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君の生命は最後の一瞬まで光り輝いていた

弔辞  唐牛健太郎を悼む  島成郎
 

 私たちの共通の友人、唐牛健太郎は、さる一九八四年三月四日午後八時二十三分、永い眠りにつきました。本人の遺志と、夫人真喜子さんの強い御希望によって、私が本日の葬祭を司ることになりましたが、生前の唐牛の意に基いて、できるかぎり簡明な形で本葬祭をとり行なうことになりました。しかし今、こうして彼の遺影の前に立ちながら、なぜこの私が唐牛の葬儀を行い、そして告別のことばをのべなければならないのかと思うとき、いいようのない腹立しさと深い悲しみにとらわれざるをえません。
 
 唐牛健太郎の四十七年の生涯は、実に波瀾にみちみちたものでありました。このなかで彼とであい、ともに闘い、ともに生き、そして彼を心から愛した多くの友人たちが、今彼に最後の別れを告げるためにここに集まっております。その友人のひとりとして、唐牛健太郎の生涯の足跡を私なりにたどりながら、その時時の思いをのべることによって、送葬のことばにしたいと思いました。
 
 唐牛は一九三七年二月十一日、北海道函館において生をうけました。そして函館市立湯の川小学校、中学校を経て函館東高校を卒業しましたが、幼少時お父様を失った彼は、母一人子一人の厳しい生活のなかで、早くから独立独歩、お母様を助けながら歩んできました。このため、一九五六年北海道大学に入学しながらもひとり上京し、東京深川の印刷工として働き社会への第一歩を踏みだしました。が、この時期激しく闘われた全学連などの砂川米軍基地拡張反対闘争に参加することなどにより、社会革命の道に身を投ずることを決意した彼は、翌年志を新たにして北海道大学に戻り、優れた組織力と抜群の行動力により北海道大学自治会委員長、さらに五七年には北海道学連委員長となり全道の学生運動の指導にあたりました。
 
 ちょうど時を同じくして、基地反対、原水爆禁止、小選挙区反対などの政治闘争を全国の学生とともに続けていた私たちは、この闘いのなかから、戦後日本の左翼運動を指導してきた既成の諸政党にあきたらず、就中私たち自身所属し、「革命の前衛」を称していた日本共産党と訣別し、さらに国際共産主義の源流であるソビエト共産党をも批判し、新しき革命の思想と行動を求めて一九五八年十二月、共産主義者同盟・ブントを結成しました。唐牛はこのプント創設に北海道の同志とともに加わりましたが、私か初めて彼と出会ったのもこの頃でした。
 
 折も折、戦後日本政治の一つの節目ともなった日米安保条約改訂が日程に上り、これに反対をとなえる人々の運助が大きなうねりとなってきましたが、私たち、ブントと全学連は、この闘いに、全組織、全エネルギーを投入することになりました。新しき思想と行動をとなえ闘うには、それを体現する指導者が必要でした。数多くのすぐれた人々がいましたが、この大きな闘いを指導するにふさわしい人──それは唐牛健太郎以外にはありませんでした。
 
 私たちの強い要請に臆することなく応じ、一九五九年六月、全日本学生自治会総連合(全学連)の中央執行委員長に選出されました。これ以来約一年、全人民的なひろがりをみせていた安保反対の闘いは、日毎に激しさをましていきましたが、その一つ一つの局面をきりひらいていったのはブント・全学連であり、その先頭につねに唐牛健太郎が立っていました。
 
 この闘いは、私たちの予想をもはるかにこえ、一九六〇年六月には日本政治史上空前の大デモンストレーションになり、この最中私たちの若き同志樺美智子を喪いました。アイゼンハウアー米大統領の訪日阻止、岸内閣退陣などの結果をもたらしたとはいえ、六月十八日安保条約は改訂され、私たちの闘いは敗れました。そして、私たちの組織ブントも四分五裂し解体しました。
 
 すでに二度にわたって官憲に逮捕されていた唐牛はこの二重の敗北を多くの同志たちとともに獄中で迎えたのでした。やがて出獄した彼は、この六〇年の未曾有の体験を深く噛みしめながら沈思、彷徨を続けました。この闘いに全身を賭けた私たちは、また新しい道を求めて、それぞれの歩みにつきました。唐牛もやがてまた力強く、自分の道をひとりまさぐりながら、実社会での闘いに挑み始めたのです。



 
 

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