代の転換が行なわれていたのである。

 一八六二年(文久二)将軍家の奥医師と江戸の医学所の頭取を兼ねるようにという命令が下った。洪庵は気がすすまなかったが、やむを得ず江戸へ下っていった。長らく住みなれた大阪をはなれること、それにもまして適塾からはなれなければならないことが、いかにも辛かった。おそらく洪庵は、適当に職を辞して大阪へ帰ることを考えていたのだろうが、翌一八六三年(文久三)二月二十五日、喀血して急逝した。

 適塾は、洪庵の没後も養子の拙斎にひきつがれて、明治の初年まで続いたが、洪庵のいない適塾は、もはや適塾ではない。適塾もまた、洪庵の死とともに、二十五年にわたったその生命を終えたのである。
 うす暗い適塾二階の塾生部屋……だが、かつてそこに渦巻いた幕末の青春は、いかに充実していたことだろう。

「なんのために苦学するかといえば、ちょいと説明はない。前途自分のからだはどうなるであろうかと考えたこともなければ、名を求める気もない。名を求めるどころか、蘭学書生といえば世間に悪くいわれるばかりで、すでにやけになっている。ただ昼夜苦しんでむずかしい原書を読んでおもしろがっているようなもので、実にわけのわからぬ身のありさまとは申しながら、一歩を進めて当時の書生の心の底をたたいてみれば、おのずから楽しみがある。これを一言すれば──西洋日進の書を読むことは日本国中の人にできないことだ。自分たちの仲間に限ってこんなことができる。

 貧乏をしても難渋をしても、粗衣粗食一見みるかげもない貧書生でありながら、知力思想の活発高尚なることは王侯貴人も眼下に見下すという気位で、ただむずかしければおもしろい。苦中有楽、苦即楽という境遇であったと思われる。たとえばこの薬は何にきくか知らぬけれども、自分たちよりほかにこんな苦い薬をよく飲む者はなかろうという見識で、病のあるところも問わずに、ただ苦ければもっと飲んでやるというくらいの血気であったに違いはない。(福翁自伝)

 塾生たちは階段を降りて行った。
 そこには、まぶしいばかりの光につつまれて、近代日本があった。

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