10年ごとに村人が演じる演劇の村
オーバーアマガウ旅行記 藤掛牧師
アウトバーンを走り、アルプスの麓の村ウンター・アンマーガウに着いたのは夜10時頃だった。明日、その先の村オーバー・アンマーガウで、「キリスト受難劇」を見ることが、この旅行の最後のハイライトである。アンマーは川の名であり、ガウとは「集落」という意味だそうだから、さしずめ、「オーバー」の方は「上アンマー村」、「ウンター」の方は「下アンマー村」といったところだろう。その「上アンマー村」で、10年に一度、村をあげて「受難劇」が上演される。
その時には、「下アンマー村」は観劇者たちの宿泊地となるのである。大きなホテルがあるわけでなく、皆民宿のように、家族が生活しながら客を泊める設備を備えている。我々も、3ヶ所に分かれて泊まった。私達は一番人数の少ないグループで、K牧師とT牧師と私の3人であった。私達の泊まった宿は、夕食は向かいのレストランでとることになっており、遅く着いた私達を、店を開いて待っていてくれたようである。ソーセージとパンだけの、まことに簡単な食事だったが、ビールと共に食べるこの食事はまことにおいしかった。明日の受難劇が楽しみである。
第23日目(7月18日)、いよいよ、オーバー・アンマーガウの「キリスト受難劇」鑑賞の日である。この日のために持参した背広とネクタイに身を固め、シャトル・バスで上アンマー村の受難劇劇場へ向かう。それにしてもこの村は、実に美しい。アルプスの麓の緑豊かな高原の中に、木の柱に白壁、窓辺にはゼラニウムの鉢が並べられた家々が並んでいる。中東やギリシャの乾燥した風景ばかり見てきた我々には、ひときわ心洗われる思いがする。そしてさらにこの村をきわ立たせているのは、多くの家の白壁に、水彩画のような色調の様々な絵が描かれていることである。「グリム童話」を描いたものなどもあり、まさにメルヘンの世界である。私のような無粋な者でも感動するのだから、女性方はたまらないだろう。ぜひ、妻を連れてまた来たいと思った次第である。
「受難劇」は、そのために建てられた大きな劇場で行われる。数千人収容できる客席は、巨大なカマボコ型の屋根で覆われている。然し、舞台には屋根はなく、青天井である。舞台の背景となっている建物の向こうには、木が見え、丘が見え、そして空が見える。そして客席の上を燕が飛んだりする。舞台は大変広く、50人程のコーラス隊が横一列に並んでまだ余りがある。このような大劇場で、しかも第一部は午前9時から昼過ぎまで、昼休みをはさんで第二部は午後2時半から夕方の5時ごろまで、というまさに一日がかりの大ドラマである。
14幕構成になっており、序幕に続いて、第1幕「イエスのエルサレム入城」、第2幕「ベタニアでの友と母との別れ」第3幕「最後のエルサレム行きとユダの裏切りの準備」、第4幕「最後の晩餐」、第5幕「イエスへの裏切り」、第6幕「オリブ山におけるイエスの苦しみと逮捕」、第7幕「アンナスの下での尋問と苦しみ」、第8幕「有罪判決、ユダの後悔、ペトロの裏切りと悔い」、第9幕「ユダの絶望」、第10幕「ピラトとへロデ王の前でのイエス」、第11幕「十字架刑の判決」、第12幕「ゴルゴタの丘への歩み」、第13幕「十字架上の苦しみと死」、第14幕「復活」となっている。
そしてそれぞれの幕の最初に、コーラス隊と独唱者、朗読者が、その幕で演じられる事柄の意味を語り、歌う。この部分が、オーケストラ付きの音楽の部分であり、後は劇である。そのようにして、音楽と劇とによって、キリストの受難の物語を表現していくのである。
大変興味深かったのは、この音楽の部分、つまりその幕で表現される出来事の意味を語る部分のところどころに、旧約聖書においてその事柄を予型的に表していた箇所が、動きのない劇、つまりある場面を静止した人間によって絵のように描くという仕方で示されていることである。舞台の背景の中央に、幕で覆われたステージのような部分があり、その幕が開くと、そこに「人間による絵」が現れるのである。そのような上演の仕方が面白かったが、それ以上に、その「予型」としての旧約の箇所の選び方が興味深かった。
例えば、最後の晩餐の場面の予型として、イスラエルの民が荒野でマナによって養われた場面(出エジプト記16章)と、約束の地カナンの実りであるぶどうが前もって与えられた場面(民数記13章)が示された。これはつまり、最後の晩餐において定められた聖餐が、神がご自身の民を養うために与えてくださる食物であることと、それが終わりの時に約束されている救いを前もって味わわせてくださっているものであるという理解を表しているわけである。また、主イエスのゲッセマネの園における苦しみの予型として、アダムが罪の結果、額に汗してパンを得なければならなくなったこと(創世記3章17から19節)が示されている。このことは、アダムにおける人間の罪と死が、キリストの受難においてゆるされ、新しい命が与えられるという、パウロがローマ書5章で展開している考え方に基づいているのである。
これらの「予型」の存在が示していることは、この受難劇は、キリストの受難の物語を、単に壮大なドラマとして取り上げて上演しているのではない、ということである。むしろ、その受難の物語に、旧約聖書全体の焦点があるという明確な理解があるのである。つまりこの受難劇は、単なる受難劇ではなく、聖書全体を貫く信仰の表現なのである。「序幕」において、まさにこの受難物語全体の意味が語られているが、そのタイトルは「キリストの十字架による贖罪と新しい命」であり、台本の冒頭に記されているその要約の言葉は、「アダムによって楽園の木のところで失われた命が、キリストによって十字架の木のところで回復された」というものである。
この序幕でバスのソロは次のように歌う。「人類はエデンの園から追放された。罪によって暗くされ、死の恐怖の下に。命の木への道は、ああ、塞がれた。み使いの手にある炎の剣によって。けれども、遠いカルバリの丘から、夜の闇をつらぬいて、朝の光が輝いた。十字架の木の枝から、平和のそよ風が世界に吹き渡った」。このように、この受難劇は、キリストの受難に、アダムによって罪に落ちた人類の回復、救いの出来事がある、というメッセージを持っている。そのメッセージが、聖書全体を貫いているという明確な意識が、「予型」において現されているのである。そういう意味でこの受難劇は、芸術としてのみでなく神学的にも非常に優れたものである。やさしく言えば、私たちに聖書の読み方を教え、聖書全体を貫く主題がキリストの十字架と復活であることを示してくれているのである。
オーバー・アンマーガウの「キリスト受難劇」は、1634年にその第1回が上演された。その前年、ペストの蔓延によって多くの人の命が失われる中で、村人たちは神に救いを求め。キリストの受難劇を10年に一度上演することを誓ったのである。出版されている「台本」に序文を書いている教区司祭フランツ・ディートル氏は、このことを次のように述べている。「死の苦しみの中で、人々はイエス・キリストに向き直った。十字架の上で悩みと苦痛と死とを体験し、然しそれによって滅びるのではなくて、私たちの救いを実現し、命を獲得されたイエス・キリストへと。」つまり、主イエス・キリストの十字架の苦しみと死を覚え、その主イエスの死への勝利、復活の命にあずかりたいという願いが、この劇にはめ込まれているのである。このようにして始まった「受難劇」が、今回(1990年)で39回目を迎えるのである。
「受難劇」そのものは、このオーバー・アンマーガウが最初なのではない。このあたりには昔から宗教的民衆劇の伝統があり、「受難劇」はその中でもよく演じられたものだったようである。その起源は、やはり「序文」によると、「イエスの苦しみと死に関する福音の使信を、信仰者たちに、民衆的敬虔においてもたらそうとする典礼的試み」にある。つまりこの劇は、準典礼的な性格を持ったものだったのである。最初は、現在のような劇場においてではなくて、教会に隣接する墓地で上演されたそうである。そのことが、教会における礼拝と、この受難劇の結びつきを表している。つまり、この村をあげての劇は、単なる村人の娯楽ではなくて、人々の信仰生活、教会生活と密接に結びついたものなのである。「序文」はこのようにも語る。「受難劇は今もなおオーバー・アンマーガウの『受難』である。苦しみをもたらすような情熱によってこそ、正しい、また可能な限り最高の上演形態が得られるのである」。
実際この劇を見て思うのは、これは単なる「村芝居」の域を越えたものであるということである。オーケストラも合唱隊も上演者も、すべてが村人の手によって行われるこの劇の準備は、並大抵のことではないだろう。それはまさに「娯楽」ではなくて「受難」を意味するようなことである。この村の人々はそういう「重荷」を負うことを主の前に誓い、その誓いを350年にわたって守り続けてきたのである。その伝統を守っていくためには、苦しい戦いが必要である。やはり「序文」に「内容において、上演者には今日でも苦しい当惑が伴う。即ち、ますます世俗化しつつあるこの時代に、信仰との対話を迫られ、自分が何者であるか、についての鋭い問いを避けて通れない、という当惑である」と言われている。この「受難劇」を上演することを通して、まさに村全体が、主イエスの十字架の出来事を語る聖書の言葉と格闘させられているのである。
台本は、4つの福音書の受難に関する記事を総合するようなものとなっている。このことの意味を「序文」は、第一に、特定の福音書の視点を示すのではなくて、諸福音書全体の救いの使信を描くため、と述べている。さらに、このことによって、イエス・キリストの姿を「現代化」することを避け、できるだけ福音書に忠実に上演することが目指されているのだ、とも言う。そしてそれゆえにこそ、「この劇は時代を越えて意味あるものであり続けるのだ」と言われている。このことは含蓄の深い真理である。聖書に忠実であることによって、「時代遅れ」になるのではない、むしろそれによってこそ、どのように時代が変わっても意味あるものであり続けるのである。信仰とはそういうものなのである。
「受難劇」上演の目的について、「序文」はこのように語る。「この劇は、ただイエスについての知識を得させるのではなく、私たちの救い主であるこのイエスとの出会いへと導こうとするのである」。上演する者も、見る者も、十字架につけられた救い主イエス・キリストとの出会いへと導かれることこそ、この劇の目的なのである。劇場で売られていた解説書の裏表紙にもこのように書かれていた。
「受難劇は、イコン(聖画)でも、博物館の陳列品でもない。それらのものは、現在との関係なしに通り過ぎてしまうことができる。然し受難劇は、常に新しく造り出されなければならない。ここで演奏される音楽は、自らの命の弦においてのみ鳴り響き得るのである。受難劇は、参加者が、自らの人格において命へと呼び覚ますことによってのみ、生きたものとなるのである」。キリストの受難の出来事が、自らの命において鳴り響き、自らの人生において命あるものとなる、それはすばらしいことである。そしてそれは、オーバー・アンマーガウの人々だけの話ではない。私たちの人生が、私たちの教会生活が、常に新しく上演される「キリスト受難劇」となっていくことを求めたいのである。
オーバー・アンマーガウの「キリスト受難劇」について、気づいたことをいくつか述べてみたい。ミュンヘンを中心とする南ドイツのバイエルン地方は、カトリック教会の強いところである。「受難劇」も、カトリックの信仰の伝統の中で生まれ育ったものである。従ってその内容にも、カトリック的色彩がかなり出ているところがある。最もそれを感じるのは、イエスの母マリアの扱いにおいてである。福音書の受難物語には、母マリアは、ヨハネにしか出てこない(19・25~27、しかもヨハネはマリアの名を記していない)。
ところがこの受難劇においては、マリアがあちこちに登場し、重要な役割を演じている。イエスが最後にエルサレムに入場する前に、ベタニアで母マリアに別れを告げたり、マリアとイエスの友人たちが、十字架を負わされたイエスと共にゴルゴタに向かうとか、十字架から降ろされたイエスの遺体が母マリアに抱かれるとかの場面である。中でも、マリアが他の人々と共にゴルゴタに向かう場面の台本はこのようになっている。
マリア
ああ、私は彼(イエス)が一人の罪人のように、罪人たちと共に死へと引いて行かれるのを見ます。これほど大きな苦しみがありましょうか。
ヨハネ
母よ、今、あの方が予告しておられた時が来たのです。これは父のご意志です。あなたが、息子の姿を見ることに耐えられないのではないかと心配です。
マリア
息子をこの上ない苦しみの中に放置しておける母親がありましょうか。私は彼と一緒に苦しみを受けます。あざけりと侮辱を共に負い、彼と共に死にます。
ヨハネ
あなたの力が失われなければよいのですが。
マリア
恐れることはありません。私は神に力を祈り求めました。主は祈りを聞いて下さいました。さあ、彼に従っていきましょう。
全員
母よ、私たちはあなたについていきます。
これは、母マリアを、主イエスの十字架を共に負って歩む信仰者の先頭に立つものとして描き、そのマリアに従うことを通して主イエスに従っていく信仰者の姿を描くという、カトリック的敬虔の明確に現されているくだりである。
また、十字架から降ろされたイエスの遺体を抱いたマリアがこのように語る台詞がある。「かつてベツレヘムで、今カルバリで、父があなたに予告されていたことが実現しました。わが子よ、彼らはあなたの手と足を釘で貫き、槍であなたの胸を刺し貫きました。あなたの苦しみとつらい死は、私の心を剣のように刺しました。然し私はもう絶望しません。あなたが、十字架の上で、人間の罪をあがない、私たち全てを救ったことを私は知っています」。このように、マリアが、主イエスの十字架の死の意味を人々に教えるというのも、カトリックのマリア崇拝から来ていることであろう。
このようにマリアがあちこちに登場して大事な役割を担っていることに、カトリック的色彩が色濃く出ているが、面白いことに、実際の上演においては、先ほどのゴルゴタに向かう場面はカットされていて、演じられなかった。それは何故なのかはわからないが、このことをも含めて、全体的には、マリア崇拝において、ある禁欲がなされており、私たちもそう違和感なく見ることができるという印象を持った。
もう一つ興味深かったのは、ペトロが3度イエスを知らないと言った後、それを悔いる場面の台詞である。「最上の主よ、私は何と深く落ちてしまったのでしょう。私は弱く惨めな者です。友であり師であるあなたを、3度も否んでしまいました。あなたのために死にも赴くと誓ったのに。何と恥ずかしい不忠実。主よ、あなたがなお私に対して、不誠実な私に対して恵みを持っていて下さるなら、どうぞそれを送って下さい。悔いる心の声をお聞き下さい。罪は犯されました、私はそれを消すことができません。然し私はあなたに向かって嘆き、悔います。もう二度と、二度とあなたを離れません。主よ、あなたは私をお見捨てになりません。私の激しい悔いを無視なさいませんね。そうです。あなたは私をゆるして下さいます。それが私の希望です。今から後、私の心の全ての愛はあなたのものです。そして何物も、何物も私を再びあなたから引き離すことはできません。」このように語ってペトロは退場していくのである。
つまり、ペトロの悔いに、ゆるしと救いとを見ているわけである。「外に出て激しく泣いた」あのペトロの悔いをどのように読むかについての一つの示唆であると言えるが、見方を変えれば、この受難劇は、よみがえられた主イエスがマグダラのマリアにご自身を現された場面までで終わっており、その後のペトロへの現れまでは描いていないので、それ以前のところで何とかしてペトロの信仰の回復を語っておきたい、という意識の現れであるようにも思える。つまり、初代のローマ教皇とされるペトロを、裏切り者としたままで劇を終わることはできない、というカトリック的意識がここにもあるような気がするのである。それはかんぐり過ぎだろうか。
オーバー・アンマーガウの「キリスト受難劇」について、もう一つのことを述べておきたい。この劇に対して、ユダヤ人から厳しい批判がなされているのである。それは、この劇の中の、ピラトのもとでのイエスの裁判の場面において、民(ユダヤ人たち)が、「彼(イエス)の血の責任は我々と子孫にある」と叫ぶ台詞(マタイ福音書27章25節)が残されていることに対してである。この言葉が、キリスト教の歴史の中で、キリストの受難の責任はユダヤ人にある、という意味に解釈され、ユダヤ人に対する迫害を生み、それがあのナチスによるホロコースト(ユダヤ人大量虐殺)につながっているからである。それゆえにこの台詞をカットせよ、とユダヤ人たちは要求しているのである。
このことについて、出版されている「台本」の「後書き」として、著名な新約聖書学者ルドルフ・ペシュが短い論説を書いている。ペシュは、この言葉(その血の責任は我々と子孫とにある)は、キリストの受難の責任をユダヤ人に帰し、反ユダヤ主義を正当化するようなものではなくて、むしろ、キリストの受難によって罪のゆるしをうけ、救いにあずかる全ての者、即ちキリスト者、教会こそが、イエスの死に対する責任を負っているのだ、と語る。そして、キリスト教会がそのことを正しく理解せず、ユダヤ人を迫害してきたことは、教会の最大の罪であったと語る。そして、その罪と、それによって引き起こされたユダヤ人虐殺の事実を、おおい隠してしまうのではなく、しっかりと見つめていくために、あの言葉を残しておく意味があるのだ、と語るのである。
ここに、ユダヤ人に対する罪責を今も背負い続けているドイツの教会の姿が見られる。オーバー・アンマーガウの受難劇に関して言えば、あのナチスの時代、いわゆる「ドイツ・キリスト者」が、イエスをユダヤ人としてではなくてアーリア人として描こうとしていた時に、ユダヤ人の一人のラビ(教師)としてのイエスの姿を上演し続けていたのである。つまり、この受難劇には、ナチスの片棒をかついで反ユダヤ主義をあおった責任はないと言えるのである。然し、確かに受難劇はユダヤ人虐殺を助長しはしなかった。然しそれを阻止することもしなかった。今日、我々が、犯された罪の広がりを認識しようとし始めているときに、受難劇が我々の罪責をおおい隠すような働きをするべきではない」とペシュは言う。そういう意味で、「その血の責任は我々と子孫とにある」という台詞を残そうというのである。
そして最後に、彼は観劇者に対してこのように語りかける。「観劇者は、自分と子孫たちとにあの血の責任があると語った者の一人として自らを理解するべきである。そのことによってのみ、我々の今日の歴史的状況にふさわしくあることができる」。それは、ゴルゴタの丘で流されたキリストの血と、アウシュビッツその他の収容所で流されたユダヤ人の血との責任を、自らの上に背負っていこう、ということだろう。「罪責があろうがなかろうが、年を取っていようが若かろうが、われわれはすべてこの過去を引き受けなければなりません。この過去のもたらした結末が、われわれすべての者を打ち、われわれは、この過去にかかずらわないわけにはいかなくなっているのであります。
老人も若者も互いに助け合って、この過去の記憶を生き生きと保つことが、自分たちの生命に関わるほど大切なのは、なぜであるのか、よく理解しうるようにしなければならないし、それは、可能なのであります。この過去を清算することが大切なのではありません。それは、われわれには全く不可能であります。過去を、あとから変更したり、なかったことにすることはできないのです。しかし、過去に対して目を閉じる者は、現在を見る目をも持たないのであります。かつての非人間的な事柄を思い起こしたくないとする者は、新しく起こる非人間的なるものの伝染力に負けてしまうものなのであります」というヴァイツゼッカー大統領の言葉(加藤常昭訳)を思い起こさせる。アルプスの山麓の美しい村オーバー・アンマーガウも、ドイツの歴史的罪責と決して無縁ではないのである。そしてこのような村において、それを信仰によってしっかりと覚え続けようという努力がなされていることに敬意を覚えると同時に、我々の国、我々の教会の姿に対する反省を促されるものがある。
受難劇(passion play)とは、イエス・キリストが十字架で殺され「受難」を受ける過程に関する劇で、特に聖週に世界各地で催されるが、10年に一度村人総出で行われるオーバーアマガウの受難劇がつとに有名である。
17世紀ペストが大流行していた1633年、村民たちはペストの退散を神に祈り「もし祈りが聞き届けられペストの蔓延が収まったならば、感謝のしるしとして10年に一度受難劇を上演する」という誓いを立てたところ、その後この村からペストの死者は出なかった。これをきっかけとして、翌年の1634年に最初の上演がおこなわれた。ナポレオン戦争終結記念やアドルフ・ヒットラーの肝煎りで実施された300周年(1934年)など、例外での上演歴もある。2000年の上演に際しては、原典にあるユダヤ人差別的な内容をめぐってその内容の修正が議論され、その模様はNHKスペシャルにも取り上げられた。
野外劇場で上演され、2,000人以上が出演する。キリストの生涯をたどる劇の主要部分に、それらの場面と対応する旧約聖書のエピソードが活人画として対置される。観客席は5000席。開催される年には、5月から9月にかけて100回以上上演され、上演時間は、途中休憩をはさみながら朝から夕方までになる。2010年の次は2020年の予定であったが、新型コロナウイルスの感染拡大により2022年に延期する旨が2020年3月19日に発表された。2022年5月14日に、2年遅れでの上演がスタートした。開幕の時点で秋の終演までのチケット45万枚のうち、75%が販売済と報じられた。予定通り10月2日まで上演が実施され、最終的にチケットは91%が売れて約41万2000人が観劇した。次回は、当初の前回開催年から10年後の2030年の予定である。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?