翼よ、あれが巴里の灯だ 高尾五郎
レリーズ・カーは寡作な作家だが、しかし長い月日をかけて書く一作一作には力があり、新作が発表されるたびに長文の書評がでるほどだった。五年前に世に出した「ある晴れた日に」はピューリッア賞の候補になった。しかしその作品を書いたあたりから彼女はまったく小説が書けなくなっていった。彼女の存在そのものを打ち倒すばかりの危機に見舞われた。
彼女は二十七歳のとき、銀行員のジャック・ジョブズと結婚した。ジャックはレリーズの才能を愛するよき夫だった。感情の起伏の激しいレリーズと違って、温厚な性格をもったジャックは、彼女をつつみこむようにして家庭をつくっていった。その平穏な落ち着いた生活のなかで、レリーズは一連の傑作をうみだしていったのである。しかしそんな生活も結婚十五年目に破綻してしまった。ある日、ジャックが突然切り出してきたのだ。「ぼくに好きな人ができた。これからの人生を彼女と生活することにする。すまないが、この家を出ていく。ぼくを許して欲しい」と。ジャックはそう一方的に宣言して家を出ていくのだが、そのとき彼女をさらに打ち砕いたのは、二人の娘もまたジャックと行動をともにしたのだった。
空っぽになった家は、彼女の心までも空っぽにしてしまった。次第に酒におぼれ、朝から酒びたりの生活になっていった。アルコールが彼女の内臓や骨にまで浸食していく。それはまるで自爆していくかのような溺れ方だった。彼女のような知性の人間には、自己を崩壊させるにも創造が必要だった。彼女の相棒はマーラーだった。マーラーを聴きながら崩壊という創造を深めていくのだった。十九世紀の音楽を締めくくり、二十世紀の音楽を切り開いていったマーラーは、なにか彼女の双生児のように思えた。マーラーの長大な作品を次々に蓄音機にのせ音量を一杯に上げ、百人ものオーケストラを自在にあやつる指揮者となって、ときはやさしく、消え入るばかりに弱々しく、しかしその長大なシンフォニーが一転して嵐の海のようになると、彼女もまた気が狂うばかりの激しさでタクトをふるう。高揚と興奮のなかで、酒をすすりながら、彼女は崩壊の音楽を奏でるのだった。
崩壊寸前だったそのとき一人の女性が彼女の家に現れる。その女はアンナ・ハンブトウマンと名乗った。ときたまこうして彼女の小説のファンが訪れるのだが、そんな一人なのだろうと追い返そうとした。しかしその女はこういったのだ。「夫の無実の罪を晴らしてほしい。夫は子供を誘拐などしてない。誘拐という事実がないのに、どうして子供を殺せるのだ。この国は無実の人間を処刑したのだ。この濡れ衣を晴らしてくれるのはあなたしかいない」。レリーズの前作「ある晴れた日に」は無実の罪で囚われた女性が、二十年という月日をかけて身の潔白を晴らす物語だった。アンナはこの小説をまるで聖書のように読み返していたというのだ。彼女はあのリンドバーグ事件の誘拐者の夫人だったのだ。しかしレリーズは、いらいらしながらドアを閉ざした。