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森小学校の思い出  帆足考治

山里こども風土記                森と清流の遊びと伝説と文化の記録

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 歴史と伝統の名門校

 私は幼稚園に行くのは嫌がったが、半年後に小学校に上がるころは多少聞き分けがよくなっていたのか、あるいはすでに観念していたのか、まじめに欠席もせずによく通った。
 もっとも、私かずっと持ち続けた学校や幼稚園、さらには少年団とか青年団、兵隊など、およそ団体というものすべてに対するわけの判らない漠然とした恐怖感というものが消えたわけではなかった。

 私は学校に入ってからでも、このような組織の中で威張ったり、あるいは活発にしている子供を本能的に嫌う傾向があった。大体、組織や団体などというと、その潜在的に含んでいる力が見えないものに荷担して、生き生きしていられる神経が私には理解しがたかったし、そういう種類の子供が好きではなかった。だから、いちどこの小学校の講堂で成人になった青年達の身体検査が行われているのを見たときには、大人の世界ではああして若い人達をだんだん組織の中に組み込んで、最後には皆を兵隊にしてしまうのかと思うと、あの若者達は成人したことが恐ろしくないのだろうかと同情した。だから私は成人などというものにはなりたくないなア、いつまでも子供でいられたらいいなア、などと真剣に考えたものである。

 当時、森国民学校と呼ばれた森町立森小学校は角埋山のふもと、旧森の城下町を見下ろす高台にあった。敷地も校庭も十分広かったから、学校が建つ前はきっと森陣営の縄張りの一部を形成していたものと思われる。

 旧城下町から上町(かさまち)の商店街を抜けて坂を上がると、突き当たりに大きな石の鳥居か見えてくる。その先はただ石垣が見えるだけなので知らない人にはこの先に学校かあるなどとは思えないだろう。その鳥居をくぐって左にカーブする坂道を石垣に沿って上ると右側に運動場か開け、その隅に立派な屋根つきの相撲の土俵があって、そばに大きな楠が立っていた。

 私は楠が大好きだ。関東ならさしずめ欅(けやき)に相当するくらい九州では馴染みの深い木である。欅ほどには素直にすくすくと高くは育たないか、じっくり力を溜めて長い時間を掛けて大きく大きく成長してゆく。あのがっちりした樹形とその親しみやすい木肌、たくさんの葉っぱを青々と茂らせた楠は、陽光の強い南国ならではの樹である。
 
「楠」は今ではこの一字のみで「くすのき」と読ませるが、海音寺潮五郎氏によれば「くすの木」のクスは「樟]が正しいそうだ。いずれにしても、楠はこの地方ではよく見かける代表的な照葉樹で、「玖珠」の語源になるほどこの辺りでは親しまれている木である。伐株山の伝説はあまり参考にならないとしても、この木は相当大きく育つらしく、全国の八幡様の総本社といわれる中津郊外にある大貞(おおさだ)の八幡宮には驚くほど巨大な楠が一本立っている。
 
 さて、広い校庭を横切っていくと左手の高台には軍艦の大砲を立てた忠魂碑がある。日露戦争の戦利品かなにかであろうが、太さから見て戦艦のものではなさそうなので、巡洋艦ていどの軍艦のものだろう。その右手には上り口に大きな椿の木のある舗装された坂の上に茅葺きの御殿があった。旧久留島公の陣屋だった建物で、そのころは幼稚園として使われていた。この建物の後ろはおやまの斜面を利用した回廊式の庭園になっており、久留島家代々の殿様が寛いだであろう池には大きな鯉がたくさん泳いでいた。

 目を正面に戻すと、突き当たりの一段高い所に二棟の平行した校舎が見え、正面と右のほうにそれぞれ急な坂がある。正面の坂を上れば校舎をつなぐ渡り廊下に出るし、右側の坂を登ると講堂の正面に出る。

 正面の石垣の上には御影石で築いた国旗掲揚台と天皇皇后両陛下の御真影と教育勅語を納めた奉安殿があり、毎日の朝礼では教頭先生の「奉安殿と忠魂碑に対し奉り最敬礼!」という号令で全員が頭を下げたものである。

 私は入学するまでにも何回か森小学校に行ったことがあったが、そのころはなぜ学校の入り口に鳥居があるのか不思議に思っていた。しかし入学してみると、なるほど、すぐそばに「おやま」とよばれて親しまれていた末広神社があるのがわかって納得した。この鳥居は学校の入り口でもあったが、これは末広神社の参道入り口のゲートでもあったのだ。
 
 この末広神社は遊ぶにつけ学ぶにつけ、楽しみ、また悲しみ、その後ながいあいだ私たち森小学校の生徒達の心の拠り所となったところであり、そのことについては後で触れる。

 兵隊サンススメススメ

 おやまの桜の蕾が膨らんで、いよいよ森国民学校への入学が迫ったある日、私はおばあちゃんに付き添われて入学前の面接というのに出頭した。これは知能程度はどうか、一人で学校に通えるかどうかなどを入学前に把握しておきたいという学校側の考えで行われていたものらしく、一種の入学試験のようなものだった。

 今はとっくになくなってしまった森小学校の大きな講堂が面接会場だったが、ここに集められた私たちは順番に呼び出されて、付き添いの父兄と一緒に先生と面接をした。私の担当は男の先生だったが、まず、簡単なカタカナを読む能力が確かめられた。私は先生が示すチチ、ハハ、マメ、ハ卜、フネなどをいずれもすらすらと読んで見せ、さらにはヒカウキ、セウネンなどというむずかしい言葉も正しく発音して付き添ってくれたおばあちゃんを喜ばせた。

 次に「数をかぞえてごらん」と言われたので、私はばかばかしくも恥ずかしくもあったが、言われたとおりに「いーち、にい、さん、し……」とどんどん数えていき、「ひゃーく、ひゃくいーち、ひゃくにーい、ひゃくさーん……」とやったものだから、先生はびっくりして、「さすがに東京育ちの子は違う」と思ったらしい。その上、「二足す二は幾つ?」「では五足す三は幾つ?」などと、私には他の子供よりも高等な質問が出されたが、わたしはいずれも簡単にパスして、おばあちゃんを安心させた。

 おばあちゃんはこの時のことがよほど自慢だったようで、その日のことは私か大きくなるまで誰れ彼れとなく話していたが、学年が上がってだんだん私の天才ぶりが色褪せてくると、もうこのことはあまり話題にしなくなった。
 
 小学校に入ると私は近所の大人たちからよく「もうサイタ サイタ サクラガ サイタを覚えたか?」と聞かれた。「サイタ サイタ……」は、戦前の初等科一年生が「読み方(国語のことを当時はこう言った)」で最初に習う文章だったが、私たちの年からはこの文章が廃止され、新しく「アカイ アカイ アサヒ アサヒ ヒノマルノハタ バンザイ バンザイ」になった。世界を相手に戦っていた神国日本の意識をより鮮明に出してきたものだろう。

 因みに、二から三ページ進むと急に難しくなって「ヘイタイサンススメ ススメ チテチテタ トタテテタテタ」というのが出てきた。今では何のことだか意味不明のように見えるが、実はこれは兵隊さんが喇叭(らっぱ)に合わせて進軍する模様を読んだものである。「チテチテタ トタテテタテタ」は、進軍喇叭でいえば「トテチテター トタテテタテタート チテチテター トタテテタテター」の最後の二節をカナで表したものである。当時は、進軍ラッパであれ、突撃ラッパであれ、はては消灯ラッパであれ、大人も子供もラッパの旋律は大抵知っていたから、読み方の教科書にこんな文章が出てきても、「ははア、あのラッパだな」とすぐ見当がついた。

 私は東京にいる時からすでに、ハ卜、マメ程度のカタカナは姉に習っていたから楽に読めたが、最初にラッパのこの文章を見た時は「なんだこれは……」と思った。まして当時の田舎では小学校に上がる前に文字が読める子供などほとんどいなかったから、こんな複雑な文章になると、先生がはじめに読んで聞かせて、生徒はその後からこれに習って読むのだが、それさえ難しい子供がたくさんいた。

 講堂の思い出

 私が入学した頃の森小学校は、なにしろ玖珠郡の中心地にある伝統校だっただけに、建物も立地条件も立派で、そばには久留島公の陣屋やその庭園が昔の雰囲気そのままに残っており、学校を取り巻く環境や学校行事にも歴史と伝統の重みを感じさせていた。また森の奥の「相の迫」と「片草」には分教場(分校)をもっていた。

 入学して最初に感心したのは講堂の立派なことである。校庭から見上げる一段高いところにあった講堂は、東正面のそばの急な坂を上がったところにあったが、木造の堂々たる建物で、私が入学した頃は一千人を越える生徒がいたが、一年生から高等科の生徒まで全員が楽に収容できた。

 入学式で校長の了戒先生が歓迎の挨拶をされた際、どうしたはずみか講壇の後ろの白壁にくりぬかれた御真影奉納庫の上の梁のわずかな出っ張りの上をつたわって、一匹のネズミが右の方から左へわたってきた。まだ生徒になりきれていない一年生の子供たちは、ちょうど面白くもない先生の講演に厭きあきしていたところだったので、思わぬネズミの出現に大喜びで、オドオドしながらちょこちょこと梁をわたるネズミにどっと沸いた。

 了戒先生は生徒の方を向いてお話をされていたので、まさか自分の後ろにネズミがいるなどとは気がつかず、話の途中で突然生徒が大笑いし始めたので何が何だか分からず、すっかり驚いてしまった。ネズミの方は、綱渡りよろしく狹い梁の上を危なっかしい足取りで渡っていったものの、すぐ行き止まりになっていることがわかり、回れ右してもと来た方へ戻っていったから、生徒達は二度もネズミの曲芸を見てしまったのである。皆んなが指差しながら大笑いしたので、やっと了戒先生もことの次第を理解したようで、先生が笑われたのではないことが分かってさぞ安心したことだろう。

 初日の入学式でそんな騒ぎがあったので、私たち新入生はすっかり森国民学校に慣れてしまった。

 森国民学校の初等科第一学年桜組に入学したのが昭和二〇年四月、その夏には終戦を迎える年であった。入学はしたものの、低学年は敵機来襲の警戒警報が発令されると授業はお休みになるので、夏が近づくとほとんど学校へは行かなかった。行ってもなかなか落ち着いて勉強ができないので、授業は学校のすぐ横にある、通称「お山」と呼ばれる末広神社の社殿をつかって行われた。菅田先生という桜組担任の若い美しい女先生に連れられてお山へ登り、満開の桜の下の石段に腰掛けて「青葉茂れる桜井の……」と楠正成の歌を教えてもらったりした。学校は楽しくも面白くもなかったが、教室の授業にはない開放感が味わえる野外学級だけはたのしかった。

 森小学校では授業の始まりと終わりの合図に、ベルではなくなぜか大きな太鼓を打つ。時間が来ると当番の先生が渡り廊下に据えてある太鼓の所に行って、ドーン、ドーン、ドン、ドン、ドン、ドン、ドドドドドドーン、ドーンーと勢い良く打ち鳴らすのである。初めこの太鼓を聞いたときは、私は学校というよりも何だか道場にきたようなおかしな気持ちがしたものである。

 各教室の隅にはそれぞれ校内放送用のスピーカーが設置されていたが、私か入学した頃はその電線も外されていて全く役に立たなくなっていた。きっと戦前には各教室まで電気が通っていて、このスピーカーを通じて重要な連絡が行われていたのだろう。始業や終業の合図にはベルが鳴っていたのだろうが、戦局が悪化していたこのころにはすでに校内放送の設備まで外されてしまって、きっとその配線は供出されてしまったものらしかった。

 入学して間もない四月二十九日、森小学校では講堂で天長節を祝う式典が行われた。整列した全校生徒は、まず「東方遙拝!」の号令一下、大岩扇の方向に向かって深々と頭を下げ、それから白い手袋をした校長先生が恭しく何度もお辞儀をしながらお写真庫から取り出した巻き物を広げ、厳かな声で「朕思フニ我が皇祖皇宗国ヲ始ムルコト高遠ニシテ………」と、あの教育勅語を朗読した。こんな式は初めての私たちは、ただ上級生たちがするとおり真似をして頭を垂れていたが、じっと黙って下を向いていると、なんだか理由もなくおかしくなってきた。

 きっと他の子も同じだったのだろう、あちこちでクックッと押し殺した様な笑いごえが聞こえてきた。私は今朝、上ノ市を出るとき、近所のいつも私たちに悪いことばかりを教えてくれる粗野な青年の一人が、「きょうはお前たちも「チン思うに我が皇祖高曾屁をひって、汝臣民臭かろう」ちゅうのを聞くんだから、笑うもんじゃねえぞ!」といっていたのを思い出しておかしかったが、ここで笑い出したら収拾がつかなくなるし、また先生にどんなに怒られるかもしれないという恐怖があったので、辛うじて笑いだすのを押さえることができた。

 そのあとは、あの天皇誕生をたたえる「今日の佳き日は大君の/生まれたまいし佳き日なれ」という歌をうたってお終いになった。私は、ずっと右の方に並んでいる五年生や六年生の男の子たちがずいぶん大人びた低い声で歌うのに驚いた。もちろんこれも初めての歌だったが、単純な旋律の歌だったから、わたしたちは最初はただ口をあけているだけだったが、やがてすぐ声をだして唱和できるようになった。

 講堂と並んで、森小学校のもう一つの自慢は理科教室に揃えられていた教材や標本の数々であった。さすがに伝統ある玖珠郡一の名門校だけあって、実験用の器材や動植物や鉱物の標本、剥製などは小学校らしがらぬ充実したものがあった。長い間に卒業生や先輩や各方面から寄贈されたものもあったのだろう。後ろのガラス張り標本棚のなかには、ホルマリン漬けのサカナや牙を剥いた大きな毒蛇「ハブ」などがあって、いつも薬品とカビの臭いが漂っており、人気のない時にはこの部屋に入るのは気味が悪かった。

 防空頭巾のこと

 上ノ市から森国民学校までは約三キロあり、毎朝、上ノ市の子供たちは生田煉瓦屋の前に集合してから、「勝ち抜く僕ら小国民」とか「おやまの杉の子」を歌いながら、高等科の生徒を先頭に整列して登校した。

 学校では、空襲警報が鳴ったらすぐ防空頭巾をかぶって机の下に潜り込み、「腕立て伏せ」の要領で、直接床にお腹をつけないように爪先と両肘で体を支えつつ、両手の親指で耳の穴をふさぎ、同時に残る四本の指で目を覆うという防護法が教えられ、その稽古が何回も行われた。こうすれば近くに爆弾が落ちても、直撃さえ食わなければ最低限に身を守ることが出来るというものだったが、あの両手の四本づつの指で目を庇う仕草は、確かに素手で身を守る最後の手段としては有効かもしれないが、実際にこうして助かった人がいるのかどうか。

 当時の学校は木造校舎だったから、実際に空襲を受けて焼夷弾でも落とされたらひとたまりもなかった筈で、とてもこんなことでは生徒達は助からなかった筈である。それよりも一刻も早く校舎を飛び出して、おやまにでも避難した方が助かる公算は高かったに違いない。子供心にもそうしたかったのだが、これは訓練であり、まさか先生が指導することに文句をつけたり異議を唱えたりすることなどは考えも及ばないことだった。

 登校するときにはみんな防空頭巾を持参し、いつでもこれをかぶれるように首にかけていた。綿入りの小さな座布団を二つ折にしたような防空頭巾は、寒い朝などには格好の防寒具になったし、実際、空襲にあっても頭部を保護する道具としてはかなり効果があっただろう。それぞれの家庭で簡単に作れたし、余り布と余り綿で簡単に縫える優れものだった。私はおばあちゃんが夜なべ仕事で縫ってくれた肌触りのいい絣(カスリ)の防空頭巾が大好きで、冬遊ぶ時はもちろんのこと、気候が暖かくなってからもいつもそれを被って元気に学校に通った。

 とくにあのころの子供たちが冬によくやった杉山での「たきもんひろい」(焚きもの拾い、薪拾いのこと)にはこの防空頭巾をかぶっていけば暖かかったし、杉の枝で目を突いたり頭をぶつけたりする危険もないので大いに役立った。子供たちの薪拾いというのは炭俵と荒縄をもって杉山にわけ入り、そこここに落ちている杉の葉や枝を拾って持参した炭俵に詰め込んでくるのである。杉の葉は竈(くど)で御飯を炊いたり煮物をするときの焚きつけに絶好だったし、風呂を沸かすのには拾い集めてきた杉の葉や小枝はよく燃えて火力も強かったので、子供が遊びがてらに山から拾ってくるこうした薪は家庭にとっては大助かりだった。

 うちでは風呂を焚くのは私の役目だったので、夕方まだ明るいうちに水をくんで風呂釜いっぱいにしておき、夕御飯の前に沸かすのである。竈の前に杉の葉がぎっしり詰まった炭俵と蒔を置いておいてからどっかりと腰をおろして火を燃やすのである。風呂焚きは結構時間がかかるので、私は次々に杉の葉をくべながら、いつも蒸気機関車を走らせていることを想像していた。そうすると不思議なことに、火力が上がってくるにつれて竈の中で勢いよく燃える火は上の風呂釜のぬくもりと何か説明のつかない微妙な作用をもたらすのであろう、まるで本物の蒸気機関車のようなボコボコボコボコというリズミカルな音を立てて燃えた。

 昭和二十年も五、六月ごろになると、警戒警報はほとんど毎朝のように発令されていたから、生徒が校庭に集まって朝礼が始まり、奉安殿と忠魂碑に拝礼するころになると、きまって学校の裏手の山の竹藪の中にあったサイレンがウーンウーウーと鳴り出し、遠く戸狩の第二分団の火見櫓の鐘もカーンカーンと打ち鳴らされる。最初はのんびりした鳴りかたで敵機がまだ遠くにあることを知らせる警戒警報だが、そのうちに敵機が接近してくるとサイレンも半鐘もけたたましい連続音の繰り返しに変わる。空襲警報である。

 低学年の一年生と二年生は警戒警報が鳴るとそれでもう授業は中止と決まっていたから、私はこのサイレンを聞くと先生の意向も確かめずにすぐ家に帰ったが、大抵は家に帰り着くまえに警戒警報解除となり、それでその日は一日休みとなるのだった。私はこの警戒警報が何よりの楽しみで、サイレンが鳴り始めるとたちまち回れ右して一目散に家にとんで帰り、そのまま裸足で初夏の川に遊びに行った。

 当時は若い男はみんな戦争に駆り出されており、川でのんびり魚捕りなどする者などはもちろんいなかったので、川は水も綺麗だったし、いろんな種類の小魚がたくさん泳いでいた。私たちのような子供でも網や笊で掬ったり、釣竿で釣ったり、筌干しをつけたりすれば結構たくさんの魚が捕れたものである。

 梅雨が来て、川面を燕が低く飛び回るようになると、もう戦局はもうどうにもならない状況になっていたようで、ラジオや新聞でもあまり景気のいい話題は報じなくなっていた。
 軍国少女だったチエ子姉が嫁いで行く前に私に良くうたって聞かせてくれた、あの

 今年も村へやって来た
 ツバメにそっと聞きたいナ
 南の海の前線を
 白波蹴立て進み行く
 正しく強い日本の
 軍艦いっぱい見たろうと

という歌も何となく空ぞらしく夢のようで、実際、もうその頃には戦で役に立ちそうな軍艦は余り残っていなかったのではないだろうか。

 私たちは学校に行かない日が多くなって、そのぶん上級生たちが中心となってよく夜間に夜学の会を開いた。きっと上級生たちは学校から「下級生の勉強を見てやるように」と指導を受けていたのであろう。上級生たちの家を持ち回りに使って夜学の会を開いた。もちろんこんなことで学校の代わりになるような勉強など出来っこない。でも、夜こうして公然とよその家に上がり込んで勉強のまね事をしながら、その実、下級生同士でふざけ合ったり、勉強をしているふりをしながら帳面にいたずら描きなどをするのは楽しかった。

 私は勉強は嫌いだったが、このようにみんなが集まるのは大好きで、特に夜食に出てくるカンコロ餅(サツマ芋を輪切りにして乾燥させ、これを粉にしたものを丸めて蒸した饅頭で、色はほとんど黒に近い濃い焦げ茶で、美味しくはなかった)や蒸し芋、石垣餅などのおやつが楽しみだった。

 家ではカンコロ餅などたべたことはなかったが、当時小さい子供のいる家などではカンコロ餅は恰好のおやつだったようで、蒸したカンコロ餅に黄粉や蜂蜜をつけると結構なお菓子の代用になった。もうどこでも砂糖がほとんど手に入らない状態になっていたので、蜂蜜や芋飴のような甘いものは貴重品だった。

 夜になっても電気をあかあかと点けるわけには行かなかったので、夜学に子供たちがあつまった家でも、光が弱くて紫色の擦りガラスで光が横に広がらないようにした電球が使われていて、さらに電気の傘には黒い布がかぶせられて窓や戸口などから光が漏れないよう完全な灯火管制が行われていた。したがって、それでなくても寂しかった上ノ市の夜は真の暗闇になって、月のない晩などは手探りで歩かなければならないほど暗くなった。

 その頃、うちの家の蔵の白壁が敵機の目標になり易いということで、黒く塗りつぶすようにとの指導を受けたことがある。最初はおじいちゃんもなかなか気が進まないようだったが、役場からそう指導を受けたからには逃れようもなく、バケツに窯やクドからこさぎ採った大量の煤を水に溶いて、これを壁にごしごしと塗り付けて、立派なカムフラージュを完成させた。

 アマゾン川のワニ

 三月一〇日の空襲で東京の江古田にあった私の実家は隣りの塀まで焼けたのに、運良くうちだけは焼け残って頑張っていたが、もうこれ以卜はいよいよ危ないということで母が兄姉妹ら一行を引きつれて東京を脱出し、引き揚げてきた。ある梅雨のしとしと雨の降る日だった。

 すでに我が家にはそのころあちこちから親戚が引き上げてきており、また母の姉一家も来ていたうえ、別にどこか大阪の方から焼け出されてきた引揚げ者の夫婦もいたから、もうほぼ満杯だった。しかし東京から引き上げてきた者たちも祖父母にとっては皆な大事な家族だからもちろん喜んで迎えたが、これで我が家の人数はとうとう二五人という大家族になってしまった。

 夜になると座敷から居間、納戸にいたるまで布団が敷き詰められ、それこそ足の踏み場もないほどゴロゴロ人が寝ていた。あの食料の乏しい時代に、よくあれだけの人数に三食、三食ちゃんと御飯をたべさせたものと祖父母はそれを後々まで自慢していたが、実際、みんなにひもじい思いもさせなかったおじいちゃんの工面の良さは、さすが本家の主、御荘園の棟梁だけのことはあった。

 これで、我が家から森小学校に通う子供は私を含めて六人になったが、概して我が家から通う子供たちは勉強のできが良いので村では評判だった。といっても、みんな東京や大分の都会の学校から転校してきたわけだから、田舎の子供たちに比べれば知識も経験も豊富であり、社会科や理科などでは先生も知らないことまで良く知っていて、その分だけ先生もつい高く評価したであろうことは否めない。例えばキリンは東京の「丸ビル」の三階の窓に屆くくらい首が長いとか、ツェッペリン飛行船は長さが東京駅とほぼ同じくらいあったなどといわれても、田舎の子供には丸ビルもキリンも見たことはないし、まして東京駅がどれくらいの長さがあるものか想像のしようがない。

 東京から来た子供が「東京駅って端から端までは見えないくらい長いのよ!」といえば、田舎では上ノ市から切株山までだってはっきり見えるのだから、端から端までが見えないとなるとそれより遠いのだろうか、などと想像してしまう。田舎では先生でも実際に東京に行ったことのある人は少なかったから、憧れの東京から来た子供が少しあか抜けた服装をしていたり、キレイな標準語を使ったりすると、それだけでもいい点をあげたくなるのは当然だったかもしれない。
 
 そんな思い出の中で私が今でも悔しく思い出すのは、南米の大河アマゾンのワニのことである。ある日、社会の授業のときアマゾン川の話が出て、先生がアマゾン川は世界一の大河で、奥地には人間より大きなワニのようなサカナが棲んでいると教えてくれた。私は冒険話がことのほか大好きだったので、こうした話になると特別の反応を示して、得意の博識をひけらかしながら、「アマゾンに棲むというワニよりも大きいですか?」と言ったら、先生は「ワニが棲むのはナイル川だ。アマゾン川は大きな川だけど残念ながらワニは褄んでいないんだよ!」と私を諭すように言った。

 私は高垣眸や南洋一郎の冒険小説を読むまでもなく、アマゾン川流域にはたくさんのワニがいることを知っていたから、「先生、アマゾン川にだってワニはいるはずです!」と食い下がったが、先生は「帆足君はアマゾン川をアフリカの川と勘違いしているんだ! 皆んなも間違ったことを覚えてはいけないよ」などと言って取り合ってくれなかった。私は図らずも同級生たちの前でとんだ恥をかかされたことになり甚だ不満だった。あまり悔しいのでうちに帰ってから叔父にそのことを確かめたら、「そりゃあ先生が間違うちょらア、お前が言う通りアリゲーターというワニはアマゾン川が本場だ!」と私の意見を支持してくれた。

 だいぶ日にちが経ってから、私はまた社会の授業の終わりにその先生に「やっぱりアマゾン川にはワニがいるそうですよ」と言ったら、先生は笑いながら「わたしがアマゾン川に行ったときはワニは見なかったなあ!」と茶化して、私の意見を無視してしまった。私の知る限りでは、その先生はアマゾンはおろか、若いころに東京にたった一度行ったのが一番の自慢で、とても外国の事情に通じているようにはおもえなかった。

 私は大いに不満だったが、「しょせん田舎の先生の知識なんてボクたち子供の豊かな知識には敵いっこないんだ! 先生も少しは、『少年倶楽部』や『おもしろブック』を読んで、知識を増やす努力をしたらいいのに……」と心の中で叫ぶことで我慢せざるをえなかった。私かこんな経験をしているくらいだったから、他の子供たちも似たり寄ったりの経験がある筈である。

 姉の恵美子などは小学校五年生だったが、学校のしきたりや同級生の風習、勉強のやり方などが東京の学校とあまりに違うので当惑しているようだった。ちょうど大分から引き上げてきていた稗田早苗さんと同じクラスだったが、担任だった古後先生という女の先生がとてもやさしい人だったらしく、まだ友達のいない転入生を庇って悩みを聞き、やさしく受け入れてくれたということを大きくなるまで言っていた。そのせいもあったのだろうが、かえって彼女たちはしばしば同級生たちに意地悪をされたといって良く泣いていた。やれ下敷きを盗まれたとか、やれ髪の毛を引っ張られたとかで、毎日どちらも泣いていない日はないくらいだった。

 掃除当番

 玖珠盆地は雨の多いところである。九州とはいいながらもこの辺りはほとんど日本海側の気候で、雨が多く冬は雪も結構積もる。
 梅雨になって毎日雨が降り続くと未舗装の道路はすっかりぬかるんで、学校には下駄を履いては行ったが、どの子も元気なだけに後撥ねがひどく、走って行ったときなどはズボンのうしろだけでなく上着の背中まで泥が跳ね上がっており、学校に着いても教室に入る際には足洗い場でよく足を洗ってからでなければ上がれないくらいだった。そのため学校ではその頃、渡り廊下の脇に周囲を四角く囲んだ浅いプールのような足洗い場をつくってあった。生徒達が学校に着いたらそのまま足洗い場に入り、ザブザブとその中を歩いて行けば自然に足が綺麗になって、そのまま渡り廊下のすのこの上に上がっていけるようにしていた。きっと満足に下駄も買えない子供にも、裸足のまま通えるようにとの学校側の心配りであったのだろう。

 戦局が悪化するにつれて物資の不足は日に日にひどくなり、砂糖やミルクなどの食料はもちろんのこと、学校には弁当を持ってこない子や着物や履物にも不自由するような子もいた。私に限らず元気な男の子は誰もよく下駄を踏み割ったが、当時は下駄も安かったろうとは思うものの、その都度新しい下駄を買わされる親たちもあの頃は辛かったにちがいない。わたしは自分の下駄を踏み割ると、ついそこにある祖母やマル子おばちゃんの桐下駄を無断で履いたから、よく桐下駄を踏み割って叱られた。

 当時は辰ケ鼻や塚脇などあちこちに下駄工場があって、工場の前の空き地などには木をレンガのように下駄の大きさに切ったブロックを円筒形に高く積み上げているのをよく見掛けたが、こうした下駄工場ではどんどん製造はしていたものの、どういうわけかつくるのは安い杉下駄ばかりで、女ものの桐下駄はなかなかつくらなかった。もちろん私は桐下駄の大事なこと、減りやすくて割れやすいことも知っていたが、女ものの桐下駄は軽くて履き心地がいいので、ちょっと遊びに行くのについ失敬してしまうのである。そして気をつけて履いているつもりなのだが、ちょっとした拍子でよく踏み割った。缶蹴りや隠れんぼ遊びで勢い良く走り回ったりすると、桐下駄はちょっと大きな石を踏んだりするだけですぐ割れてしまう。私があまり度々下駄を踏み割るものだから、うちでは「お前には杉下駄や桐下駄では駄目だ」と言って叔父がよくヘラの木で下駄をつくってくれた。

 ヘラの木はその樹皮が上等な縄になるので貴重な木だったが、樹皮を剥いだあとの木は粘りがあってなかなか割れにくいので男の子の下駄にするには恰好の材料だった。ヘラの生木は薄いクリーム色で明るく、そんなヘラ下駄を履くと油足の私などは一日で真っ黒い足の形がくっきりとっくのだった。ヘラ下駄を履くようになってからは下駄を踏み割る回数は激減したが、そのかわりに鼻緒がよく切れた。

 森小学校は角埋山の山裾の斜面に木造平屋の黒っぽい校舎が二棟建っていて、低学年は下の校舎の西側、つまり「おやま」側の教室が割り当てられていた。教室の南側、つまり校庭側の窓の外には大きな桜の木が並んでいて、桜の花が咲く頃は放課後の掃除当番になると窓ガラスを拭きながらその桜の枝にのり移ったりして遊んだ。廊下の外側はずっと土間が続いており、廊下は土間側に向かって少しだけ傾斜していた。きっと掃除がしやすくつくってあったのだろう。教室と廊下を仕切る板壁には障子張りの窓があって、夏にはこれを開け放てば涼しい風が入ってきたが、教室には四角い大きな木造の火鉢が置いてあるだけだったので、冬の寒さは格別だった。
 
終戦直後は学校も相当お金がなかったようで暖房用の炭もなく、私たちは先生に言われた通り登校の際に家庭からすこしづつ炭をもって行ったが、冬でも雪降りかよほど寒い日でないかぎり火は入らなかった。そのため寒い朝には授業の前に体が暖まるように皆んなで天突き運動というのをやった。まず全員が机の脇に両足を踏ん張って立ち、両手を握ったまま万歳した格好のままゆっくりしゃがむ。そして「ヨイショー」という大きな掛け声を発しながら体を一気に伸ばして両手を天に突き上げるようにする。

 一列が体を伸ばすとき隣の列がしゃがむ。その向こうの列は伸ばすというように交互に競争するがごとく「ヨイショー! ヨイショー!」としゃがんでは伸ばし、伸ばしてはしゃがむのを繰り返すのである。もちろん先生も皆んなの前で一緒にこれをやるので、力を込めてこれを二、三十回もやると先生もみんなも息をハアハア弾ませることになる。縮じこまっていた子供たちはお互いに笑いあって急に元気になり、寒さも薄らぐというわけだ。当時はもちろん素足だったから板の間の教室や廊下はほんとうに冷たかったが、それでも風邪をひいて休んだりする子は少なかった。

 学校では授業が終わっても、自分達の教室、便所、土間、庭などを掃除してからでなければ帰れなかった。裸足で登校した子供は足洗い場を通ってhがるとはいっても、なにしろ生徒の数が多かったから、特に雨の日の廊下や教室の床の汚れかたはひどく、掃除をするにも雑巾はすぐ真っ黒になって拭いても拭いてもなかなか綺麗にならなかった。終いにはどうせ誰れも見ていないのだからと、私たちはしばしばバケツの水を直接床にぶちまけてから足先で雑巾をつまみ、みんなで床の隅々までを濡らすようにした。あまりビチャビチヤに濡らすと先生に直接水をぶちまけたことを見破られるので、それが露見しないように手ですくうように少しずつ広範囲にまき散らした上で、足で雑巾を滑らしていくのである。廊下は土間側にすこし傾斜しているので直接バケツの水をぶちまけても床に水が溜まる心配はないのだが、やはり大量の水をぶちまけると乾くのに時間がかかって具合が悪い。私たちは掃除が面倒になると、先生にばれないよう撒く水の量を加減しながらよくこれをやった。

 掃除が終わると職員室へ行き、入り口の障子戸の前で直立姿勢で「入ってよございますか!」と声を掛ける。中からの「よし!」の声を聞いてから入って週番の先生に「終わりました」と報告に行く。そうすると先生はゆっくり立ち上がって生徒と一緒に現場まで視察に歩いてくる。廊下から教室の床、机の上などをざっと見て回ってから、「まだ床がびしょびしょだな、黒板も汚いままだ! 雑巾はよごれたままで濯いでないナ! 机は曲がっとる! 箒が出しっ放しィ! 塵取りにゴミが入ったままァ! はい、もう一度やり直しィ!」などと言ってなかなか合格を出さない。私たちはいつも、どうして先生はもっと優しく「はいご苦労様、もういいから早く帰りなさい!」と言わないのだろうか、そうすれば自分だってもっと早く帰れるのに……あるいはうちに帰りたくないのだろうか? などと思って、先生の熱心な指導にはあきれるばかりだった。

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山里こども風土記   帆足幸治
森と清流の遊びと伝説と文化の記録

目次
第一の章 こども豊後風土記
第二の章 森小学校の思い出
第三の章 原子爆弾の地響き
第四の章 山里夜話
第五の章 水軍の山城
第六の章 進駐軍と「四つの自由」
第七の章 三味線淵の怪物
第八の章 山間の清流魚
第九の章 曽田ノ池の猛魚の正体
第十の章 「龍門の滝」の五三竹
第十一の章 ゆず里の秋
第十二の章 耶馬渓鉄道
第十三の章 鶏小屋の青大将
第十四の章 田舎独楽の話
第十五の章 玖珠高原の四季
第十六の章 すさまじい野ウサギの喧嘩
第十七の章 モウガンコの下がる頃
第十八の章 峠越えのC58蒸気機関車
第十九の章 修学旅行と俳句先生
第二十の章 童話祭りとキッネの嫁入り
第二十一の章 中学生の農繁期
第二十二の章 赤ゴリラの巻


草の葉ライブラリー
帆足考治著 山里こども風土記 
四月刊行 

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