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著作権という有刺鉄線

 夥しいホームページやブログが、インターネットのなかにまさに大海のように貼り付けられているが、大半が伝言板か掲示板か広告板か、あるいは落書き帖といった程度のもので、それらのなかを探索するときなにやら荒廃の海を漂っているような思いにとらわれる。荒廃の海をつくりだしている程度のホームページなのに、あちこちに無断転載禁ずるというクレジットが打ち込まれているのが目にとまる。著作権の主張である。

 インターネット上にそれなりの作品を載せると、たちまち転載され、悪用され、それで一儲けされたりする怖ろしい世界であるから、まずクレジットを貼り付けて固くガードしてから乗り込むべきだというパターンができているからなのだろうが、しかし果たしてこのガード、どれほどの効果があるのだろうか。なにやらそれは大河の流れを笊でせきとめんとするようなもので、いまもどこかで夥しい人間が、無断転載禁ずるというルールを無視して転載している。

 スクリーンにあらわれる文章やイラストや映像は、一瞬にしてそれぞれのコンピュータに転載される。そしてそれらの文章やイラストや映像なりを、自分の創造であると発表したり、あるいはそれらの作品を巧妙に加工偽装して、販売ルートに乗せてひと稼ぎする場合だってある。だからこそ著作権をより厳しく徹底して、無断転載禁ずるというルールを侵犯した人間は、どしどし摘発して刑事処分すべきだということになる。 

 しかしそんなことができるのだろうか。いまやインターネットの世界は海そのものである。これほどの広大な世界で、日々刻々と大量に発生している転載禁ずるのルール破りを、監視し摘発していくシステムなどできるわけがない。それが現実的に不可能だから、せいぜい無断転載禁ずるというガードをして、訪問者の人間性といったものに訴えているということなのだろうか。 しかしそうなのだろうか。そういうことなのだろうか。そもそもこのインターネットとは、転載していくシステムとして開発されてきたのではなかったのか。転載せよ、どんどん転載せよ、転載の輪を世界の果てまで広げよ、と。これがインターネットの思想でありシステムではないのか。

 WWWは、一人一人のもつ情報を他者に伝達するためのシステムとして開発されていったのだった。一人一人の人間のもつ情報には限りがある。しかし多数の情報を繋ぎ紡ぎあうとき、そこに大きな波動が生まれ、巨大な権力に対峙したり、より深い創造がなされたり、さらには社会を変革していくムーブメントだって起っていく。その装置とシステムをめざしたのだ。 換言すると、インターネットとは、旧大陸でつくりだされた転載禁ずるというルールを打ち破るために開発されてきたということになる。転載禁ずるというルールを打ち破れ、どんどん打ち破って世界をつなげよ、と。とすると、この世界に踏みこんできて、そこに無断転載禁ずるという看板を立てることこそルール違反ということになるのではないのか。WWWの思想を卑しくゆがめていくこの人物こそ、ルール違反で摘発されなければならないということになる。 

 著作権という思想が生まれたのは旧大陸でだった。旧大陸に登場してきたシステムだった。その思想とシステムをこの新大陸に持ち込んできたのだ。しかしそこに大きな無理と矛盾がある。WWWは旧大陸でつくられた著作権を打ち破るという思想とシステムをその根底に宿しているのだ。したがってこの新大陸では、この著作権をまったく新しい思想とシステムによって再創造していかねばならぬということになる。

 新大陸に上陸し、この大陸の最深部に広大な森林づくりをはじめている「草の葉」に、次第に見えてくるものがある。それはこの新大陸における著作権は、どうも草の思想によって成り立つのではないのかと。草の論理であり、倫理である。草のシステムである。生命力をもたぬ草はたちまち枯れ萎む。その年はかろうじてその生命を耐えたとしても、冬の到来とも消え果ていく。 しかし生命力をもった草は、地中で次なる世紀の種子を懐胎させ、春とともに新生の芽を吹き出し、またたく間に広がっていく。どんどん広がっていく。世界の果てまで広がっていく。草とは何か。草とはこの地上を覆う神のハンカチーフである。「草の葉」は、この草の論理と倫理とシステムに立って編集されている。

 したがって「草の葉」は、無断転載禁ずるというけちくさい看板など貼り付けない。転載自由である。許諾をとる必要もない。思考にいきづまった大学教授が、「草の葉」から盗用して独創的論文として仕立てるのも自由である。いつも安っぽい腐ったようなコラムを書いている大新聞の論説委員が、「草の葉」の文章を寸借して、きらりとその文章を光らせるのもまた自由である。 いや、盗用とか寸借とは失礼な表現であった。そうではなくそれは草の生命力がもたらした技だった。地上に生きる人々から、さらに天上に生きる人々から投稿されてくる作品によって成り立つこの驚くべき雑誌「草の葉」に著作権などない。世界に広がらんとする草を、どうして著作権などという有刺鉄線で囲う必要があるのか。


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