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ちっぽけな本屋から新しい文学が生まれた    中山末喜

 一九六二年十月六日、本格的な冬の訪れを間近にひかえたパリの静かなアパートで一人のアメリカ女性がひっそりと七十五歳の生涯を閉じた。この女性、シルヴィア・ビーチについては、特に関心のある人たちを除けば、アメリカでも彼女の名前を記憶しているものは今では殆どいないだろうと思われる。かなり詳細なアメリカ文学辞典をめくってみても彼女の名前は発見できないし、たとえ発見できたとしても、生年月日と死亡年月日ぐらいの極く簡単な紹介である。

 それもその筈で、彼女は何ひとつとして文学作品を書き残した訳ではなかった。一九二○年代から三〇年代といえば、アメリカの文学史上ではひとつの両期的な時期であり、この時代をになって登場したアメリカの作家たちが残した、余りにも華々しい文学的功績に比べると、当時パリではおそらく始めての英米書専門のちっぽけな書店を経営していたこの女性の果した役割などは、いやでも影が薄くならざるを得ないだろうし、つい見落とされがちであるのも当然である。それに、この女性の何よりの功績といえば、アイルランド山身の作家、ジェイムズ・ジョイスの『ユリシーズ』を世に送り出したことにあったともいえる。

 かつてT・S・エリオッ卜は、彼女を回顧しながら、この献身的な女性がパリにいなかったなら。ジョイスが果して生きながらえることができたかどうか、また、『ユリシーズ』が果して目の目をみることがあったかどうか疑わしいとさえ述べている。彼女の国際的な活躍とパリで彼女の辿った人生をみると、シルヴィア・ビーチはアメリカの女性というよりは、パリの女性だったと考えた方かよいかもしれない。

 先祖代々牧師を勤める家系の牧師の娘として一八八七年にボルチモアで生れたシルヴィア・ビーチは、これといった目的もなくヨーロッパ旅行に出掛け、一九一七年にパリに着いた。パリは、かつてパリに仕事を持った父とともに暮したことがあったので、彼女としては二度目の滞在であった。彼女は、一九一九年、彼女がたまたま知り合ったアドリェンヌ・モニエというフラソス女性の助けを得て、シェイクスピア・アンド・カンパニイ書店を開くことになり、この書店を、一九四一年ドイツ軍のパリ占領によってやむなく閉鎖するまでの二十二年間をパリで活躍することになった。

 特に、一九二〇年代、この書店がパリの文学的サロンとして、また、文学者たちの根城として重要な役割を果すことになることは、おそらく、彼女自身も当初は予想しなかったことではないかと思われる。この小さな書店を根城に集まった作家や詩人たちは、本書で語られているように。当時すでに名声を確立していた錚々たる文学者たち、たとえば、アンドレ・ジイド、ポール・ヴァレリー、ラルボー、ジェイムズ・ジョイス、エズラ・パウンド、T・S・エリオヅト等々を始めとし、スコット・フィッジエラレドやアーネス・ヘミングウイといった、いわゆる「失われた世代」(The Lost Generation)に属するアメリカの若い作家や詩人たちであり、岡際色豊かなものであった。

 一九二四年、アメリカで最初にシェイクスピア・アンド・カンパニ書店を紹介した〈出版者週報》(Publishers weekly)は次のように報じている。「パリのオデオン座に通ずる小さな狭い通りに吸い込まれるように入って行くと、詩人、劇作家シェイクスピアの肖像を描いた看板が掛っている。この看板の裏側に小さなアメリカの書店がある。この小さな書店が、カルティエ・ラタンの図書愛好家や。パリに在住するイギリス、アメリカの作家たちに及ぼす影響は年を追って大きなものとなりつつある……(略)……ここは、今日の作家たちや明日の作家たちの集いの場であり、作家たちがお互いにインスピレーションを与え合う楊である。

 二〇年代、三〇年代にパリを訪れたアメリカ人で、文学を志向するものならば必ずこの書店を訪れた経験を持っている筈であり、同時に、彼らは。当時のパリでアメリカ人の開くいまひとつの文学サロンであるガートルード・スタイン女史の家をも訪れたことであろう。さらに、前述の《出版者週報》の記事は、ビーチの経営する書店が、一種独得の雰囲気と性格を持つ書店であり、なによりも、ビーチ自身の性格こそが、その最も重要な特色となっているとも伝えている。ビーチが苦心して揃えた骨董品の調度類が、この書店の雰囲気をつくる上で助けになっていたことであろう。一度書店を訪れた作家たちは、二度目に店を訪れる際には、彼らの友人や愛読奢たちを伴ってきたようである。

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