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本屋を作ろう シェイクスピア・アンド・カンパニー書店  part1

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シェイクスピア・アンド・カンパニー書店

シルヴィア・ビーチ  中山未喜訳

1920年代のパリ、若き日のジョイス、エリオット、ヘミングウェイらの外国作家とヴァレリー、ジィド、ラルボーらに、出会いと交流の場を提供したオデオン街の小さな書店の女主人シルヴィア・ビーチが、生き生きと綴る20世紀文学の舞台裏。

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私自身の書店

久しく、私は書店を開きたいと思っていましたが、次第にこの思いはひとつの執念のなっていきました。フランスの書物を売る書店を夢みて、この書店をアドリエンヌ・モリスの書店の支店として、ニューヨークに開くつもりでした。敬愛するフランスの作家たちが、私の国でもっと広く知られるように援助することを望んだのです。私の母は、この無謀ともいえる冒険になけなしの資金を提供すると言ってくれましたが、私はすぐに彼女の僅かな貯金では、到底ニューヨークでの書店づくりなどできないと悟りました。とても残念でしたが、私はこの魅力溢れる計画を放棄せざるを得なかったのです。

私は、私の国にフランスの拠点ともいうべきもの、私の敬愛するアドリエンヌが開設した書店の支店を作ろうという計画が挫折したことを知ったアドリエンは、さぞ落胆するだろうと思いました。ところが落胆どころか、彼女は大変喜んだのです。そして、そのすぐ後に私も大喜びしたのです。というのは、私の書店は、パリでアメリカの書物を売る書店という計画に変更したからです。パリでならば私の資金もずっと長続きするだろうし、効果的だし、ニューヨークよりはパリの方が賃貸料も安く、それに当時は生活費も安上りでした。

私は、こうしたあらゆる条件が有利であることが分りました。それに、私はパリがとても気に入っておりました。本当のことを言えば、この計画こそ、私がパリに定住し、パリジェンヌになる大切な誘因でもあったのです。また、アドリェンヌは書籍販売人として四年の経験を持っていました。彼女は、戦争のさなかに書店を開き、その後も店をずっと続けておりました。彼女は私が店開きをしたら、いろいろ助言しようと約束してくれました。また、多くの客を私のところによこしてくれることも約束してくれました。フランス人はアメリカの新しい作家をとても知りたがっていました。私には、セーヌ河左岸の小さなアメリカ書店は、とても歓迎されるように思われました。

パリで貸店舗を見つけることは大変なことでした。オデオン通りの角を曲ったところの小さなデュビュイトラン通りにある貸店舗を、もしアドリエンヌが気づかなかったなら、私の希望する店をみつけるまでには相当長く待たなくてはならなかったかもしれません。彼女は書店や出版、それに彼女自身の著作などで忙しかったにもかかわらず、なんとか時間の都合をつけては私の開店準備を援助してくれました。

私たちは、急いでデュビュイトラン通りに駈けつけました。この通りの八番地に──この小高い小さな通りの番地は十番地ぐらいしかありませんでした──シャッターをあげたままで「貸店舗」と書いた標識のある店がありました。アドリェンヌは、シーツと上質のリンネルの両方を洗濯できることを表すために、それぞれ二つの扉の上に《gros》と《fin》という文字を指差しながら、この店は以前は洗濯屋だったと説明してくれました。

私たちは管理人に会いました。黒レースのキャップをかぶった管理人の老婆は、このようなパリの古い家の管理人がよく住む、一階と二階の間にある鳥籠のような所に住んでいました。彼女は私たちに建物を案内してくれました。そのとき私は何の躊躇もなく、この建物が私の家になるだろうと心に決めてしまいました。間をガラスの扉で仕切った二つの部屋があり、後側の別の部屋に通ずる階段がついていました。

正面の部屋に暖炉があり、この暖炉の前に、洗濯女のためにアイロンがのせられるストーヴが立っていました。詩人のレオン・ポール・ファルグがこのストーヴのもとの姿をスケッチして、私にいくつものアイロンがのせられていた様子をみせてくれました。彼は洗濯女たちと親しいようでした。多分、下着のアイロンかけをしていた可愛いい洗濯女のせいでしょう。彼はそのスケッチに彼の名を書き込んでありました。

仕切りになっているガラスの扉を眺めていたアドリェソヌは、あることを想い出したのです。彼女はこのガラスの扉を以前見たことがあったのです。まだ子供だった頃、彼女はある日、母親と一緒にこの洗濯屋にやってきたことがあったのです。女たちが忙しく立ち働いている間に、少女はこの扉に突き当ってしまったのです。ガラスは粉々に砕けて飛び散ってしまいました。その上、家に帰ってから母親にひどくお尻を打たれたことも想い出していました。

「ガルースッおばあさん」、この管理人の老婆のことをみんなそう呼んでいました。奥の部屋から少し離れたところについている小さな台所、それにアドリェソヌが衝突したというガラスの扉等々を含めて、この建物すべてがとても私の気に入りました。安い家賃は言うまでもありませんでしたが、最終的に借りる決定をする前に今一度念のため考えてみようと私はこの店を出ました。ガルースツおばあさんも、最良のフランスの習慣に従って、二三日店子として私のことを考えてみようということになりました。

まもなく、プリンストンにいた私の母は、次のような簡単な電報を受け取りました。「パリに書店を開く、送金頼む」彼女はすぐに自分の貯金を全部はたいてお金を送ってきました。


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