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私もまた出家して尼さんになります

 鶴岡宮での炊き出し会がはじまって、すでに三か月が過ぎた。この炊き出しが行われる日は、朝から子供たちが鶴岡宮に連なり、いまでは三百を越える子供たちがやってくる。その子供たちすべてが家なき子ばかりではなかった。親もいるし帰る家もある子供たちも混じり込んでいた。そのあたりをどのように規制するのか奉仕団の中でも議論されたが、しかしこの炊き出し会に列をつくる子供たちの境遇はいずれも貧しく、どの子も列に並ばねばならぬ必然性があった。そんなことから子供ならば拒まずにだれにでも一献を与えることにした。
 慶子はこの鶴岡宮奉仕団の一つの軸だった。はじめのころ彼女に注がれる視線は冷ややかなものだった。高官たちの生活の様式が次第に都風になり、女たちは館のなかに閉じこもる風習が次第に浸透していった。とりわけ嫁入り前の娘には厳しく、屋敷から一歩も外に出ないという貴族風の道徳が確立されつつあった。そんななか慶子はそんな道徳などどこ吹く風とばかりに出歩き、ときには籠を背負って穀物や野菜などを運んだりする。鶴岡宮の森では、鉢巻をして、衣服をたすき掛けにしてからめ、大ナタを振り下ろして薪を割ったりする。
 しかし三浦の館ではそれが当たり前のことだった。鎌倉の武士たちはもとをただせば農民であり、いまでも地方に在地する武士たちは農耕の生活を基本にしていた。三浦家はこの鎌倉でもその生活を引きずっていて、義村の妻もまた夫についてよく畑にでて野良の仕事をした。そんな家庭で育った慶子にとって、奉仕団で米を研いだり、野菜を切ったり、薪を割ったりすることなど自然なことだったのである。
 その日の炊き出し会も終わり、慶子が鶴岡を後にするのはもう夕刻だった。三浦の館に住居をもつ武者の娘たちの一団とともに鶴岡宮の坂を下っているとき、お芳という女がいつもと違って何か沈みこんで歩く慶子を見て、
「どうしたのですか、慶子さま?」
 するとおのぶという少女が慶子の顔をのぞきこむと、何か驚いたように、
「あ、お嬢さまが泣いている」
 慶子はあわてて涙を拭うと、
「ばかね、泣いてなんかいないわよ、どうして泣かなければいけないの」
 と二人に言った。しかししばらく歩くと、また新しい涙がこぼれてくる。
 館に戻ると、母親の麻の方が、彼女の帰りを待っていたかのように、
「父上が、あなたにお話があるそうですよ」
 義村の居室に入って、ただいま戻りましたと帰宅の挨拶をした。夕の膳を前にして酒を呑んでいた義村は、娘から視線をそらしまたぐいと杯を傾けた。娘のあとについてきた麻の方もそこに座すと、義村に催促するように、
「あなた‥‥‥」
「うむ、実はな、慶子、そちにまた縁談が持ち込まれた、伊賀左衛門どのの子息だ、大変よい話だと、話だけはうかがってきたが、先方ではもしお前が承諾するなら、この話をすぐにでもまとめたいということだ」
 義村に呼応するように麻の方も、
「伊賀さまの親族には、大須賀さまなどがおられるし、駿河の国に領地をもつ有力な後家人だと聞きます、あなたも、そろそろこのあたりで、片付かなければなりませんよ」
「どうだ、話をまとめてみるか」
 しかし慶子は決然たる口調で、
「いいえ、お断りします、慶子はどなたの所にもお嫁にはまいりません」
「またそんなことを言う、いつもそちは同じことを言う」
「そうですよ、あなたももう十九、これからはこんなよいお話はどんどん少なくなっていくものです」
「私はだれとも婚姻いたしません」
「公暁さまは‥‥‥」
 と麻の方が口をはさむと、慶子はきっとなって、
「公暁さまは関係がありません」
「あなたの心のなかに公暁さまがいることはわかっています、しかし公暁さまはもう出家なさった方、だいいち公暁さまとは‥‥‥」
「公暁さまとは関係がないって言ったでしょう、私もまた出家して尼になりますから、そんな話はすぐにお断りして下さい」
 慶子は部屋を出ると、また新しい涙がこぼれてくる。
 それは公暁が、都より鎌倉に戻ってきた四日後のことだった。慶子のもとに、鶴岡宮から差し迎えの牛車がやってきた。一人で牛車に乗るなどはじめてのことだった。慶子の胸は張り裂けるばかりだった。とうとう公暁さまは、あのときの約束を果たすために戻ってきたのだ。私もまたあのときの約束を守り通した。あの二人の誓いが、いよいよ実現されるのだと。
 牛車はぐるりと森を抜け、鶴岡宮の後方に立つ本殿の前に止まった。執事の出迎えをうけ、彼女は一室に案内された。その部屋に公暁が座っていた。鮮やかな朱と緑が入り交じる僧衣を纏った公暁を眼にしたとき、慶子は一瞬くらっとなったほとだった。
「美しい姫になったな」
 と公暁が声をかけてきた。
「公暁さまも、ご立派におなりになりました」
 慶子はそう答えるのがやっとだった。
 公暁は月日を埋めるように、園城寺での生活のことを語った。公暁は雄弁だった。話は難しい。しかしやっぱり対座する公暁は、あのときの公暁なのだ。そのたくましい手は、あの杣小屋で、彼女の衣服を剥いだ手だ。ひたと見すえるその眼は、あの杣小屋で、彼女の衣服のなかを覗きこんだ眼だ。
「鎌倉に戻ってきたとき、まずおれの眼を悲しくさせたのは、ぼろ着で浮浪する子供たちだった、馬を進めながらおれはその子供たちばかりを見ていた、その子供たちもおれに眼を向けてくるのだ、子供たちの眼とおれの眼がからみあっていく、そのとき思ったのだ、おれが鎌倉でする最初の仕事はこれなのだと」
 公暁はさらに慶子のなかに入ってきた。
「都では貴族たちの家によく出入りしていた、そこで見たのは彼らの頽廃だった、とくに女たちが漂わすけだるさをおれは嫌悪した、どんなに美しく着飾ろうとも、おれには彼女たちが美しくは見えなかった、おれが都の女たちを嫌悪したのは、たぶんおれが鎌倉の女たちを知っていたからだろう。鎌倉の女たちはだれもが働きものだ、とくに三浦の女たちはそうだった、そなたの母上もまたそうだった、武士たちが鎌倉に幕府を打ち立てることができたのは、まことにこの女たちの働きにあったのだ。
 それで、そのとき、浮浪する子供たちに炊き出しをしようと思案したとき、おれの頭に真っ先に浮かんだのはそなたなのだ、そなたの手を借りることによって、炊き出しの会は打ち立てられると思ったのだ、おれはいまそなたの手を借りたい、そなたが軸となって御家人や武者の娘たちに声を掛け、奉仕団の活動をつくりだして欲しいのだ」
 しかし公暁の話はそこまでだった。
 帰路につく牛車のなかで、慶子は深い落胆に堪えなければならなかった。ひそかに交わしたあの約束のことに公暁は少しも触れなかった。まるであの日の出来事など、彼の心にはなんの痕跡も残していないかのようだった。しかしと、慶子は涙ぐむ自分を振り払って思い直した。公暁さまはあのときの約束を果たすために、奉仕団の仕事を慶子に頼んだのだと。
 それから四か月。奉仕団は軌道に乗り、さらにその活動は興隆していった。しかし公暁は、やはりあのときの約束に一言も触れることはなかった。それどころかむしろ慶子から離れていくのだ。最近では彼女を避けるかのようだった。
 この日もそうだったのだ。炊き出しの汁と飯をつくると、その最初の一献をまず公暁に届けることになっていた。この日はその一献を盆にのせて公暁に届けたのは慶子だった。公暁は本殿の別当執務室で書き物をしていた。彼女がその汁と飯を差し出すと、
「ああ、そこに置いてくれ」
 それだけなのだ。ちらりとも慶子を見なかった。なんという冷たさなのだ。あの恥ずかしいことをした仲ではないか。あの恥ずかしいことをしたとき、破ってはならぬ約束を交わした仲ではないか。
 鎌倉の北面に鷲峰山がどっしりとその裾を広げているが、その山林のなかに朽ちた杣小屋があった。公暁が善哉と呼ばれていた頃、そこは子供たちの秘密基地で、公暁はしばしば三浦や御家人の子供たちを引き連れてその小屋にでかけては、戦乱ごっこなどをして日が暮れるまで遊んでいたものだ。
 女子もまた公暁たちのあとについて、その基地に出かけることがよくあった。その日、公暁は慶子一人を仲間から引き離すと、二人だけでその杣小屋に入った。そして公暁は、あらがう慶子をなだめながら、彼女の着衣を剥いでいった。
「お前のものを見せてくれ」
「そんな、それはだめです」
「お前のものを見たいんだ」
「そんなことしていいんですか」
「いいんだ、慶子はおれのお嫁さんになる人だから許されるのだ」
「そんなことできません」
「おれのお嫁さんになりたくないのか」
「それは、それは‥‥‥」
「慶子をお嫁さんにする人だけには見せてもいいんだ」
 公暁は慶子の着衣を開いた。少女の白い脚はかたく閉じられている。
「すべすべしている、やわらかいなあ、赤ちゃんの肌みたいだ」
 慶子の全身は恥じらいで朱に染まり、なにか宙を浮揚しているようだった。すると、公暁は、
「おれのも見せてやる」
と言って、彼のぷりぷりしたものを握らせた。
「いいか、慶子、これがお前のここに入っていくんだ、慶子とおれが結ばれるということはこういうことなんだ、いいな、ここには誰も入れてはいけないよ、ここはおれだけが入るところだからね」
 そんな子供の儀式をしたのは、公暁が来るべき自分の運命を知っていたからなのだろうか。それから一か月もしないうちに、公暁は突然京に出立するのだ。
 その出発の前日、公暁は三浦邸にしのびこみ、慶子をつかまえると、苦しみを吐き出すように言った。
「おれは都などにいきたくない、それなのに大人は無理やり遠くに追いやる、しかし、おれはかならず帰ってくる、だからおれを待っていてくれ、おれはかならず慶子のもとに帰ってくるからな」
 公暁が鎌倉に戻ってきたのは、あのときの約束を果たすためではなかったのか。奉仕団の仕事をさせたのも、その約束を果たすためではなかったのか。その夜、床に入ってからも、止めどなく悲しみの涙があふれてくるのだった。

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