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大地が消えた

 
 絵里は高校を卒業すると電子部品工場の組み立て工員となった。正社員だから給料だって悪くないし、従業員の福祉厚生にもよく配慮されていて労働環境はよく整えられていた。バレーボールのクラブがあり、そこで勤務後や休日に仲間とボールを打ち合って汗を流した。毎日同じ部品をはめ込む単純作業でどこかなまっていく肉体と精神が、汗をたっぷりと流すクラブ活動で蘇生されていくかのようだった。組立工の生活はそこそこに満たされていたのだが、しかし自分はこのままでは終わらない。自分の人生はこのまま終わらせはしないと思っていた。

 店を持ちたいという夢があったのだ。どんなに小さな店でもよい。手作りのチーズケーキやチョコレートケーキを薫り高きコーヒーとともに提供する店を。彼女はただ夢見る人ではなかった。目的をさだめたら、ひたむきにそこに向かって突き進んでいくタイプの女性だった。まずは何はともあれも店を出すには資金を作ることだった。だから毎月の給料の三分の一を、夏と冬に支給されるボーナスのほぼ全額を貯金していた。自宅から通っていたから、貯金通帳に記載されていく残高は少しずつ増えていく。預金通帳に打ち込まれる数字は彼女の夢が刻一刻と近づいていく数字でもあった。

 そんな彼女の前に、高校の同級生だった大樹があらわれるのだ。同級生といっても一度も言葉を交わしてことはなかった。一年ごとにクラス変えがあったが三年間別のクラスだったし、クラブ活動は大樹は野球部で、絵里はバレーボール部だった。そんな二人が親密な関係になったのは、高校卒業してから七年後だった。それも偶然のいたずらというか、あるいはもともと二人は赤い糸で結ばれていたということなのか。その日たまたま絵里はカレー屋に入ったのだ。大樹はその店を仕切る店長でありオーナーだった。オーダーされたカツカレーを彼女の前に置くとその同級生は言った。
「君がこの店の最後の客だよ」

 大樹の高校時代は野球部一色の生活だったが、その野球部は甲子園を目指すトーナメントでは一回戦か二回戦で敗北するようなレベルだったし、彼のポジションは捕手だったが、三年間補欠の捕手であり控えの選手だった。高校を卒業すると、宅配便の配送会社に就職したのは、歩合制で高額の報酬が得られるという理由だった。そのとき大樹はすでにカレー店のフランチャイズオーナーになるという具体的な人生の設計をしていたのだ。猛烈に働き、開業資金をためて二十五歳のときにフランチャイズオーナーになった。しかし経営を軌道にのせようと奮闘したが、客足は伸びず、大樹が絵里に君がこの店の最後の客だといったのは、文字通りそのカレー屋の閉店を告げる言葉だった。

 その挫折その敗北で深く落ち込んでいた大樹は、絵里を出会うことでよみがえっていく。二人は恋におちたのだ。そして二人が三十二歳のとき、その恋愛の結実のような店舗「カレー&珈琲館」を開業するのだった。その店は軌道にのった。カレー店失敗の大樹の経験がよく生かされたし、なによりも一歩一歩石橋をたたいて歩いていくような絵里の堅実な姿勢が、リピーターを確実に増やしていったのだ。その店舗を軌道にのせた三年後に、子供を切望していた絵里はとうとう身ごもった。なにかその子は天からの贈り物のように彼女には思えた。

 男の子だった。絵里はその子に、彼女の溢れる希望を託して、大地と名づけようとした。すると大樹は反対した。そんな名前をつけられた子供はかわいそうだ、そんなおおそれた名前を背負って生きていく子供は気の毒だと言って。彼が息子に大地などといったおおそれた名前をつけることに反対したのは、小学生のときの苦い体験ががあるからだった。あるとき担任の教師が大樹を「山村君は大樹じゃなくて小枝ね」って叱ったのだ。それ以来彼には小枝というあだ名がついてしまったのだ。彼につけられた小枝というあだ名は彼のプライドを傷つける屈辱そのものだった。そんな苦い体験から異をとなえたのだが、絵里は、あなたの名前だっておおそれた名前じゃないの、私はあなたの名前に惚れたんだからとやり返したものだ。

 大地は元気よく育っていった。小学校に入ってもこのおおそれた名前でからかわれるようなことはなかった。それどころかだれからも「大ちゃん、大ちゃん」と慕われ、大地のクラス担任になった柴田などは「大地君はクラス一の人気者なんですよ。名は体をあらわすって言いますけど、大地君はみんなを包み込む、まさに大地のような子です」とまで言ってくれた。

 大地はまた一年生のときから地元の少年野球チーム「多摩ファイターズ」に入っていたが、野球少年としての成長もめざましく、彼のポジションは高校時代の父親と同じ捕手だったが、彼は正捕手であり、しかも四番バッターで、多摩ファイターズの中心を担うたくしましい少年に成長していた。




 

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