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翼よ、あれが巴里の灯だ  高尾五郎


 ああ、三時十二分。あと七時間もない。ちょっとは眠らなくては。昨日も寝てない。おとといも寝てない。この一週間、睡眠ゼロの快進撃。まったくよくも眠れない日が続くものだわ。何十錠睡眠薬を飲んでもききめなし。睡眠薬って逆に意識を覚醒させていくのよ。人間っていったい何日眠らないでも生きていけるのかしら。いまあたしはその実験をしているみたいなもんね。でももう終り。この謝辞を書き上げたら、ぐっすり眠れる。うじゃうじゃしてた頭のなかがすっからかんになって、よく眠むれるわよ。眠ってない顔なんて悲惨なもん。ばりばりにこわばった顔で彼らに会えないわよ。ジャックは、十時に、ブック・オブ・マンスリーの重役をつれてやってくるわよ。そこで契約書を交わし、私は五百枚になんなんとする原稿と、このいま書き上げる謝辞を渡すと、彼らは二百万ドルの小切手を差し出す。すっからかんになった私のいのちをつなぐ糧道。その小切手を受け取り、契約は完了する。それから進水のセレモニーのはじまり、はじまり! シャンペンはたっぷりと冷やしてあるのよ。それをぽんと景気よく抜いて、グラスにとくとくとくと注いで、乾杯、ポンボヤージュ! グラスをかちんかちんとぶつけて、それからすすすすすと啜る。あの冷たい液体、田畑を潤す水のように、喉を流れ落ちていくあの悪魔の水。もちろん私はその一杯で終りよ、それ以上手をださないわよ。私の体質はもう酒を受けつけないの。そういう体質になっているのよ。これから取り組まなければならない仕事がいっぱいあるの。ノンフィクションを書いていると、猛烈にフィクションが書きたくなった。まるで石油が噴出するみたいに私の中からあふれ出てくる。彼らは叫んでいるのよ。生み出してくれって。生み落としてくれってね。二百万ドルの小切手を手にしたら、もうニューヨークを、おさらばね。今度はモンタナあたりの田舎にコテージを構えて、あふれ出てくフィクションに立ち向かうのよ。それが私の本当の仕事、レリーズ・カーの仕事、アルコールなんかにおぼれるひまはもう私にはないの。

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