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千曲川 1  小宮山量平

小宮山量平さんの「千曲川」が雑誌「草の葉」で登場したのは1995年のことだった。そのとき小宮山さんは八十歳だった。この長編小説を刊行すると、長年の内部に渦巻いていた創造のマグマを噴きあげるかのように、「千曲川」の第二部、第三部、第四部を相次いで刊行していった。小宮山さんが去って十年になる。いまではその存在さえ忘却の底に消されていくが、小宮山さんがこの地上の刻み込んでいった言葉は、古びてすたれていくどころか、いよいよ生の力と輝きをはなっていく。《草の葉ライブラリー》は新しい編集のもとに「小宮山量平読本」を新しい年に刊行する。


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千曲川  そして明日の海へ  小宮山量平


はじめに

同胞(とも)よ 地は貧しい
われらは
豊かな種子(たね)を 蒔かなければならない

 この詩が私の心に宿ったのは、いつのことであったろうか。それを知った日のことを、書きつけておきたい。いや、そんなことばにゆさぶられつづけた、あの時、この時のことを、語っておきたい。そう思いつづけて、年月は過ぎた。ともあれ、そのころ、まだ私は若かった。
 あの日、私の前に一体の農夫の像があった。その木彫りの農夫は、大きな洋風の鋤に片足をかけ、両手はしっかりとその柄を握り、今しも眼の前の大地を、深ぶかと耕そうとしている。そんな等身大の彫像の台座に、この詩は刻まれていたのである。
 息子たちよ、今その詩を君たちに送ろう。
 孫たちよ、今その詩を君たちに伝えよう。
 私たちを結びつけているのは、同じ大地のそんな温もりなのだ。この温もりに心がふるい立つ人間の雄々しさについて、その瞳のかがやきについて、語り合えるかぎり私たちはつねに同時代人なのだ。お互いの心に生きつづける同胞(とも)なのだ。──さて、この物語は、私がそんな木彫りの像の前で、心のおののきをおぼえたその日から、さらに十年をさかのぼった少年の日から始まる‥‥。


           第一章 《その子》の誕生


《その子》が、ぼくの心に、ひっそりと生まれたのは、ぼくが十歳のときのことだったろうか。その子は、いつも、つんつんと匂うような紺がすりのきものを着て、まあたらしい桐のげたをはいていた。とくに、しゃっきりとむすんだちりめんのおびの大きなしぼりのもようが、その子のおしりの上で、ゆさゆさとゆれる。ぼくには、それがまばゆかった。
 その子は、よく走る子で、いつもお河童(かっぱ)頭に風を受けながら、どこからか走ってきては、どこへともなく消えてゆく。その子が消えたあとまで、おびのむすびめのしぼりもようは、ぼくの目のなかに、くっきりと揺れのこるのだった。
 ぼくはその子のことを、だれにも知られないように、そっと、心のおくに、しまいつづけていたものだ。時として、その子のうしろ姿に「おーい」と、呼びかけたりすることもあったが、一しゅん、その子は、ちらりとふり返るだけで、たちまち消えてしまうのだった。きっとたいへんなはにかみ屋なんだろう、と、ぼくは思いつづけてきた。

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 たしか、大正十五年、ぼくが四年生の秋の大運動会の日のことだった。そのころ、上田市では市内五つの小学校の四年生以上の子どもたちはみんな、中央小学校に集まっての合同運動会なのであった。その日は町じゅうがお祭りさわぎになるほど、大人たちの心までが湧き返る。どの遊技も競争も、それぞれ対抗試合のように燃えあがり、応援の歌ごえも歓声も、街の大通りまでもひびきわたるのだった。とくに各学年別の対抗リレーは、人びとを熱狂させた。
 ちょうど午前中の各種目が進んで、ひる休みになる前に、まず四年生のリレーが始まった。市の西はずれに近い、農家の子の多い西小学校は、各学年とも目をみはるほど強くて、四人の女子選手が走り終えた前半だけで、二位に二十メートル以上の差をつけていたろうか。それを受け継いだ男子のトップが、さらにその差を三十メートルにひろげ、アンカーのぼくがバトンを受けたときには、五十メートル近い差がついていた。はげしい歓声のなかをゴールにとびこんだぼくが、一位の旗を持たせられて、表彰席のほうへ向かったそのとたん、柳沢先生が、ぼくを呼びとめた。
「その旗は、金ちゃんにわたして、お前は、急用だ!」
 先生は、うむをいわせずぼくの手を引いて走ると、グラウンドをかこむ人びとの群れのそとへ抜け出た。そこに、ぼくの家のとなりの福松おじさんが待っている。その背中に、あっというまに、ぼくは負われてしまった。
(おらあ、自分で走れるぞ!)と、もがいてみても、降ろしてはくれない。まるで怒ってでもいるかのように、福松おじさんは黙って走りつづけるのだった。
 ようやぐ、ぼくの家の土蔵の前まできて、ぼくは降ろされた。門口で待ちかまえていた佐久のおぱあちゃんが、福松おじさんの顔を見るなり、ゆっくり首を左右にふった。とたんに、おじさんは「うっ」とうめき、土蔵の腰板に身をよせるなり、肩をふるわせた。‥‥あんなにも急いでくれたのに、ぼくは、お父さんの死にめに間に合わなかったらしい。
 おばあちゃんに押されるように、門口から土間をとおりぬけ、離れの病室への渡り廊下へとさしかかったときには、もう、線香のかおりが、うっすらとただよっていた。おばあちゃんとぼくとが、その部屋に入ったとたん、姉ちゃんたちの泣き声の合奏が、いちだんと高まった。
《その子》が姿をあらわしたのは、その日の夜もふけてからだった。おとうさんの死に顔をかこんで、しだいに人びとがふえたり、泣き声が高まったりしても、ぼくはただきょとんとしているばかりで、涙なんか出ようともしなかった。そのうちに、親戚のいとこたちがあらわれると、何やらたのしいことでも始まったかのように、ぼくたちはむやみにはしゃいで、大人たちにたしなめられたりしていた。あげくのはてには、裏庭のほうへ追いやられて、子ども同士の遊びとなった。
 そんなにぎにぎしさが過ぎ去って、おとうさんのからだも棺におさめられ、灯明につつまれ、やがて、はてしもない念佛がもんもんとつづく時刻になると、ぼくは、佐久のおばあちゃんのひざにもたれて、ぐったりと眠りこけるありさまであった。
「あんなに運動会でとびまわったあとだもの‥‥眠いだらずよ」
 と、痛ましそうにのぞきこむ声が何人かつづくと、おばあちゃんはぼくをだきおこし、ゆめうつつのぼくを、子ども部屋へとつれこんだ。まっ裸にされ、ごしごしと背中をこすられ、ひんやりと寝巻に着かえさせられたとたん、ぼくは急に「おばあちゃん子」になってしまった。ぼくの手は、あっというまにおばあちゃんのふところへのびて、あたたかい乳房にすがりついた。
「ふんとに、まあ!」‥‥と、おばあちゃんはぼくの手の上に自分の手をかさねて、そっと、寝床によこたえてくれた。そしてそのまま、ぼくの顔をのぞきこんでいたのだろうか。
 やがて、ぽとり‥‥と、ひとしずくが、ぼくのほっぺたへ落ちた。「おやげねえ(かわいそう)こと‥‥坊のかあさんも、こんなにはやくとうさんをあの世へ呼びよせて‥‥」と、おばあちゃんは、ひっそりとつぶやいた。けれどもすぐ、「今夜は、こうしてはいられねえんだわい」と、ぼくの手を乳房からふりほどくなり、その部屋を出ていってしまった。
 とつぜん、大きく広い暗やみのなかに、ぼくはひとりになった。やみは、はてしなく玉虫色の流れとなり、渦となり、ぐるーんぐるーんとまわりはじめた。その真んまん中へ、放りだされたように、ぼくのからだもまわりだした。ああ、まわる、まわる、まわる‥‥ぼくは両うでを左右にひろげて、その渦の輪に乗っていた。すると、その渦の中心から、くるくるとまわりながら、踊りでるように、ぴょこん、と、生まれでたものがある。それが《その子》であった。
 生まれでた《その子》は、その勢いで、玉虫色のやみの中を走りだした。〽トオシャオ、トオシンシャオ、デンデコデコデコ、サーイ。トオシャオ、トオシンシャオ、デンデコデコデコ、サーイー‥‥その子のあとを追いかけるように、あのなつかしい「さかき祭り」の太鼓と笛のはやしがつづく。
 その子は裏山の雑木林をかけぬけると、街道を見おろす山腹のあずま屋へとたどりついていた。そこからは眼下に流れる鹿曲川の川音もきこえ、この流れに沿う道も、道を行く人びとも、冬木立ちをすかして、くっきりと見渡すことができるのだった。あずま屋のてすりにまたがって、その子は、この道を、用心ぶかく見おろす。──と、川上の橋をわたって、トテトテタアとラッパを鳴らしながら乗り合馬車があらわれた。その馬車には、とうちゃんが乗っているはずだった。だが、乗客の顔はみんなのっぺりとしていて、見分けがつかない。たしかめようとして、その子は身を乗りだした。馬車はぐんぐん遠ざかる。とうとう、その子は街道へと、山をかけ下った。その間に、馬車は、ずうーっと遠のいてしまった。「とうちゃーん、とうちゃーん!」と、その子は馬車を追う。
 いつのまにか行くてをもやがとざし、あっというまに、もやは玉虫色の暗やみとなり、かき消えてしまった馬車のほうへ両手をさしのべて、叫びつづけるその子の声だけが、いつしか泣き声となっていた。

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 泣いたのは《その子》で、ぼくではなかった。佐久のおばあちゃんが子ども部屋をぬけ出たすぐ後で、ぼくはもう、ひるまの疲れで、ぐっすりと寝ついていたはずだ。けれども翌朝、おばあちゃんに言わせると、ぼくの枕はびしょぬれになっていたという。夜なかに、何度も「とうちゃーん」とわめいたという。ほんとうだろうか?
 だいいち、おとうさんその人に向かって、「とうちゃん!」などと声をかけた記憶なんて、ぼくにはまったくない。幼い日に、あのあずま屋から、街道を遠ざかっていった乗り合い馬車を見送ったときだって、ぼくは仲よしのタカシちゃんとともに「ばんざーい」と叫んだほどだ。
 ぼくが三歳のときのこと。ぼくの家では十二番目の子どもが生まれた。そのお産がもとで、とりのかあさんが亡くなった。生まれたての赤ん坊は、ほどなく近くの魚屋さんへ養子にもらわれていった。十一番目のぼくは、かあさんの里へ預けられることとなった。それが、佐久のおばあちゃんの家であった。
 おばあちゃんも、十二人の子だくさんであったが、ちょうどそのころ、子どもたちはみんな東京へ働きに出たり養子や養女に出されてしまって、おじいさんと二人だけの淋しいくらしであった。たくさんの子どもを育てた人の心には、育てても育ててもなお育て足りないような思いが満ちあふれているものだろうか?──おじいさんときたら、他人の借金の面倒を見すぎて、今では自分がびんぼうになっていたが、いつも二コニコとお酒をのんでいた。おばあさんときたら、朝から夜まで人待ち顔に布団を干したり、煮ものを焚いたり、お茶番をしたりしていた。
 蓼科山から流れ出て、やがて千曲川へと合流する鹿曲川に沿う旧い宿場町の一つ、望月の家並のちょうど真ん中のあたりから小路を川すじへぬけると、中之橋がある。子どもが渡ってさえも、とんとんと陽気な板音をたてるほどのこの木の橋を渡りおえれば、待ち構えていたように、「これさ、お寄りなんしゃ」と声のかかる出格子の一軒が、このおじいさんとおばあさんの家であった。
 この家の前を通りぬけて五十メートルも行くと道は急な坂にかかり、十五分も息せき切って登りつめると、たちまち、ゆるやかにはるばると、御牧が原の段丘がひらけている。山仕事も、畑仕事も、花摘みや山菜採りも、その台地にはかぞえ切れないほどしまいこまれていた。盆花を摘んできた人も、きのこを採ってきた人も、地梨(ボケの実)を仕込んできた人も、帰り道にはきっとこのじいさんばあさんの入り口の客となり、その収穫のほんの一部を分けおいて、あれこれと話の花を咲かせていたものだ。
 いつしか、おじいさんはこの界隈でいちばんの物識りと尊まわれていた。おばあちゃんは、何でも聞き役で、ここで話し込んだ人は誰でも、すうっと、はればれとした顔つきで帰って行くのだった。ぼくまでが、この家のお客さんたちのアイドルだったのだろう。
「坊は女の子かと思ったら、なあんだ、ちんぼがついとんなさる」
 と、からかうおばさんがあった。ぼくの上に三人もつづいて女の子が生まれていたので、おとうさんは、つぎに生まれた子は女の子として育てますから、どうか男の子をめぐんで下さい、と、善光寺に願をかけたらしい。おかげでぼくは女の子のように、ふさふさと髪をのばして育てられていた。
 どうやらぼくは、そんな女の子めいた姿が気に入っていたらしい。だいいち、銭湯へ行くのにも、おばあちゃんといっしょに、おおいばりで女湯へ入ることができた。男の子たちといっしょにでかけても、ぼくは平気で女湯ののれんをくぐりぬけ、男の子たちはうらやましげに、そんなぼくと分かれてしぶしぶ男湯のほうへ行くのだった。
 この望月という旧い宿場町は、まゆの売り買いに遠方からも男衆の集まってくる中心地で、そんな男たちのために、鹿曲川沿いには二軒の鉱泉旅館もあった。仲之橋をはさんで対岸には「鳩の湯」、こちら側には「松乃湯」と、料亭を兼ねたこれらの風呂屋さんは、夕ぐれまえの午後のひととき、女湯のほうは土地の芸者さんたちで賑わい、男湯のほうは未だ学校にも行けないちびどもの社交場となるのだ。
 おばあちゃんときたら、こんな時刻にたっぷりと湯につかりながら、芸者さんたちの苦労話を聞くのが好きだったのだろう。女衆もおばあちゃんによくなついて、みんな背中を流しあうなかだった。いつしかぼくは、こんな芸者さんたちのアイドルとなっていたのだろうか。彼女らはうばいあうようにぼくをつかまえると、その股の間にぼくを寝かせ、たっぷりとシャボンの泡でつつみこみ、仰向けに眼をつむらせたぼくの顔面を用心ぶかく除けるように、お河童の髪を洗ってくれる。そんなとき、ふと、ぼくのほっぺたや瞼に芸者さんの乳房のサクラ色の匂いがふれたりする。
 ところが、そんなひそかなよろこびのひとときが奪い去られるような大事件が生じていたのである。いつしかぼくは、三年以上もこの佐久の地で育ち、近づく春には、学校へ上がらねばならなくなっていた。そのためには、馴れ親しんだお河童にさよならをして、くりくり坊主にならねばならないというわけだ。近く上田市のおとうさんが、ぼくを連れにやってくることとなった。
「やあだ、やあだ!」と、それをおばあちゃんから聞いた日、ぼくは一日じゅう泣きべそをかいていた。けれどもその日は、ぐんぐん迫り、ついに、ほんとうに、おとうさんはやってきた。ぼくは、坂上のタカシちゃんの家へ逃げこみ、ふたり愛用のグミの木に登って、あの馬車のやってくる街道すじの下の橋を見張っていた。そしてにくらしい馬車の姿をみとめると、すぐ裏山のあずま屋へと逃げこんでしまった。
 タカシちゃんのおかあさんが、仲良しのふたりのために、おにぎりを運んでくれたりした。ぼくたちは、あずま屋の縁の下へもぐると、そのさらさらとした砂に無数にあるアリ地獄の穴の底を、松葉の先っちょでつんつんとつついたりして遊びほうけていた。
 そんなぼくの気配を察してか、おとうさんはすぐに、次の上りの馬車で帰って行った。ぼくたちはその馬車が、川下の城光院の杉木立の向こうへ消えてしまうと、勝ちほこったように「ばんざい」を叫んで、わが家へもどってきたものだった。《その子》のように、「とうちゃーん」などと、叫んだりはしなかった。
 けれども、学校へ上がる日の近づくのにつれて、おとうさんは、ふたたびやってきた。もちろん、ぼくは、タカシちゃんの家へ逃げこんで、そっと息を殺していた。どうやら、かんじんのおばあちゃんが、ぼくを手放すことをためらってもいたのだろう。長女のとりのさんの末っ子を、この望月の学校へ上げたら‥‥というのがおばあちゃんの言い分であったらしい。

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 おとうさんは、ついに、ひとつの計り事をめぐらすこととなった。なにしろこの末っ子については、善光寺さんとの約束がある。この子が七つになったなら、その頭髪を剃り落として、晴れて男の子にもどし、お礼詣りに参上します‥‥とのこと。それを言われると、おばあちゃんの言い分も弱まるのだった。
 今から考えると、七つの男の子なんて、だまされ易いものだ。その善光寺詣りも、ぼくを上田へもどすためのけいりゃくでなかろうか、と、疑いぶかかったぼくの心も、「あのなあ、善光寺さんへ行けば、あのウシノツノみたいなやつを買ってくれるに‥‥」というおばあちゃんの言葉には、かんたんに乗せられてしまった。とりのおかあさんのすぐ下の妹で、となり村へ嫁いでいたハルヨおばあさんも付きそって、ぼくたちはいそいそと、馬車に乗り、汽車にのって、善光寺詣りに出かけたのである。
 何しろ子どもの眼にも、そのころの長野の参道は賑やかで、あれもこれも、と、みやげ物が心を奪った。とりわけ、半分ぐらい黒ずんだようなバナナの房が目につく。もちろん、あのころのぼくの事典には、バナナなんていうハイカラなことばはなかった。ただ一度、上田のおとうさんが佐久へおみやげに持ってきてくれた、あの夢のような味を、おばあちゃんもぼくも忘れかねて、いつの日か、あのウシノツノみたいなやつを腹いっぱい食べてみたい、と、あこがれつづけていたわけだ。
 けれどもおばあちゃんは、そのウシノツノを、なかなか買ってはくれなかった。くだもの屋らしい店の前を通るたびに「買ってぇ」とねだるぼくに、おばあちゃんはきまって、 「お詣りがすんでから」と、そっけなく答えると、ぐんぐん長い参道を急ぐのだった。
 その「お詣り」のおごそかな気分と言ったらなかった! それは一生ぼくの心にのこって、仏さまに手をあわせることの悦びを植えつけたのではなかろうか。
──善光寺さんに辿りついて受付に申し出ると、ぼくたちはさっそく奧の間へ通され、本尊さまのすぐ目の前に座ることがゆるされた。ぼくたちの他にも二組の善光寺さんの「申し子」がいて、じっと手を合わせて本尊さまを拝んでいる。そこへしずしずと現れたのが生き仏のような上人さまだ。代々の上人さまはかならず尼さんで、しかも、皇族から天降ってくるのである。そんなありがたいお方のお出ましであるからには、うちのおばあちゃんやハルヨおばさんの頭が、おのずから下がるのもあたりまえであろう。しかもおばあちゃんは、自分の頭を下げるついでに、ぼくの頭をぐいっと押して下げさせた。その下げさせられた頭に、かみそりの刃を当ててくださる。それが「七つ坊主」の儀式なのであった。
 そんなありがたい儀式をさずかったにもかかわらず、おばあちゃんときたら、ものすごい欲張りだった。上人さまが三組の「申し子」の頭にかみそりの刃を当て終わったとたん、それ急げとばかり、ぼくを引きずるように、善光寺さんの本堂をぬけ出ると、先き廻りして、ハ卜の群がる仁王門のあたりで、もう一度、上人さまを待ちうける。長い柄の日傘をさしかけられた紫衣の上人さまの行列は、沿道の左側に居並んだ善男善女の頭に、そろりそろりと、お数珠の房をふれてやりながら進んでくる。
 おかげでぼくたちは、もう一度、上人さまの祝福をさずかることができた。が、なんとおばあちゃんときたら、その祝福を更にもう一ペん受けようと、沿道を走りに走って、とうとう三度目の祝福を受けることに成功したのである。そしておばあちゃんは、死にぎわまで、ぼくのために、そのことを自慢した。
「何しろ坊は、善光寺さまのお数珠を三度もいただいたんだもん、どんなことがあっても、へこたれるもんではないぞいな!」
──このおばあちゃん宣言は、いまもぼくの胸に炎のように燃えている。ぼくの、楽天主義のもととなりつづけている。
 これだけの儀式を耐えぬいたあげくに、ぼくはようやく、あこがれのウシノツノにありついた。善光寺さんの境内の参道でこのトロピカル・フルーツを買ってくれたおばあちゃんは、その一本をぼくにむしってくれながら、けれども、こうつけ加えることを忘れなかった。
「坊よ、こんねにうんまいもんは、一ぺんに二本も食べると、子どもは腹をこわすもんじゃぞい」
──これは、ぼくの生涯の信条となった。

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 ところで、このあとに、たいへんな悲劇がつづくこととなった。
 善光寺さん詣りがすんで、ぼくたちは上田のおとうさんの家まで帰ってきた。そのぼくを目を見張らせるようなすばらしいものが待ち受けていた。ぼくのおとうさんが、いんぼうをたくらんで、ぼくたちを待ちかまえていたのだ。──おとうさんときたら、二度も三度も佐久へきてみて、ぼくとおばあちゃんの結びつきの固さにおどろいたにちがいない。よっぼどの工夫をこらさなければ、わが末っ子を取りもどすことはできないだろうと考えないわけにはいかなかった。
 そのあげくに思いついたのが、上田の中庭に「坊のための望月」という箱庭を作ってやろうということであった。もちろん、その心の奥底には、早死にしてしまったとりのかあさんの出生の地をそこによみがえらせてみたいという思いが、ひそんでいたのであろう。ともあれ上田へ帰りついたぼくの眼の前に、すばらしいメルヘンーランドがくりひろげられていたのである。
 その箱庭は、たちまちぼくをとりこにした。ほんの一坪ほどの地面にすぎないが、その土地の一方には神秘的な蓼科山がそびえ、他の一方には、かの浅間山が、ゆるやかな傾斜を見せている。その頃にはもちろん、あの名高い《望月小唄》なんてものはまだ生まれてはいなかったのだけれど、その小唄の文句を先どりしたかのように、〽南たてしなヤレ北ではあさまァ 峡(あい)の望月や駒の里‥‥(ヤーレンスッチョコ、ションガイナア、ヤレコレスッチョコションガイナアと、おハヤシがつづく)と、あのあたり一帯のパノラマが、みごとにくりひろげられていた。その真ん中にくっきりと流れているのが、まぎれもなく鹿曲(かくま)川なのであろう。その水源に当たる細いゴム管栓をゆるめれば、たちまち水は流れだし、こんこんと流れ流れて、ついに千曲川の本流に合わさるのである。
 もしかすると、おとうさんの胸の底には、その昔、この川沿いの道を馬の背に揺られ揺られて田中まで十ニキロ、そこで上田からお迎えの駕籠に乗り変えさせられて更に十五キロ、はるばると嫁いできたとりのかあさんの姿がよみがえっていたのかも知れない。その花嫁を迎えた日の二十二歳の青年の心になり切って、こんな箱庭づくりに熱中したのかも知れない。その後この遠い道のりを少しでも近づけようとして、今しも小諸から布引へ、布引から望月へと、計画が進められている軽便鉄道の、そのレールまでが敷かれ、駅の信号機までがそなえられているありさまなのだ。──思わずぼくは熱中してしまった。
 翌朝も、おばあちゃんに起こされるまでもなくぼくは目ざめ、大きなモクレンの根方へ勢いよく小便をすませると、さっそくその箱庭に心を吸いよせられていた。村の家々がある。橋をかけることもできる。馬や牛がいる。犬もいる。にわとりもいる。‥‥それらをいろいろと置きかえて見るのにつれて、望月のあの辺りが、自由によみがえる。あっ、あの川上の岩場のおいなりさんの、赤い鳥居までがあるではないか!
 空腹も忘れ、洗面も忘れたまま、ぼくはどれほどの時間を、その箱庭で遊び呆けていたのだろう。ふと、余りの空腹に、いきなりお勝手へ駈けこんでみると、佐久のおばあちゃんがいない。ハルヨおばさんもいない。姉ちゃんたちは、みんな学校だ。‥‥ぼくはあわてた。寝室を開けてみた。が、いない。離れの部屋ものぞいた。いない。湯殿までものぞいてみた。いない。──とつぜん、ぼくはけいりゃくにひっかかった、と思った。
 おばあちゃんたちは、ぼくが箱庭で遊んでいる間に、そっとおとうさんが呼んでくれた人力車に乗って、駅へ行ってしまったのだ。そう考えついたとたん、ぼくは土蔵の前で、じっとくちびるを噛んだ。ぼくは、泣かなかった。泣くもんか、泣くもんか、と、思いつづけていた。

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 いま十歳にもなったぼくの心に、あの日のぼくがよみがえる。あのモクレンの葉が、今は箱庭の上に大きな日影をつくっている。おとうさんの葬式の準備のために、先ほどから家じゅうがざわめいているのだけれど、ぼくだけはひっそりと、この中庭の縁側の陽だまりで箱庭をみつめている。あの日のだまされたようなくやしさが、そのくやしさのままでよみがえりながら、そのすべてが甘くなつかしい。
──けっきょくおとうさんは、おめえが、かわいくてかわいくて、しかたなかっただなあ。
──あの日、いちばん泣いたのは、おばあちゃんだらずよ。おめえを上田なんかへ残して帰るのがかわいそうだと、人力車の上でも泣き通しでいたっつうぞい。
 ふと気がつくと、ゆうべ玉虫色の闍の中にあらわれた《その子》が、いつのまにか、ぼくに寄りそって語りかけている。ぼくは不機嫌にひざこぞうをかかえこんで、だまりこくっていた。
──とりのかあさんが死んでから、だあれも晩ごはんをいっしょに食べてくれようとはしないだもの。どんねに、おめえといっしょに、まんま食べたかったか‥‥。
 そうだ、おとうさんは毎晩とくべつのごちそうで、奥の部屋で、ちびりちびり酒を呑んでいたっけ。ぼくたち小さいきょうだいは、こわいものでも見るように、障子のすきまからそっとのぞいて見るのだが、ふと、おとうさんに手招きされたりすると、「うわあっ!」と、逃げてしまうのだった。
──おぼえているかい。おめえがまだ三つぐれえの頃だに。とりのかあさんが、毎晩つきそって、お酒をついでくれる。おとうさんのひざには、おめえが乗っかってさ、ときどき、おちょこをなめさせられたりすると、おめえは苦い顔をする。とりのかあさんが、そんなおとうさんをたしなめる‥‥。
 うん、おぼえている、と、ぼくは思わずうなずいてしまった。当時の、うすぐらい電燈の光の輪の中に、一対の夫婦と一人の男の子の夕餉のありさまが、シルエットのように浮かび出る。いつしか、ぼくの瞼にはぼうっと太陽のしずくが宿って、もう何も見えなくなってきた。泣くもんか、泣くもんか、と、《その子》に背を向けようとしたとたん、すうっと、肩ぐちを風が通りすぎたように、もう《その子》はいなくなっていた。かわりに佐久のおばあちゃんが立っていて、葬式用の着換えをするように、と、さいそくしているのだった。
 おばあちゃんの前にまっすぐに立たされて、つんつんと袖を引っぱられたり、きゅっきゅっと帯をしめっけられたりしながら、ぼくはふと、つぶやかずにはいられなかった。
「ふんとかなあ、おとうさん死んだの‥‥」
 そうつぶやくぼくの心には、人の死の悲しさも、訣れのつらさも、まだほんとうに宿ってはいなかった。ほんとうの悲しさも、淋しさも、もっと日がたつのにつれて、じわりじわりと、後からやってきた。

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▲感謝をふたつ▼
一戦後すぐ一九四七年に私は理論社を創業して出版人としての歩みを始めました。以来五十年、このユニークな社業を支えつづけてくれた多くのスタッフたちが、この《千曲川》の出版を、理論社創業五十周年記念事業の一つに加えてくれるとのことです。こんな形で新しい出版の激流に参加させてもらったことは最大の喜びです。
■この作品の第四章までは郷里の児童文学雑誌季刊『とうげの旗』に連載されました。その後あらためて積好信氏主宰の『草の葉』誌に求められるまま一回に三章ほどずつを分載しました。いずれも、晩年の私の創作力を考えて、若い仲間たちが伴走してくれたことによるものです。おかげでどうやら完走することが叶いました。記して心からのお礼を申しあげます。                        小宮山量平

小宮山量平(こみやまりょうへい)
1916年長野県上田市に生まれる。東京商科大学(現一橋大学)商学専門部卒業後、旭川で軍隊生活をおくる。賍戦後、1947年出版活動を志し理論社を創業。長年にわたって編集者として活動をつづける。著書に『チャップリンー笑いと涙の芸術家』(岩崎書店)『良寛さ』(理論社)『編集者とは何か』『子どもの本をつくる』『出版の正像を求めて』(いずれ心日本エディタースクール出版部)『昭和時代落縲拾い』(週刊上田新聞社)『戦後精神の行くえ』にぶし書房)など。

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