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ロシアの音楽家 政治とのはざまで  吉田純子



 ロシアの音楽家 政治とのはざまで        吉田純子

 ロシアのウクライナ侵攻が、クラシック音楽の世界にも深刻な影響を及ぼしている。プーチン大統領との関係が深い世界的指揮者のワレリー・ゲルギエフ氏は国外のほぼ全てのポジションを失い、他の多くのロシア人音楽家までが演奏の煬を奪われかねない事態に陥っている。ロシアという国固有の政治と芸術の特殊な関係性も、こうした世界の流れを加速させている。

 ゲルギエフ氏は、帝政時代に起源を持つマリインスキー劇場の芸術監督兼総裁を務める、現代のロシアで最も影響力のある芸術家だ。軍事侵攻が始まった2月24日、ウィーンーフィルハーモニー管弦楽団によるニューヨーク公演の降板が発表された。ミラノ・スカラ座も同氏に公演の降板を要求、スイスの音楽祭の音楽監督やミュンヘン・フィルハモニー管弦楽団首席指揮者の職も解かれた。

 所属事務所の社長も2月27日、同氏の解雇を発表し、「戦争を起こした独裁政権に、直接的にも間接的にも利することを知りながら、拒絶の意を示さない芸術家にプロ(のマネジメント)としてこれ以上奉仕することはできない」との声明で立場を明確にした。

 プーチン氏のウクライナへのこだわりは、芸術への コンプレックスに近い崇拝に導かれた、ゲルギエフ氏との友情関係の中に透けて見える。ウクライナはピアニストのホロビッツ、ギレリス、バイオリニストのミルシテインら、数多くの大芸術家が輩出した芸術の国だ。なかでも首都キエフは、「9世紀にキエフ大公国が成立して以降、ロシア とウクライナの双方を含む東スラブの文化芸術のアイデンディティーの根源で、ロシア人の精神的支柱でもあり続けてきた。日本における平城京や平安京のような存在」と音楽評論家の片山杜秀さんは指摘する。

 2014年のソチ五輪の開会式と閉会式は、ゲルギエフ氏の率いる豪壮なオーケストラやピアノの響きに彩られた。しかし奇しくも大会終盤、ウクライナで親ロシア派の政権が崩壊し、大統領が亡命するという事態が起きる。現地にいたロシア文学者の亀山郁夫さんは、閉会式会場のスクリーンに大写しになったプーチン氏の憔悴したような表情が忘れられないという。

「文化とスポーツを通じて現在のロシアの輝きを誇示し、旧ソ連が体現していた精神的な一体性を西側に示し、自らの魂の在りかともいえるウクライナをいま一度「家族」として抱擁したい。ソチ五輪はプーチンにとって、そんな意思を世界に宣言する絶好の機会だった。しかしその最中に、「家族」であるはずのウクライナから、のど元に刃をつきつけられる格好になった。この時の衝撃が妄執となり、今回の決断の遠因となった可能性も少なからずある気がしてならない」

 プーチン氏は2000年に大統領に就任すると、ソ連崩壊後の財政難と人材流出にあえぐ音楽界へのてこ入れを優先課題とした。そして西側諸国と積極的に交流し、旧態依然とした国内の音楽界の構造改革にまい進していたゲルギエフ氏に芸術復興の期待をかける。

 その手腕は傑出していた。才能ある歌手や演出家を自ら発掘し、西側の劇場に共同制作をもちかけ、制作費を折半しつつ、西側のノウハウや人脈を入手する。さらには日本のNHKや英国のBBCなど、世界各地の放送局と密接につながり、世界に自分たちの理念を理想的な形で拡散することに成功した。大レーベルと制作したCDやDVDも売り上げを伸ばした。

 天賦の芸術的才能、時代の流れをつかむ勘、ビジネスマンとしての嗅覚。すべてを携えたゲルギエフ氏は、グローバル時代の音楽界の寵児として、ロシアのみならず西側でも存在感を示すようになってゆく。

 歴史的にも、ロシアで名を残した芸術家は、あまねく「政権下の音楽家」と 「自由な音楽家」という二つの仮面を付け替えながら生き延びざるを得なかったと片山さんは述べる。代表格が「十月革命に捧ぐ」 「1905年」 「レニングラード」 「バビーヤール」といった政治色のにおうテーマを交響曲にまとわせつつ、己の魂に妥協のない表現をしたたかに模索してきたショスタコービチだ。

 ゲルギエフ氏の故郷は、ロシア南端に位置する自然豊かな地、北オセチアである。2004年に同地の学校で起きたチェチェン独立派によるテロ事件では、186人の子供を含む300人以上が犠牲となった。直後に行われたウィーンーフィルとの公演で、同氏は涙を流しながらチャイコフスキーの交響曲第6番「悲愴」を指揮したという。

「音楽を武器にして、世界中の戦争を止めたい」。北と南に分断された故郷で紛争が起きるたび、ゲルギエフ氏は人道支援を呼びかけ、力強くこう囗にした。ロシアの攻撃によってウクライナの無辜の民が血を流している状況を、ゲルギエフ氏自身もまた、複雑な思いで見守っているのかもしれない。率直な思いの表明は未だになされていない。

マーク


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