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愛しき日々は──馬糞を踏んだあの輝き      菅原千恵子

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大きくなれと馬糞を踏んだあの日の輝き 

 私は自分の生まれた場所の記憶がまるでない。父は獣医だったので、戦時中は、宮城県の北の片田舎の池月という種畜場で軍馬の増産のため、人口受精を行う仕事についていた。
 私はこの池月という辺鄙な牧場で生まれた。上には八つ違いの姉と、五つ違いの姉がいて、父は三人目も女と知ったときには首をうなだれるほどがっかりしたという。

 戦後とはいっても、まだ国内の物質は少なく、いたるところに戦争の影が尾を引いていた時代であった。終戦と知ったとき、父は池月の小さな牧場で「自分も死ぬ」と言って日本刀を前にして正座したのを、母が必死にひきとめたという逸話もあり、それがまだ新しい話として人の口に上っていた。本気で死を考えていたかどうか、その辺のところは、はなはだ疑わしく、終戦の二週間前に召集令状が来ていたというのだから、一応、生き延びてしまったことに対する後ろめたさと、男らしさを家族に示すためのポーズだったのかもしれない。
「あのとき死んでいたら、とても三人目の子は生まれなかったろうに」という友人たちのひやかしを受けながら、父は私の産湯を使わせるために、苦労して進駐軍から黒蜜石鹸を手に入れた。

 この時のことを、父はよほど印象が強く残っていたのか、後で私に何度も話してくれた。たいていは、夏の夜のほろ酔いの席であったり、私の誕生日であったりした。最後に聞いたのは、私の結婚相手である夫を家に連れていった時のことだった。最後の末娘もいよいよこれで結婚すると観念したとき、父の頭の中には、若かった当時の自分と再生日本のほの明かりを将来に見ながら生まれてきた私の誕生当時が、何層にも重なって思い出されたのかもしれない。

 終戦と知った時、希望のひとかけらも失ったと嘆いた男たちを立ち上がらせてくれたのは、戦後の重圧から解放されて急に明るくのびあがった女達と、その女達が生んだ子供達によってではなかっただろうか。終戦の時、女達はあんなに明るく笑ってイモを食べていたと言ったのは、確か、三島由起夫ではなかったろうかと今思うのだが、そうした屈託のない女と子供達に引きずられるようにして男達は顔を上げて歩き始めた。そこから後は言うまでもない。復員兵がどっと帰ってきて、日本は空前のベビーブームになったのだ。もちろん私もそのベビーブームの落とし子として今日あるのだが。

 さて、私が幼稚園に上る頃には、父も種畜場を離れ、古川市の家畜保健所長となって岩出山という小さな城下町に移り住んでいた。伊達正宗が米沢から青葉城に移る前に過ごしたところが岩出山であり、そこに彼は城山を築いた。鬼頭や鳴子温泉を北西にひかえ、栗駒山系から、一大水田地帯の大崎平野へ注ぐ江合川のほとりに開けた、水の清らかな小さな田舎町である。名産とて特になく、しいて挙げれば、農家の副業として作られていたザル製品と、冬の厳しい寒さを利用した凍豆腐、それに納豆であった。

 納豆は両端が縛られたワラに包まれており、私達はそれを「ツトコナットウ」と呼んでいたが、冬になると父が汗だくになって東京の知人達にその納豆をリンゴ箱一杯に詰めてそれぞれ送っていたのを思い出す。今考えれば、納豆をリンゴ箱一杯に送られた方でもありがた迷惑だったろうと思うのだが、毋と二人で汗だくで荷作りしている父の姿を見ていた私は、岩出山の納豆こそ世界一の(といっても世界を知らないのだが)名産だと信じていた。それだけに、大きくなって水戸納豆こそが全国に名を知られている名産品だと知った時にはひどいショックを受けたものだ。

 子供とはなんと素直に自分の環境を信頼し、誇りに思うことだろう。私はこんな小さな田舎町で、殆ど毎朝納豆を食べて幼少期を過ごした。
 名産とて特にないこの町にもベビーブームの波は押し寄せていた。納豆しかなくても、子供達だけは溢れていた。犬もあるけば棒に当たるというけれど、ひとたび玄関の外に出れば子供にぶつかる。遊び友達に不自由するなど、ただの一度もなかったが、むしろ多すぎるための小競り合いや、思いも寄らぬ遊びへの発展はしょっちゅうであった。

 私達子供はとにかく外で群れていた。それも道路でだった。家々の前の道は、コンクリートやアスファルト舗装ではない。踏み固められた黒土が、しっとりとわずかな水分を含んで、曲りくねった羊羹のように続いていた。誰もが裸足で遊んでいる。女の子は、通学の時でさえ、下駄やポックリをはいていたが、それは走ったり、縄跳びをするのに邪魔だったし、男の方は黒いゴム靴をはいているので、ちょっと歩いて汗をかけばクチュクチュという音を立てて歩きにくかった。そこでたいていの子供は遊ぶときになれば、履き物を木の下などにまとめておいて裸足になっているのだ。学齢前の小さな子供達も、上の子にならって、みな裸足で遊んでいるのだ。足は解放され、黒々とした羊羹のような地面にヒタッと吸い付くようになじんで、忘れ得ぬ心地よさであった。

 ある時、新鮮な馬糞を足で踏むと、背も足も大きくなるということが子供達の間で話題となっていた。子供というものは小さいということに異常なまでコンプレックスを持っているものだ。だからその話題について皆、誰もが強く心惹かれていた。ましてや学齢前の子供達六、七人にはかなり魅惑的な話だった。何とか出来たての馬糞を踏んで大きくなろうじゃないかということになり、私達は馬糞探しに繰り出した。

 終戦から九年もたっていたのに、その町では、日常の大きな荷物の運搬にはまだ馬車が使われていた。本通りでは、一日に数回、バスやトラックが通っていたが、裏通りはは至ってのんびりとしていた。
 私達はしばらくあちこちで馬糞探しをしていたが、なかなか出来たては見つからなかった。半分乾いているのや、まるで乾ききっていてワラの繊維だけが白く固まっているものなどはいくつか見つけたが、それでは効き目がないのだ。そこへ夕方の仕事を終えた馬車が材木のようなものを積んで通りかかった。私達はワアーツと歓声を上げて迎えたが、馬車は何事もなく通り過ぎようとしていた。

 そのとき弓二という男の子が「馬あ、ウンコたれろ、馬あウンコたれろ‥‥‥‥」と連呼して馬車の後から走り出した。私達もつられて大声いっぱいに叫びながら、その後についていった。たぶん、馬は私達の言葉を理解したか、あるいはその騒ぎに驚いたのだろう。それまで、便意があったとはとても思われなかったのに、突然ポクツ、ポクツと、大きな出来たての糞を二つも落としていったのだった。秋も深まった夕暮れの道に、大きな二つの糞は、うっすらと湯気をたて、私達はそれを取り囲んで大きく息を吐いた。びっくりしたのだ、馬が本当にウンコをしたことに。そして、誰がいったい最初に踏むのか、小さいながら、それはみんなの最大の関心事であったと思う。

 私達はお互いに顔を見合わせた。馬の糞とはいえ、やはり新しいのはそれらしく匂っている。
「みんなどけ、おら踏むべ」

 弓二が先陣を切った。弓二は頭におできやかさぶたがいくっもあって、年上の子達から、「カサコ山」と呼ばれている。いつもは汚らしい坊主頭で女の子達に通せんぼなどするものだから、私は何かと嫌っていたが、この時ばかりは尊敬の念で彼を眺めた。カサコ山の一声に、私達はじりじりと離れた。カサコ山は、私達仲間の視線を十分に意識していた。小さくて汚れた手のひらにペッペツとつばを吐くと、「エイツ」とばかり、盛り上がった馬糞の中に片足を入れた。カサコ山の口がちょっとゆがんで、奇妙な顔をしたのはほんの一瞬であった。ワアッーという仲間の歓声とともに、カサコ山は糞から片足を抜き、みんなの顔をぐるっと見回すと、歯ぐきを出してわらった。信夫が憧れの目で言った。
「弓二ちゃんは、すぐに大きくなっぺなあ」
 
 私は信夫のその一言で、糞の中に素足で入る決心をしていた。
「ちこちゃん、止めな、止めなってばあ」
 いつもくっついて遊んでいる淳子ちゃんが私の手を引っ張ったが、私は迷わなかった。三人姉妹の末っ子で、私はいつだって最後のみそっかすだ。冬になったら履かされる私の足袋の大きさは、七文半。猫の足のように小さいからと、ニャニャモンハンと家族にからかわれていた。今こそ大きくなるチャンスなのだ。私は思いきって両足を馬糞の中に入れた。ゴニャツとして生温かかった。周りからはワアーワアーという歓声が上がり、その後はみんな次々と先を争って馬糞の中に足を入れた。私達は興奮していた。踏みつけ、地面にこすりつけたりして、もう馬の糞の盛り上がりなどどこにもない。のしたギョウザの皮のように薄くなって、黒い地面の中にあくまでも黄色に近い黄緑色の模様が広がっていた。

 その年の秋が終わるまで、私達は馬の糞に足を入れ、騒いで遊んだが、次の年には、その遊びはもう流行らなくなっていた。というのも、年が明けた春には、全員小学校に入学する年齢となっていたので、少しは分別が付いていたからかもしれない。あるいは、あれほどの馬糞踏みに熱中したにもかかわらず、一向に足が大きくならなかったからかもしれない。

 幼い時を過ごした岩出山という小さな町は、一見のどかで、事件らしいものなど何一つ起こりそうになく、今現在、私たちか過ごしているような生活のリズムを知っているものから見れば、それは退屈な日々の営みが永遠にくり返されているような町に見えたことだろう。

 確かに、現代の私たちをとりまいている事象、または実際に起きている事件の数々を思い浮かべれば、昭和二〇年代後半の東北の田舎町など、眠っているも同然の無風地帯であったかもしれない。

 しかし、実際にそこに暮らしてみれば、無風地帯と思えるような所であっても、人の住む所には、人の数だけの感情が交錯し、いかに狭く小さな地域社会であっても、そこか世界の全てであったように私には思われる。
 ましてや、その小さな地域社会の中にあって、その社会を形成している最小単位の子どもたちは、その社会と深くかかわり、子供であるゆえに、そこから抜け出す道があることさえ知らず、その社会を信じて育っていくのである。

 だとすれば、透明な光と清らかな水に恵まれた自然を世界の全てと思って幼少期を過ごした私は実に幸福であった。そして、全ての幼い頃の記憶は、この小さな街で過ごした季節とともに残されている。

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草の葉ライブラリー                         菅原千恵子著「愛しき日々はかく過ぎにき」              近刊

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