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君は、私たちにいつも勇気を与えてくれる人だった

弔辞  唐牛健太郎を悼む  島成郎

 
 その時から、唐牛健太郎の第二の闘いが始まりましたが、彼は六〇年安保の輝ける全学連委員長という経歴に全くとらわれることなく、すでに過去となった政治体験にいたずらに固執することもなく、つねに前を向き、しかもいつも何かを求めて歩みをとめませんでした。一九六三年四月、今日まで深い親交が続いている田中清玄氏の主宰するエネルギー・コンサルタント企業に入り働きました。
 
 田中氏のもとで仕事をしたことをもって、マスコミや左翼諸政党派は、「右翼への転向」とか「六〇年安保の黒い霧」とか下劣な噂をまきちらしましたが、唐牛も田中氏もそんなケチくさい人間ではありませんし、その交わりもそんな低次元の水準のものでもなかったことは、二人を知るものにとって明白でした。
 
 一九六六年五月、一転して、当時太平洋をヨットで独り横断する快挙をなしとげた堀江謙一氏らと「レッツ・ゴー・セイリングクラブ」なるヨット会社を設立しました。またその後東京・新橋の居酒屋「石狩」の主人などをしていましたが、一九六九年、忽然と東京を去り、最南端の島、与論島に真喜子夫人とともに渡り、土木工事や、サトーキビ刈りにたずさわる日々を送りました。
 
 そして一九七〇年には北上し故郷の北海道に赴き、七一年北の最果て、紋別に居をうつし、以後約十年にわたり北海道の荒波で漁を挑む漁師の生活を続けました。
七八年、母親の清さんが病に仆れたのを機に郷里の函館に戻ってこの看護にあたりましたが、七九年お亡くなりになったお母様を葬ったのち、八一年一月、ふたたび期するところあって上京し、友人柴田氏の経営する会社エルムに入り、コンピューターのセールスに励みました。
 
 このように二年間、日本列島の南から北まで居をかえ、さまざまな職を転々とした唐牛の姿は、人さまざまにうつったことでしょう。しかし唐牛は、世をすね、社会に背を向け彷徨する流浪の旅人では決してありませんでした。彼はサラリーマンとして、経営者として、労働者として、漁師として、そのときどきの生活をいつも精一杯真摯にいきました。
 
 そして一緒に働いた人々を愛し、また彼らに愛されました。唐牛健太郎は、まことに優れた生活者であったと私は思います。しかも、たくましく、しっかりと生活しながらも、どんな場にいても、自分が生きている日本の社会の現状とあり方を鋭く見据えることを止めませんでした。そして青春の情熱と感性はいささかも衰えることなく、彼の生き方には若さが漲っていました。
 
 再度の東京での生活のある日、医療革命を唱えて全国を駆けめぐり奮闘している徳洲会・徳田虎雄氏とのであいがありましたが、氏と気、通じあい、期することのあった唐牛は八二年三月、この医療社会事業に自ら加わるとともに、自分の社会・政治運動を構想するために「絃燿社」を一人設立しました。
 
 再び東奔西走する日々が続きましたが、徳田虎雄氏が政治に挑戦するべく立上ったのを応援するため、奄美の喜界島にうつり、島の人々と生活をともにしながら熾烈な闘いを続けていました。そしてその最中、運命の日がやってきたのです。八三年二月、体調の不振を予知した彼は、沖縄の徳洲会病院に入院しましたが、全検査を終了した夜、病院を抜け出し那覇のある酒場で私と二人、飲みあい、静かに語りあいました。
 
 その翌、二月二十四日「やっぱり癌だったな。こいつとしばらくつきあわなければならんから、これから東京へ行く」といつもの調子で淡々と電話で話した後すぐ上京しました。この日から唐牛健太郎の最後の戦いが始まりました。


 
 

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